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第89話 蟷螂娘ゼノビア
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提灯小僧の訪問は雷邸にちょっとした嵐を巻き起こした。
ユリナや麗央から見れば、彼の存在自体は取るに足らないものだったが、どう対処すべきかで密かにもめていたのだ。
麗央は客人に対して、穏健な対応を心掛けている。
半分、人間の血が流れているのが、影響している訳ではなかった。
小さな魔物が住む島に流れ着いた赤子の麗央を守り、育てたのは魔物だった。
その魔物は強く、正しい心を持っており、弱気を守り、何よりも名誉を重んじる武人でもあった。
麗央に少なからぬ影響を与えた育ての親がそうしたように麗央もまた、弱い者の味方だった。
イザークは客人に対して、何ら感情を抱いていない。
ユリナの家に居候している身に過ぎず、元来考えるのが苦手である。
しかし、妹が切れるとただならぬ余波を喰らうことだけはしっかりと学んでいる以上、客人に対してはユリナ次第といった日和見の立場にある。
問題は客人に対して、決して友好的ではない存在だった。
彼女は『九十九島公園の迷宮』でユリナが魔法杖ユグドラシルに溜めたエナジーで鏡合わせの世界から、呼び出された。
三人いる『ヘルの娘』の一人である。
ヘルの娘と呼ばれているが彼女らはユリナの実の娘ではない。
ユリナと麗央は夫婦になっているが、いわゆる『白い結婚』の状態だった。
この『白い結婚』は単に二人の性知識の欠如からくるものだが、幼い若夫婦ならではの悩みとも言えた。
性交渉という考えがない二人の間に子供が生まれようはずもない。
娘と呼ばれている三人をユリナが迎え入れたのは、彼女がまだ子供の頃の話である。
最初の娘アルテミシアはユリナがまだ、舌足らずの喋り方しか出来ない頃に出会っている。
彼女は凍てつく地で親に捨てられた黒い蜥蜴に過ぎなかった。
力を持たず、小さく、か弱い存在に過ぎなかった。
ユリナに拾われ、その愛情を一身に受け、成長した小さな黒い蜥蜴はやがてその身に強大な力を有することになる。
後の世に冥竜と呼ばれる黒竜ニーズヘッグの誕生である。
二人目の娘エリサはアルテミシアがヘルの娘になり、落ち着いた頃に迎えられた。
彼女は鉄の森と名付けられた過酷な地に打ち捨てられていた。
目も開いていない生まれたばかりの仔犬に過ぎなかった彼女は偶々、森で散策していたユリナに連れられたアルテミシアによって、発見され事なきを得た。
ユリナの娘として迎えられた非力な仔犬はやがて、凍てつく地を震撼させる大いなる魔犬へと成長していく。
三人目の娘ゼノビアは姉二人と少々、毛色が異なる出自の持ち主だった。
アルテミシアとエリサは北方の出身でユリナと所縁ある関係にあり、いずれも幼い頃に出会ったものだ。
ところがゼノビアとはユリナと娘二人がそれなりに成長してから、縁を紡いでいる。
南の出身であり、属する神性も異なる彼女は元々は南の地方を支配する者に仕える闇に潜む存在だった。
任務に失敗し、命からがら逃げた先で死を待つだけだったゼノビアに救いの手を差し伸べたのがユリナである。
ユリナは預言により、赤子の身で凍てつく地に兄ともども追放された過去を持っている。
成長してもその影響は色濃く、出るものらしい。
捨てられたものや傷ついたものを放っておけない悪い癖と言ってもいいものだ。
保護というよりは半ば拉致に近い強引な手に出たユリナはゼノビアを連れ、凍てつく地へ戻った。
三人目の娘の誕生である。
しかし、駒として生きてきたゼノビアは無条件で与えられる愛情を信じられない。
警戒する姿勢を解かず、誰とも誼を通じないまま、日が沈み月は昇る。
時には娘というよりもユリナの忠実な番犬にして、メイドとなっていたエリサとの間に目に見えぬ火花を散らせながら、全てを受け入れたゼノビアはヘルの娘の最後の一人としての地位を確立していった。
姉二人は他を圧する強大な力でただ存在しているだけで抑止力となった。
ゼノビアの役目は出自が異なる二人とまた趣きが違うものだ。
アルテミシアとエリサはともすれば力で物を言わせることを是とし、『力こそパワー』と言いかねない。
ゼノビアは違った。
彼女が得意とするのは影に溶け込み、闇に紛れ込む諜報活動だったのである。
「ゼル。あなたは同席しちゃ、ダメよ?」
「ど、どうしてでありますか」
裾丈が長く、足首まで覆う黒を基調としたクラシカルなメイドドレスに身を包んだ少女が、気色ばんだ。
目にも鮮やかなエメラルドグリーンの彩りで輝く髪はさっぱりとしたショートボブカットだった。
特徴的なのは長く伸ばしたサイドヘアで昆虫の触覚を思わせるデザインになっている。
瞳もまるでピンクダイヤモンドをそのまま嵌め込んだようでどこか、無機質な人間離れした印象を見た者に抱かせるのに十分だった。
「理由は分かっているでしょ。それを仕舞わないと無理だからね?」
ユリナがとんとんと指で軽く指し示したのは前腕である。
「あっ……」
声を上げた少女の前腕部は肘の辺りまでがぱっくりと裂け、そこから研ぎ澄まされた白刃としか見えない鋭利なモノが顔を覗かせている。
少女の名はゼノビア。
ユグドラシルに充填されたエナジーであちらの世界から、呼び出されたゆりなの娘だった。
彼女のまたの名はエンプーサ。
雌蟷螂とも呼ばれる上位の怪異である。
背中に蝙蝠に似た翼を持ち、前腕の尺骨を変化させた湾曲した刃状の器官を有している。
折れず、曲がらず、斬れぬ物もなしと本人が豪語するだけあって、その切れ味の凄まじさにはユリナですら一目置くほどだ。
しかし、彼女は娘の中でもっとも思慮深い方である。
アルテミシアとエリサであれば、既に行動に出ていてもおかしくはない。
ゼノビアは行動に出ようと思いながら、思い止まっていた。
「ゼノビアのそういうところが好きよ」
ゼノビアはユリナにそう優しく、一声かけられただけで危うく、違うところに心が旅しかけている。
そんな面々しか、いないのがヘルの娘だった。
麗央はそんな二人の様子を微笑ましいとすら感じている。
雷邸は今日も概ね、平和である……。
ユリナや麗央から見れば、彼の存在自体は取るに足らないものだったが、どう対処すべきかで密かにもめていたのだ。
麗央は客人に対して、穏健な対応を心掛けている。
半分、人間の血が流れているのが、影響している訳ではなかった。
小さな魔物が住む島に流れ着いた赤子の麗央を守り、育てたのは魔物だった。
その魔物は強く、正しい心を持っており、弱気を守り、何よりも名誉を重んじる武人でもあった。
麗央に少なからぬ影響を与えた育ての親がそうしたように麗央もまた、弱い者の味方だった。
イザークは客人に対して、何ら感情を抱いていない。
ユリナの家に居候している身に過ぎず、元来考えるのが苦手である。
しかし、妹が切れるとただならぬ余波を喰らうことだけはしっかりと学んでいる以上、客人に対してはユリナ次第といった日和見の立場にある。
問題は客人に対して、決して友好的ではない存在だった。
彼女は『九十九島公園の迷宮』でユリナが魔法杖ユグドラシルに溜めたエナジーで鏡合わせの世界から、呼び出された。
三人いる『ヘルの娘』の一人である。
ヘルの娘と呼ばれているが彼女らはユリナの実の娘ではない。
ユリナと麗央は夫婦になっているが、いわゆる『白い結婚』の状態だった。
この『白い結婚』は単に二人の性知識の欠如からくるものだが、幼い若夫婦ならではの悩みとも言えた。
性交渉という考えがない二人の間に子供が生まれようはずもない。
娘と呼ばれている三人をユリナが迎え入れたのは、彼女がまだ子供の頃の話である。
最初の娘アルテミシアはユリナがまだ、舌足らずの喋り方しか出来ない頃に出会っている。
彼女は凍てつく地で親に捨てられた黒い蜥蜴に過ぎなかった。
力を持たず、小さく、か弱い存在に過ぎなかった。
ユリナに拾われ、その愛情を一身に受け、成長した小さな黒い蜥蜴はやがてその身に強大な力を有することになる。
後の世に冥竜と呼ばれる黒竜ニーズヘッグの誕生である。
二人目の娘エリサはアルテミシアがヘルの娘になり、落ち着いた頃に迎えられた。
彼女は鉄の森と名付けられた過酷な地に打ち捨てられていた。
目も開いていない生まれたばかりの仔犬に過ぎなかった彼女は偶々、森で散策していたユリナに連れられたアルテミシアによって、発見され事なきを得た。
ユリナの娘として迎えられた非力な仔犬はやがて、凍てつく地を震撼させる大いなる魔犬へと成長していく。
三人目の娘ゼノビアは姉二人と少々、毛色が異なる出自の持ち主だった。
アルテミシアとエリサは北方の出身でユリナと所縁ある関係にあり、いずれも幼い頃に出会ったものだ。
ところがゼノビアとはユリナと娘二人がそれなりに成長してから、縁を紡いでいる。
南の出身であり、属する神性も異なる彼女は元々は南の地方を支配する者に仕える闇に潜む存在だった。
任務に失敗し、命からがら逃げた先で死を待つだけだったゼノビアに救いの手を差し伸べたのがユリナである。
ユリナは預言により、赤子の身で凍てつく地に兄ともども追放された過去を持っている。
成長してもその影響は色濃く、出るものらしい。
捨てられたものや傷ついたものを放っておけない悪い癖と言ってもいいものだ。
保護というよりは半ば拉致に近い強引な手に出たユリナはゼノビアを連れ、凍てつく地へ戻った。
三人目の娘の誕生である。
しかし、駒として生きてきたゼノビアは無条件で与えられる愛情を信じられない。
警戒する姿勢を解かず、誰とも誼を通じないまま、日が沈み月は昇る。
時には娘というよりもユリナの忠実な番犬にして、メイドとなっていたエリサとの間に目に見えぬ火花を散らせながら、全てを受け入れたゼノビアはヘルの娘の最後の一人としての地位を確立していった。
姉二人は他を圧する強大な力でただ存在しているだけで抑止力となった。
ゼノビアの役目は出自が異なる二人とまた趣きが違うものだ。
アルテミシアとエリサはともすれば力で物を言わせることを是とし、『力こそパワー』と言いかねない。
ゼノビアは違った。
彼女が得意とするのは影に溶け込み、闇に紛れ込む諜報活動だったのである。
「ゼル。あなたは同席しちゃ、ダメよ?」
「ど、どうしてでありますか」
裾丈が長く、足首まで覆う黒を基調としたクラシカルなメイドドレスに身を包んだ少女が、気色ばんだ。
目にも鮮やかなエメラルドグリーンの彩りで輝く髪はさっぱりとしたショートボブカットだった。
特徴的なのは長く伸ばしたサイドヘアで昆虫の触覚を思わせるデザインになっている。
瞳もまるでピンクダイヤモンドをそのまま嵌め込んだようでどこか、無機質な人間離れした印象を見た者に抱かせるのに十分だった。
「理由は分かっているでしょ。それを仕舞わないと無理だからね?」
ユリナがとんとんと指で軽く指し示したのは前腕である。
「あっ……」
声を上げた少女の前腕部は肘の辺りまでがぱっくりと裂け、そこから研ぎ澄まされた白刃としか見えない鋭利なモノが顔を覗かせている。
少女の名はゼノビア。
ユグドラシルに充填されたエナジーであちらの世界から、呼び出されたゆりなの娘だった。
彼女のまたの名はエンプーサ。
雌蟷螂とも呼ばれる上位の怪異である。
背中に蝙蝠に似た翼を持ち、前腕の尺骨を変化させた湾曲した刃状の器官を有している。
折れず、曲がらず、斬れぬ物もなしと本人が豪語するだけあって、その切れ味の凄まじさにはユリナですら一目置くほどだ。
しかし、彼女は娘の中でもっとも思慮深い方である。
アルテミシアとエリサであれば、既に行動に出ていてもおかしくはない。
ゼノビアは行動に出ようと思いながら、思い止まっていた。
「ゼノビアのそういうところが好きよ」
ゼノビアはユリナにそう優しく、一声かけられただけで危うく、違うところに心が旅しかけている。
そんな面々しか、いないのがヘルの娘だった。
麗央はそんな二人の様子を微笑ましいとすら感じている。
雷邸は今日も概ね、平和である……。
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