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菩提薩婆訶 ぼじそわか
しおりを挟む次の週、ミネタは食品工場にいた。
夜の九時をまわり、操業ラインが停止した工場内には作業員は誰もいず、ひっそりと静まりかえっていた。
ミネタは排水溝の蓋を開け、中をチェックしてみた。
ひと月ごとに害虫駆除の定期点検をしているが、ひと月で相当の汚れがこびりついている。
食品の腐敗臭があれば、害虫は下水道からいくらでも上がってくる。
虫といえども、その嗅覚は驚異的で、己の足跡の臭いを辿り、巣に帰るという。
何十メートルも離れた食品の臭いなど、簡単に嗅ぎ分けられるのだ。
ミネタはいつも通り、害虫の通り道に薬剤を散布した。
シュル、シュル、シュル、シュル。
最後に毒餌を塗りつけて作業を終えた。
ある日、ミネタはいつもの喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
老夫婦が経営している、「ORION 」という店である。
店内には、心地良いジャズが流れていた。
新聞を広げてコーヒーをすすっていると、ある記事に目がとまった。
深い山林の中で、男の腐乱死体が見つかったとの記事だ。
死後数日経っているが、男には蛇に噛まれた跡があることから、事件性はないとの見方だった。
ミネタは、ふぅーっと息を吐いた。
特に心配などしていないが、駆除した結果は解る方がいい。
もっとも崖から投げた男は、もはやバラバラだろうから、結果などは期待していないが。
この老夫婦が淹れてくれるコーヒーは美味しい。
おそらく、店の雰囲気も味に関係しているのだろう。
穏やかな雰囲気は、普通のコーヒーでも美味しく感じるものだ。
次に駆除する害虫は決まっているが、まだ計画は立てていない。
突発的な行動は決して取らない。
じっくり計画することもまた楽しい時間である。
ミネタはコーヒーを飲み干し、バッグから般若心経の小冊子を取り出した。
そして、誰にも聞こえないくらい小さな声で、
「是大神呪、是大明呪」
と呟いた。
夕陽が喫茶店の窓を赤く染めていた。
まるで、ミネタを祝福しているようだった。
ミネタは小冊子をバッグに入れた。
店内には、心地良いトランペットの音色が流れている。
これは、クリフォード・ブラウンだろうか。
リズムのいいドラムとのセッションは、ミネタの心を穏やかにしてくれた。
ミネタは席を立ち、勘定を払った。
「ごちそうさま」
店の老婦人は、
「また来てくださいね」
と言って、優しく微笑んだ。
「ありがとう。また来ます」
ミネタは店を出た。
外は、夜の帳が降りていた。
ミネタが喫茶店を出たあと、店の老婦人がコーヒーカップを片付けると、マスターの夫に話しかけた。
「今の人、たまに来てくれるけど、どんな仕事をされている方なのかしら?」
妻の言葉を意外に思った夫は、
「ん? なぜだい? お前はふだん、客にはほとんど興味を示さないだろう?」
「ええ。そう言えばそうねぇ。 でもね。今の人、般若心経を読んでいたのよ」
婦人は食器を洗いながら答えた。
「はんにゃ? わしには良く分からんがなぁ」
夫は首を傾げた。
「若い頃、良く読んでいたのよ、般若心経。 そう、あなたと知り合う、ずっとずっと前よ」
「ほう、それは初耳だな」
「そりゃそうよ。あなたはお経なんて無関心でしょう?」
「ハッハッハ。まぁ、そうだな」
と言って、夫は頭を掻いた。
「般若心経は有名なお経よ。般若心経を唱えて、生きる希望を見つけた人は多いわ」
「ほお、そうかね」
「今の人、きっと心の穏やかな人なのよ」
「うむ。では次に来た時に、話しかけてみればどうかな?」
「ええ、そうね。 懐かしいわ。またわたしも読んでみようかしら。 般若波羅蜜多」
婦人はそう言って微笑んだ。
店内の音楽は、アップテンポなピアノに変わっていた。
終わり
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