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黒鯛の煮つけ
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脱兎の如く逃げ去る五十嵐喜之助を追う宇随と久秀だったが、これ以上は無駄だと思い山城屋に戻った。
別館の玄関で介抱されている富士屋には目もくれず、二階に上がったがすでに三河屋の姿は無かった。
「あのじいさん何者だ?」
「三河屋という廻船問屋っていう触れ込みですよ」
「かなりの手練れだろ。それにあの護衛、あやつは剣より柔術とみたが」
「ええ、私もそう思います。でも剣もそこそこって感じでしょ? 俺が泊まっている宿屋の板場に常駐してますよ」
「何というか……三堀屋は胡散臭いなぁ」
久秀は返事をせず肩を竦めて見せた。
「先輩、どうです? 今からの飲み直しっていうのは」
「ああいいな」
「ああ、そういえばお市さん達は?」
「あそこの煮売り屋にいるはずだ」
久秀は宇随の手回しの良さに舌を巻いた。
「先輩の先読みには叶いませんよ」
「しかしあの場に五十嵐がいるとは流石の俺も読めなんだ」
「ええ……あいつを側から離すということは、もっと強いのがいるんですかね」
久秀の脳裏に正晴の下卑た顔が浮かんだ。
「どれほど強かろうと、俺とお前が組めばなんとかなろうぜ?」
久秀は笑うしかない。
ちょうど表の板戸を締めようとしている三堀屋の女中に遅くなる旨を伝え、宇随と共に煮売り屋の暖簾を潜った。
「いらっしゃいまし」
「連れが来ているはずだが」
「姐さん方だら? お二階でお待ちずら」
美味しそうな匂いに腹の虫が騒ぐ。
「おやじさん、それ何かな?」
久秀の声に顔を上げたおやじの口には前歯が無かった。
「へえ、こいつはナベワリの甘露煮だらよ」
「ナベワリ?」
階段を上がりかけていた宇随が言う。
「お前の国なら黒鯛というのだろう」
「ああ、黒鯛ですか。旨そうな匂いだねぇ。俺は子供の頃、その煮汁が染みた豆腐が大好きでなぁ。冷や飯の上からぶっかけてかきこんだものさ」
親父がニコッと笑った。
「食いなさる?」
「ああ、頼む。それと他にも見繕ってくれ。腹が減ってかなわん」
「へい」
六畳ほどの小部屋に入ると、お市たちが酒を飲んでいた。
もうかなり空けたようで、銚子が数本並んでいる。
「おいおい、大丈夫か?」
宇随がお市の横に座ると、お市が嬉しそうな顔を向けた。
「義さま、ご苦労様でした」
「ああ、予想外の展開だったが悪くない」
二人の女たちが久秀を挟む。
「さあさあ、一献」
「ああ、ありがとう。ご苦労だったね。なかなかの悲鳴だったよ」
これからの事は明日話すことにして、宇随と久秀はゆっくりと酒を楽しんだ。
アツアツの煮魚が運ばれ、濃い茶色になっている豆腐がプルプルと揺れている。
「おう! これこれ! この豆腐が旨いんだ」
「あれえ、ナベワリじゃないか。懐かしいねぇ」
久秀が皿を勧める。
「さあさあ一緒に食おう。俺はこの豆腐があれば、酒なら半升、飯なら三杯はいける。遠慮しないで魚を食ってくれ。豆腐も半分までなら許す」
女たちが艶っぽい笑い声を上げ、宇随は苦笑いをしている。
「ねえ、ナベワリの炊き方ってコツがあるんですよ。ご存じ?」
小太鼓を持っていた若い女が声を出した。
「他の魚とは違うのかい?」
「ええ、最初の手間が肝心でねぇ。ここで手を抜くと臭くて食えたもんじゃないんですよぉ」
「へぇ。江戸に戻ったら妻に教えてやろう。話してくれ」
久秀の口から出た妻という言葉に女たちは顔を見合わせた。
お市がすかさず口を挟む。
「この男前様は奥様にぞっこんさ。寝ても覚めても自分を敷いている女房の尻のことばかり考えていなさるご様子だよ」
久秀は否定もせず笑っている。
言いだした女が煮魚を一箸口にして言った。
「ああ、良い仕事をしていなさる。この魚はナベワリまで大きくなると臭みが出るんですよ。だから捌いたらすぐに腹をきれいに洗うんです。切り身にしたら熱い湯をたっぷりと掛けまわして、もう一度水で洗います。鍋に醬油と酒、生姜と砂糖と塩を入れます。煮立ったら一番先に椎茸、次が牛蒡、そしてお豆腐を入れてコトコト煮るんですよぉ」
「うんうん、聞いただけで旨そうだ」
「豆腐に色が染みたら一旦取り出して、残った煮汁で切り身にゆっくりと火を入れるんです。この時沸騰させないのがコツですよ。汁が少なくなったら出来上がりって寸法です」
もう一人の女が口を出す。
「蓋はせずに周りの煮汁を身に掛けまわすのも大事なのですよぉ」
「なるほどなぁ。よく知っているねぇ」
「そりゃこの辺りの女だものねぇ」
「へぇ、地元なのか」
「ええ、私は漁師の娘ですよぉ」
小太鼓の女が言うと、もう一人の女も声を出す。
「私は百姓の娘で、兄は大井川の渡しをやってますよぉ」
豆腐田楽と稲荷寿司が出て、流石の久秀も満腹感を覚えてきた。
「そろそろ行きましょうかね」
お市が宇随の手を握った。
「おい、安藤。こいつらを送ってやってくれ」
「はい、わかりました」
久秀に送ってもらえるとわかった女たちがキャッキャと喜んでいる。
「先輩、ここは俺が。大丈夫です。三河屋さんに出してもらいますから」
「ははは! そいつはいいや。そういうことならごちになろうよ」
お市の手を引いて店を出た宇随を見送った後、両手に酔い花を咲かせた久秀がぞろぞろと歩き出す。
女の身の上話を聞きながら、何処に行ってもこういう話を聞く役回りだと思いながら相槌を打った。
その頃、江戸で留守を預かる咲良と新之助は……
別館の玄関で介抱されている富士屋には目もくれず、二階に上がったがすでに三河屋の姿は無かった。
「あのじいさん何者だ?」
「三河屋という廻船問屋っていう触れ込みですよ」
「かなりの手練れだろ。それにあの護衛、あやつは剣より柔術とみたが」
「ええ、私もそう思います。でも剣もそこそこって感じでしょ? 俺が泊まっている宿屋の板場に常駐してますよ」
「何というか……三堀屋は胡散臭いなぁ」
久秀は返事をせず肩を竦めて見せた。
「先輩、どうです? 今からの飲み直しっていうのは」
「ああいいな」
「ああ、そういえばお市さん達は?」
「あそこの煮売り屋にいるはずだ」
久秀は宇随の手回しの良さに舌を巻いた。
「先輩の先読みには叶いませんよ」
「しかしあの場に五十嵐がいるとは流石の俺も読めなんだ」
「ええ……あいつを側から離すということは、もっと強いのがいるんですかね」
久秀の脳裏に正晴の下卑た顔が浮かんだ。
「どれほど強かろうと、俺とお前が組めばなんとかなろうぜ?」
久秀は笑うしかない。
ちょうど表の板戸を締めようとしている三堀屋の女中に遅くなる旨を伝え、宇随と共に煮売り屋の暖簾を潜った。
「いらっしゃいまし」
「連れが来ているはずだが」
「姐さん方だら? お二階でお待ちずら」
美味しそうな匂いに腹の虫が騒ぐ。
「おやじさん、それ何かな?」
久秀の声に顔を上げたおやじの口には前歯が無かった。
「へえ、こいつはナベワリの甘露煮だらよ」
「ナベワリ?」
階段を上がりかけていた宇随が言う。
「お前の国なら黒鯛というのだろう」
「ああ、黒鯛ですか。旨そうな匂いだねぇ。俺は子供の頃、その煮汁が染みた豆腐が大好きでなぁ。冷や飯の上からぶっかけてかきこんだものさ」
親父がニコッと笑った。
「食いなさる?」
「ああ、頼む。それと他にも見繕ってくれ。腹が減ってかなわん」
「へい」
六畳ほどの小部屋に入ると、お市たちが酒を飲んでいた。
もうかなり空けたようで、銚子が数本並んでいる。
「おいおい、大丈夫か?」
宇随がお市の横に座ると、お市が嬉しそうな顔を向けた。
「義さま、ご苦労様でした」
「ああ、予想外の展開だったが悪くない」
二人の女たちが久秀を挟む。
「さあさあ、一献」
「ああ、ありがとう。ご苦労だったね。なかなかの悲鳴だったよ」
これからの事は明日話すことにして、宇随と久秀はゆっくりと酒を楽しんだ。
アツアツの煮魚が運ばれ、濃い茶色になっている豆腐がプルプルと揺れている。
「おう! これこれ! この豆腐が旨いんだ」
「あれえ、ナベワリじゃないか。懐かしいねぇ」
久秀が皿を勧める。
「さあさあ一緒に食おう。俺はこの豆腐があれば、酒なら半升、飯なら三杯はいける。遠慮しないで魚を食ってくれ。豆腐も半分までなら許す」
女たちが艶っぽい笑い声を上げ、宇随は苦笑いをしている。
「ねえ、ナベワリの炊き方ってコツがあるんですよ。ご存じ?」
小太鼓を持っていた若い女が声を出した。
「他の魚とは違うのかい?」
「ええ、最初の手間が肝心でねぇ。ここで手を抜くと臭くて食えたもんじゃないんですよぉ」
「へぇ。江戸に戻ったら妻に教えてやろう。話してくれ」
久秀の口から出た妻という言葉に女たちは顔を見合わせた。
お市がすかさず口を挟む。
「この男前様は奥様にぞっこんさ。寝ても覚めても自分を敷いている女房の尻のことばかり考えていなさるご様子だよ」
久秀は否定もせず笑っている。
言いだした女が煮魚を一箸口にして言った。
「ああ、良い仕事をしていなさる。この魚はナベワリまで大きくなると臭みが出るんですよ。だから捌いたらすぐに腹をきれいに洗うんです。切り身にしたら熱い湯をたっぷりと掛けまわして、もう一度水で洗います。鍋に醬油と酒、生姜と砂糖と塩を入れます。煮立ったら一番先に椎茸、次が牛蒡、そしてお豆腐を入れてコトコト煮るんですよぉ」
「うんうん、聞いただけで旨そうだ」
「豆腐に色が染みたら一旦取り出して、残った煮汁で切り身にゆっくりと火を入れるんです。この時沸騰させないのがコツですよ。汁が少なくなったら出来上がりって寸法です」
もう一人の女が口を出す。
「蓋はせずに周りの煮汁を身に掛けまわすのも大事なのですよぉ」
「なるほどなぁ。よく知っているねぇ」
「そりゃこの辺りの女だものねぇ」
「へぇ、地元なのか」
「ええ、私は漁師の娘ですよぉ」
小太鼓の女が言うと、もう一人の女も声を出す。
「私は百姓の娘で、兄は大井川の渡しをやってますよぉ」
豆腐田楽と稲荷寿司が出て、流石の久秀も満腹感を覚えてきた。
「そろそろ行きましょうかね」
お市が宇随の手を握った。
「おい、安藤。こいつらを送ってやってくれ」
「はい、わかりました」
久秀に送ってもらえるとわかった女たちがキャッキャと喜んでいる。
「先輩、ここは俺が。大丈夫です。三河屋さんに出してもらいますから」
「ははは! そいつはいいや。そういうことならごちになろうよ」
お市の手を引いて店を出た宇随を見送った後、両手に酔い花を咲かせた久秀がぞろぞろと歩き出す。
女の身の上話を聞きながら、何処に行ってもこういう話を聞く役回りだと思いながら相槌を打った。
その頃、江戸で留守を預かる咲良と新之助は……
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