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ある女の門出
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それから約ひと月、いまだ久秀は戻らないまま大黒屋三朝太夫を見送る日がやってきた。
久秀の代わりに見送ってほしいと三朝からの伝言を受け、咲良は一張羅を着て新之助を連れて大門の外に並んだ。
仲見世とはいえ太夫を張った女の旅立ちである。
どれほど華やかなのだろうと思っていたが、迎えの男の後をついてぽてぽてと歩いてくる。
咲良の横にいたお嶋は慣れたものなのだろう、どうという感慨も見せずただ見守っていた。
いざ大門を出ようとした時、わらわらと人が出てきて三朝を取り囲む。
「姐さん、お元気で」
「二度と戻ってきなさるなよ」
「お世話になりました」
それぞれが思い思いの言葉を掛けている。
「ああ、ありがとうね。世話になったね」
苦界の中を、その美しさと知恵で泳ぎ切った三朝太夫が、あと一歩で市井の女に戻る。
その瞬間に立ち会えたことを、咲良は一生忘れないだろうと思った。
「きれいな方ですね」
「ええ、本当におきれいな方ですね」
薄化粧だけの三朝太夫をきれいだと表現した新之助。
「よぉ~お!」
誰かの声に気が揃う。
空気を清めるようなただ一度のパンッという音と共に、三朝太夫が大門を踏み出した。
中からも外からもパチパチと拍手が起こり、三朝太夫が照れながら振り向いた。
「今からあたしはお朝です。皆々様どうぞお元気で」
その晴れやかな顔は、彼女が舐めてきた苦労を感じさせないほどに清々しい。
咲良はお嶋の横でそっと頭を下げた。
「あれぇ、あなた様が久様の奥方様かね。さすがにきれいなお人だ。敵うわけなどありゃしないねぇ」
お朝と名を変えた女の言葉に戸惑う咲良。
「あなた様が新之助様だね? なるほど賢そうだ」
事情など知らない新之助がいつものように武家の子供らしい挨拶を述べる。
「安藤新之助と申します。いつも菓子を届けて下さりありがとうございました」
「なんのなんの。あれほどのことしかできず、お恥ずかしい限りでござんすよ。どうぞこれからもお父様とお母様の言いつけを良く守って、立派な大人になっておくんなさいましね」
「はい。お朝様もどうぞご壮健に過ごされますよう、心よりお祈り申します」
頷いたお朝が咲良を見た。
「奥様、長々と私の愚痴に付き合ってくださった旦那様に、どうかお礼をお伝えくださいまし。それにしても久様は奥様のことが大好きですねぇ。羨ましかったですよ」
咲良は何も言わず笑顔だけで応えた。
「私は富士屋の大番頭又造の妾となって、本所の南町に家を貰いました。ここからなら歩いてもすぐですから、時々遊びに伺ってもよろしいですか? もちろん下心なんぞ持っちゃいませんからご安心を。むしろあたしは奥様にお会いしたいのでございますよ」
「私にですか?」
「ええ、どうやったらあそこまで亭主に惚れ抜かれるのか教えて戴きとうございます。それにお料理やお裁縫もね」
「あらあら、そういう事でしたらいつでもお待ち申しております。落ち着かれましたらお知らせくださいませ。生憎安藤はまだ戻っておりませんが、戻りましたらお朝様のことは一番にお伝えいたしましょう。会いたがると存じます」
「そう言っていただけると今日からの不安も吹き飛ぶというものだ。ありがとう存じます」
後ろから迎えの男が声を掛けた。
「姐さん、そろそろ」
「ああ、待たせたね。では行こうか」
小さく頭を下げたお朝が男について歩き出す。
一切口を挟まずにいたお嶋が、その背中に声を掛けた。
「よっ! お朝姐さん!」
その声にチラッと振り返ったお朝の顔は輝いていた。
「行ってしまわれましたね」
新之助が咲良の顔を見上げた。
見上げたといっても、視線を上にあげる程度である。
いつの間にこれほど背が伸びたのかと咲良は改めて驚いた。
「ええ、お行きになりましたね。でも時々遊びに来てくださるそうですよ」
「そうですか、それなら父上も喜びましょう」
お嶋が横で吹き出している。
「ええ、そうですね。父上もお喜びでしょう」
三人で並んで歩く帰り道、時々お嶋に声を掛ける町人もいた。
それに手を上げて応えながら、独り言のようにボソッとお嶋が言う。
「ねえ咲良さん。久さんの商売をどう思う? そりゃ勧めたのはあたしだけれど、こう女たちが夢中になるとねぇ……少し心配してるんだよ。ほら、男ってさぁ可哀想に弱いだろ? 大門の中の女たちは可哀想な子ばかりだからねぇ……久さんも男だし、そのうちに絆されてしまうんじゃないかと思ってさぁ」
咲良は一度目を伏せてから口を開いた。
「そうですか、ご心配をいただいてありがとうございます。でも、私は旦那様のなさることに間違いはないと知っております。もしも旦那様がどなたかに絆されて割りない仲になったとしても、それはそれで理由がおありなのだと思うのです」
お嶋が驚嘆した顔をする。
「そうかいそうかい。そりゃあんた……ものすごい覚悟をお持ちなんだねぇ。男なんてのは心と下半身が別の動きをする低俗な生き物さ。うちの旦那だってそうだよ。お前だけだって言いながら、金に飽かせて他所に女を囲っていやがる。そんな男に振り回されて生きるなんざ、まっぴらだと思っていたけれど……そうかい。そういう風に考えるんだねぇ……感心した」
咲良が恥ずかしそうに俯くと、お嶋がポツンと言った。
「間違いはないと知っているか……信じるっていうよりよっぽど強いね」
咲良は聞こえないふりをして先を歩く新之助に追いついた。
肩を並べて歩く母息子の背を見ながら、お嶋が呟いく。
「久さん、咲良さんが許してもあたしは絶対に浮気は許さないからね」
自分のあずかり知らないところで、妻でもない女から重たい枷をはめられてしまった久秀は、明日は江戸という川崎宿で安宿を探していた。
久秀の代わりに見送ってほしいと三朝からの伝言を受け、咲良は一張羅を着て新之助を連れて大門の外に並んだ。
仲見世とはいえ太夫を張った女の旅立ちである。
どれほど華やかなのだろうと思っていたが、迎えの男の後をついてぽてぽてと歩いてくる。
咲良の横にいたお嶋は慣れたものなのだろう、どうという感慨も見せずただ見守っていた。
いざ大門を出ようとした時、わらわらと人が出てきて三朝を取り囲む。
「姐さん、お元気で」
「二度と戻ってきなさるなよ」
「お世話になりました」
それぞれが思い思いの言葉を掛けている。
「ああ、ありがとうね。世話になったね」
苦界の中を、その美しさと知恵で泳ぎ切った三朝太夫が、あと一歩で市井の女に戻る。
その瞬間に立ち会えたことを、咲良は一生忘れないだろうと思った。
「きれいな方ですね」
「ええ、本当におきれいな方ですね」
薄化粧だけの三朝太夫をきれいだと表現した新之助。
「よぉ~お!」
誰かの声に気が揃う。
空気を清めるようなただ一度のパンッという音と共に、三朝太夫が大門を踏み出した。
中からも外からもパチパチと拍手が起こり、三朝太夫が照れながら振り向いた。
「今からあたしはお朝です。皆々様どうぞお元気で」
その晴れやかな顔は、彼女が舐めてきた苦労を感じさせないほどに清々しい。
咲良はお嶋の横でそっと頭を下げた。
「あれぇ、あなた様が久様の奥方様かね。さすがにきれいなお人だ。敵うわけなどありゃしないねぇ」
お朝と名を変えた女の言葉に戸惑う咲良。
「あなた様が新之助様だね? なるほど賢そうだ」
事情など知らない新之助がいつものように武家の子供らしい挨拶を述べる。
「安藤新之助と申します。いつも菓子を届けて下さりありがとうございました」
「なんのなんの。あれほどのことしかできず、お恥ずかしい限りでござんすよ。どうぞこれからもお父様とお母様の言いつけを良く守って、立派な大人になっておくんなさいましね」
「はい。お朝様もどうぞご壮健に過ごされますよう、心よりお祈り申します」
頷いたお朝が咲良を見た。
「奥様、長々と私の愚痴に付き合ってくださった旦那様に、どうかお礼をお伝えくださいまし。それにしても久様は奥様のことが大好きですねぇ。羨ましかったですよ」
咲良は何も言わず笑顔だけで応えた。
「私は富士屋の大番頭又造の妾となって、本所の南町に家を貰いました。ここからなら歩いてもすぐですから、時々遊びに伺ってもよろしいですか? もちろん下心なんぞ持っちゃいませんからご安心を。むしろあたしは奥様にお会いしたいのでございますよ」
「私にですか?」
「ええ、どうやったらあそこまで亭主に惚れ抜かれるのか教えて戴きとうございます。それにお料理やお裁縫もね」
「あらあら、そういう事でしたらいつでもお待ち申しております。落ち着かれましたらお知らせくださいませ。生憎安藤はまだ戻っておりませんが、戻りましたらお朝様のことは一番にお伝えいたしましょう。会いたがると存じます」
「そう言っていただけると今日からの不安も吹き飛ぶというものだ。ありがとう存じます」
後ろから迎えの男が声を掛けた。
「姐さん、そろそろ」
「ああ、待たせたね。では行こうか」
小さく頭を下げたお朝が男について歩き出す。
一切口を挟まずにいたお嶋が、その背中に声を掛けた。
「よっ! お朝姐さん!」
その声にチラッと振り返ったお朝の顔は輝いていた。
「行ってしまわれましたね」
新之助が咲良の顔を見上げた。
見上げたといっても、視線を上にあげる程度である。
いつの間にこれほど背が伸びたのかと咲良は改めて驚いた。
「ええ、お行きになりましたね。でも時々遊びに来てくださるそうですよ」
「そうですか、それなら父上も喜びましょう」
お嶋が横で吹き出している。
「ええ、そうですね。父上もお喜びでしょう」
三人で並んで歩く帰り道、時々お嶋に声を掛ける町人もいた。
それに手を上げて応えながら、独り言のようにボソッとお嶋が言う。
「ねえ咲良さん。久さんの商売をどう思う? そりゃ勧めたのはあたしだけれど、こう女たちが夢中になるとねぇ……少し心配してるんだよ。ほら、男ってさぁ可哀想に弱いだろ? 大門の中の女たちは可哀想な子ばかりだからねぇ……久さんも男だし、そのうちに絆されてしまうんじゃないかと思ってさぁ」
咲良は一度目を伏せてから口を開いた。
「そうですか、ご心配をいただいてありがとうございます。でも、私は旦那様のなさることに間違いはないと知っております。もしも旦那様がどなたかに絆されて割りない仲になったとしても、それはそれで理由がおありなのだと思うのです」
お嶋が驚嘆した顔をする。
「そうかいそうかい。そりゃあんた……ものすごい覚悟をお持ちなんだねぇ。男なんてのは心と下半身が別の動きをする低俗な生き物さ。うちの旦那だってそうだよ。お前だけだって言いながら、金に飽かせて他所に女を囲っていやがる。そんな男に振り回されて生きるなんざ、まっぴらだと思っていたけれど……そうかい。そういう風に考えるんだねぇ……感心した」
咲良が恥ずかしそうに俯くと、お嶋がポツンと言った。
「間違いはないと知っているか……信じるっていうよりよっぽど強いね」
咲良は聞こえないふりをして先を歩く新之助に追いついた。
肩を並べて歩く母息子の背を見ながら、お嶋が呟いく。
「久さん、咲良さんが許してもあたしは絶対に浮気は許さないからね」
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