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(37)咲夜15歳 『キス』

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 翡翠は夢を見ていた。
 夢の中で、これが夢だと分かっていた。
 『きさら堂』を出られないはずの翡翠が、ゴチャゴチャと物のあふれた知らない部屋にいるからだ。

「翡翠様……」

 目の前に瞳を潤ませた咲夜が立っている。

 翡翠は喜びに胸を震わせ、万感の思いで呟いた。

「嗚呼……なんと良い夢だろうか。愛しい咲夜の姿が見える」
「夢じゃないよ、翡翠様」

 咲夜が両手を広げて翡翠を抱きしめようとする。しかし、まるで実態が無い幽霊のようにその体はするりとすり抜けてしまった。

「そんな……」

 咲夜がショックを受けたような顔をして、また手を伸ばしてきた。だが、それもまたすり抜けてしまう。

「どうして……。俺、子供の頃より格段に絵が上手くなっているはずなのに、どうしてきちんとつながらないんだ……?」
「咲夜」

 翡翠はガラス窓に手を置くように、胸の前で右手を掲げてみせた。

「翡翠様……?」
「私の手に手を重ねてくれ」

 咲夜は泣きそうな顔をしながら、翡翠の手に自分の手を合わせてくる。
 背の高い咲夜の顔を見上げて、翡翠は微笑んだ。

「ほら、触れている感触はなくとも、今、ふたりはつながっているぞ」
「うん……」
「夢でも会えて嬉しい」
「うん、俺も嬉しいよ。でもこれ夢じゃないから」

 夢の中で夢じゃないと言われるのはおかしな感覚だ。
 会いたいという気持ちが強すぎて、こんな夢を見るのだろうか。

「おや、咲夜、指を怪我しているのか? 随分と痛そうだ」
「何言ってるの、翡翠様。翡翠様の方がずっと痛そうだよ!」

 翡翠はハッと手を離し、自分の頭を確かめる。そこにはアスクレピオス様に巻いてもらったまじない付きの包帯があった。

「はぁ……ここが夢の中ならば、せめて咲夜には一番美しい姿を見せたいものを」
「夢じゃないって! 信じて! 俺が翡翠様を召喚したんだ」
「召喚……?」
「うん。俺がここに翡翠様を喚んだんだよ。ここは狸御殿にある俺の部屋だよ!」
「なんと……」

 翡翠は自分の両手を見下ろす。

「『きさら堂』を出たのになぜ砂にならないのだ?」
「だから、俺が翡翠様を血で描いて、その絵に翡翠様を召喚したんだ。でも完璧じゃなかったみたい……。触ることが出来ないし、今にも消えそうだ……」

 咲夜は悔しがっているが、翡翠は召喚されたという事実に素直に驚いていた。

「咲夜はやはり天才なのだな」
「そんなことより、今『きさら堂』はどうなっているの? 誰が翡翠様にそんなひどいことを?」
「時津彦様だ」

 ごまかしても意味が無いと思って、翡翠は正直に答えた。

「時津彦様がお戻りになり、こんな髪色をした私を偽物だと断じて殴りつけたのだ」
「時津彦……『きさら堂』の五代目の主人」
「うむ」
「殺していい?」

 咲夜の声が不穏な響きを帯びる。
 メイドのとうをどこかへ消してしまった時と同じ響きだった。

「咲夜」

 翡翠は指先を咲夜の唇の前に置いた。

「咲夜の可愛い口から、そんな恐ろしい言葉は聞きたくない」
「俺を嫌いになる?」
「嫌いにはならぬ。けれど、きっと悲しくなる」

 咲夜は考え込むように少しの間うつむいていた。
 が、感情の整理が出来たのか、妙にさっぱりした顔で再び顔を上げた。

「分かった。翡翠様が生きている限り、あいつは殺さない。譲歩できるのはそこまでだよ」
「なんとまぁ、大人のようなことを言う」

 『もう子供じゃないよ!』とむきになるかと思ったが、咲夜は小さな笑みを見せただけだった。

「翡翠様の状況を教えて」
「ロングギャラリーのグレイスにかくまわれている」
「匿うってことは」
「あぁ、使用人館の使用人はすべて時津彦様の意に従うからな。全員で私を『きさら堂』から追い出そうとしたのだが、あやかし館のあやかし達が大挙して押し寄せ、私をかばってくれたのだ」
「十二神将は? 役に立たなかった?」
「使わなかった」
「どうして? 翡翠様の守り神としてプレゼントしたのに!」

 咲夜が翡翠の肩をつかもうとしてきたが、またスカッとすり抜けてしまう。

 翡翠は手を上にあげて、咲夜の頭を撫でる真似をした。その黒くて柔らかい髪の毛に触れないのがもどかしい。

「神将は強すぎる。私は誰も怪我させたくなかったのだ」
「そんなこと言っている場合?」
「私は、私の三十年以上の年月を否定したくない。時津彦様がご不在の間、私は仮の主人として『きさら堂』を守って来た。それは建物や調度品だけでなく、彼ら使用人も含めてのことだ」
「でも、それを否定してるのは、やつらの方でしょ?」

 『きさら堂』から追い出されれば翡翠が砂になると分かっていて、全員が時津彦様に従った。そこには長年共に過ごしてきたひいやふう達も含まれていた。

 翡翠は思い出す。
 咲夜を見ると心臓の在り処を思い出すと翡翠が言った時、彼女達は自分には心臓など無いと答えたのだ。

「私は咲夜と出会えたが、彼らには咲夜のような存在がいないのだ」
「なにそれ……翡翠様は、優しすぎるよ」

 咲夜が悔しそうに唇をかんだ。その黒くて可愛い瞳が潤んで、目尻から一粒涙がこぼれる。
 翡翠はそれをぬぐおうとしたが、やはり触れることは叶わなかった。

「そんなことはないぞ。もしも私が本当に優しい者ならば、『もう私のことは忘れて、そちらで平穏に暮らせ』と咲夜に言うだろう。『危ないことはしなくていい。私のことは放って置いてくれ』と繰り返し何度も言うはずだ。でも……」

 翡翠は目の前にいる愛しい男をまっすぐに見つめた。

「私はそれを言えないのだ。私はどうしても、咲夜をあきらめきれないのだ」

 咲夜がハッと顔を上げる。

「翡翠様」
「だから、咲夜。私を救ってくれ。時津彦様から自由にしてくれ。一番好きな人と会える自由をくれ。一番好きな人に触れる自由をくれ。咲夜、大人になったら私と結婚してくれるのだろう?」

 咲夜はこくりとうなずいた。何度も何度もうなずいた。

「うん! うん、俺、絶対に翡翠様と結婚する! 絶対に翡翠様を助けてみせる!」
「咲夜、顔をこちらに向けて」

 翡翠は背伸びして、咲夜の唇に自分の唇を寄せた。
 触れることは叶わなくとも、それが二人の初めての口付けだった。

「咲夜、好きだ」
「うん、好きだよ、大好きだよ翡翠様。触りたいよ。早く抱きしめたいよ」

 ぽろぽろと涙を流す咲夜の姿が、急にぼんやりと薄くなる。

「あぁ……どうやら幸せな夢も終わりのようだ……」
「夢じゃ、ないったら……」
「咲夜、ひとつ伝えておく。時津彦様はもしかしたらもう死んでいるのかもしれぬ」
「え」

 咲夜の姿がどんどん薄くなるので、翡翠は焦って早口になる。

「狐の窓で見てみたのだ。時津彦様のお姿は、とうの絵を汚染したあの蛇のようなものに覆われていた。あれが地獄から来たものならば、時津彦様も地獄のようなところから来たのかもしれぬ」
「地獄から?」
「それから、時津彦様が連れてきた青年は、狐の窓を通すとまるでされこうべのように見えた」
「青年って?」
「あぁ、時津彦様には『たかむら』と呼ばれていた。私に似た姿をしていて……そうだ、咲夜も地下の扉の前で一度会ったことがある。あの時の言葉の話せない青年だ」
「翡翠様のにせもの……」
「そうだな。あの時はそう思ったが、時津彦様にとっては大事な青年のようだった。私よりずっと」

 果たして偽物はどちらだったのか。

「翡翠様は翡翠様だよ! 俺は翡翠様が好きだ。誰よりも翡翠様が……」

 叫ぶ咲夜の声が遠くなっていく。
 可愛い咲夜の姿が見えなくなっていく。

「咲夜、愛している」

 目を閉じて涙をぬぐい、次に目を開けた時、翡翠はロングギャラリーに立っていた。

「翡翠様!」

 グレイスがいつもよりさらに青い顔で翡翠に近づいてくる。

「あぁ、グレイス。どうやら夢を見ていたようだ」
「違います、翡翠様。夢じゃありません。今、ほんの数分ですけど、翡翠様はここから消えていたんです!」
「消えていた?」
「はい。まるで霧になったみたいにすーっと消えて、またすーっと現れたんです。いったい何があったのですか?」

 翡翠は驚いて自分の口を押えた。

 では、先程会った咲夜は夢ではなく本物なのか?
 私は『きさら堂』の外へ召喚されて、愛する男に会って来たのか?

「ファーストキスを……」
「はい?」
「もらってしまったようだ」

 ふふっと笑いを漏らし、翡翠はたまらないというように両手で顔を覆った。


 

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