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(32)咲夜15歳 『狐の窓』

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 咲夜のために用意したアトリエは、使う者がいなくても作品が増え続けている。

 鈷浜こはまのアパートの押し入れに描かれていた落書きに始まり、びりびりに破かれてしまった『告白する絵』も、異国の小説本に描かれた『妖精の友達』も、50匹の蝶が出てくる厚紙も、そしてその後に描かれた美しくて楽しい絵もすべて大事に飾ってあった。

「こんなものまでとっておいたの?」

 『告白する絵』が、破かれた画用紙を丹念にテープで貼り付けてあるのを見て、咲夜が目を丸くする。

「もちろん。咲夜が初めてプレゼントしてくれたものだからな」
「そっかー、えへへ」

 咲夜は照れた顔をして、展示室と化したアトリエを見て歩いている。

「咲夜、ここで絵は描かないのか。画材ならなんでもそろえるぞ」
「うーん、描かない」
「どうして?」
「俺、絵を描き始めるとそればっかりになっちゃうから。夢中になって勉強もご飯もゲームもいらなくなっちゃうの」
「すごい集中力だな」
「『きさら堂』にいられるのはたった一週間なんだよ。一分一秒でも無駄にしたくないよ」

 咲夜は慣れた手つきで翡翠の腰を引き寄せ、腕の中にすっぽりと閉じ込めた。

「ずっと翡翠様とくっついていたい……」
「あぁ」

 咲夜の胸に頬を押し付け、翡翠は幸せに目を閉じる。
 咲夜の体温が体全体を包んでくれる。

「大きくなったな」
「会うたびにそう言うね」
「咲夜が会うたびに大きくなるからだ」
「成長期だもん。まだまだ大きくなるよ」
「あまり大きくなるな」
「どうして?」
「見上げ続けると首が痛い」
「じゃぁ、俺がずっとかがんでいてあげる」
「腰を痛めるぞ」
「じゃぁ、ソファでゴロゴロしようよ。そしたら見上げなくてもいいでしょ」
「それはいい。会うたびにゴロゴロして、ダラダラしようではないか」
「いいね、それ。ゴロゴロして、ダラダラして、イチャイチャしよう」

 ふふふ、とたまらず翡翠が笑い、咲夜もつられたように笑い出す。
 くだらないことばかりを話して、何も起こらない一週間が過ぎていく。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 狸と狐にとって、『きさら堂』の主人は常に代替わりしていくものだ。だから、時津彦様が年を取れば自然に次の代を考える。

 咲夜はまさにおあつらえ向きの人材だった。
 天賦の才に加え、素直であること、努力家であること、そして何よりも、『きさら堂』の翡翠に惹かれていることが決定打となったらしい。

「……いつから、そんなことを?」

 翡翠は艶子に聞いたことがある。

 艶子はその時、飾られている絵の中から小さな厚紙を手に取って、ぱっと開いた。白黒の蝶がふわりと飛び出してくる。

「私は、咲夜くんがこれを描いた時からです」

 時津彦様を超える可能性を、その時点で見出したらしい。

「でも狸の夫婦はもう少し前から考えていたようですね」

 だから、封印の術も場作りの術も、すべて惜しげもなく人間の咲夜に教え込んだ。いずれ、『きさら堂』の主人になった時に、役立つようにと。

 咲夜は翡翠と結婚するためにと、全方位に向けて相当な努力をしているらしい。

「俺ね、『きさら堂』の初代のことも勉強しているんだよ。それでね、俺がこれからやろうとしていることはみっつあるの。ひとつ目は、メイドのとうを取り戻すこと。ふたつ目は、トキツヒコってやつと話を付けること。みっつ目は、翡翠様を自由にすること。自由って、ほんとの自由だよ。食べたいものを食べて、行きたいところに行けて、愛したい人を愛する自由。あー! 今できるわけないって思ったでしょー? 翡翠様、俺を信じて。俺ね、トキツヒコってやつよりもずーっと特別なんだよ」

 咲夜が猛勉強から解放されてゆっくり過ごせるのは、夏休みと冬休みの中の一週間だけ。つまり、翡翠といる時間だけだということだった。

「うひゃ、くすぐったい!」
「動いちゃだめだ」
「はーい」

 寝室のベッドで咲夜を膝枕して、じっくりと耳掃除をする。
 源吾が妻の美海みみにしてもらうのを見て、ずっとうらやましいと思っていたそうだ。

「翡翠様、終わったら交代しようね」
「咲夜に出来るのか?」
「まかせて。俺、手先は器用だから」
「では、頼もうか」
「うん!」

 ゴロゴロして、ダラダラして、イチャイチャする。
 翡翠と咲夜はその言葉通りに幸せな休日を過ごしていた。

「ねぇねぇ、翡翠様。狐の窓って知ってる?」

 耳掃除を終えると、咲夜が膝に頭を乗せたままでこちらを見上げてきた。

「いや、知らぬな。なんだそれは?」
「今、うちの学校で流行ってんの。人間に化けた妖怪をみつけることができるんだって」
「ほう、そんな便利な術が?」
「ええとね、こうやって指で狐を作って、それでこういうふうに指を組んで、それで、この真ん中の穴を覗くの」

 咲夜は奇妙な形に指を組んで、その穴から片目を覗かせて、おかしな呪文を唱えてみせた。

化生けしょうのものか、魔性ましょうのものか、正体を現せ」
「何か見えたか?」
「うん、美人の翡翠様が見えるー」

 くすくすと咲夜は笑った。

「ふむ。まぁ私はもともと化生のものであり、魔性のものでもあるからな。別に正体は隠しておらぬが」
「うん、こんなアクアマリンみたいな髪と目をした人間なんていないもんね」

 咲夜は膝枕の状態のままで手を伸ばし、翡翠の藍玉らんぎょくの髪をつかんでちゅっと口付けをした。

「学校で流行っているということは、みんなでこれをやったのか? 何かの正体を見つけられたか?」
「ううん、ぜんぜん。大牙たいがは狐の窓を向けられてめちゃくちゃビビってたけど、誰も大牙が狸だなんて気付かなかったよ」
「なんだ、そんなものか」
「でもね、何人か、俺の髪が変だっていう子がいてね」
「変?」
「青色っぽくキラキラしてるって」

 咲夜の目が楽しいことを見つけたように、ニッと笑う。

「青色に?」
「そう、青色に、それからキラキラに」
「咲夜、それってもしや」
「翡翠様もやってみてよ、狐の窓」

 咲夜はひょいと身を起こして、翡翠の両手を取った。

「こうか?」
「ちょっと違う、こうだよ」
「えっと、こう?」
「あはは、翡翠様、意外と不器用だね」

 咲夜に手取り足取り教えられ、なんとか形を作って、翡翠は狐の窓を覗き込んでみた。

「どう? 見える?」
「見える……」
「何色?」
「ラピスラズリだ……」
「本当?」
「あぁ、本当にラピスラズリだ」
「うっそ、やった! わぁすごい! もう消えちゃったと思っていたのに!」

 群青色に輝く宝石の色。
 白殺しの藍甕に染まったあの日の証。

「消えていなかったのだな」
「うん!」
「私と咲夜の思い出の色だ」
「うん!」

 咲夜のラピスラズリの瞳が、翡翠の視界の中で急にゆらりと揺れた。
 瞬きすると、ぽろりと一粒涙がこぼれた。

「翡翠様、泣いてるの?」
「嬉しくて……」
「俺もすごく嬉しい」

 翡翠は狐の窓の形を解いて、両手で咲夜に抱きついた。
 大人に近づいた咲夜の体が、翡翠を受け止めてくれる。

「ありがとう、咲夜。大好きだ」
「俺も翡翠様が大好き。早く結婚したいよ」
「いや、結婚は……」
「戸籍が無いから人間としての結婚は出来ないって言いたいんでしょ? でも、あやかしの結婚なら出来るもんね」
「あやかしの?」
「艶子おばちゃんが『狐の嫁入り』でよければ、いつでもしてくれるって! 美海おばちゃんも狸に伝わる婚礼の儀式をするなら全面協力するって言ってくれたよ」
「なんと……」

 驚いている翡翠の頭頂部に、咲夜はちゅっとキスをした。

「大丈夫だよ。出来ないって思ってること全部、俺が叶えてあげるから。あの日、あの押し入れで『きさら堂』に来いって言ってくれたこと、俺を救ってくれたこと、後悔させたくないんだ」
「押し入れ……?」
「覚えていないならいいの。俺は忘れないってことだよ」



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 翌日。

 狐の窓を向けられた艶子は「ひぃっ」と裏返った悲鳴を上げた。

「あ、艶子、そなた九尾だったのか」
「わぁ、ほんとだ。九尾の狐だぁ」
「な、な、なんてことをしてくれてんですか!」

 咲夜と翡翠がきょとんとすると、艶子はくわっと目を吊り上がらせた。

「そ、それ! 狐の窓とかいうその術! 絶対の絶対に鬼在きさらで流行らせないでくださいよ! 妖気に敏感な人間がそれをしたら、もうテキメンに正体見破られちゃうんですよ! 鬼在きさらの街が大混乱になって、あっという間に社会が崩壊しちゃいますからね! いいですか、絶対ですよ!」




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