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(11)咲夜のいる昼

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「さて、今日は何をする?」

 朝食を終えて一休みしてから、翡翠は咲夜に聞いてみる。
 咲夜は迷うことなくすぐに答えた。

「たんけん!」
「今日も探検か? お絵描きはいいのか?」
「うん、ひすいさまとたんけんする!」

 翡翠は本館3階の一室を、咲夜のアトリエとして用意させた。お絵描きが大好きだと言った咲夜に、思う存分絵を描いてもらいたかったからだ。

 だが、咲夜はほとんどアトリエを使わず、毎日のように翡翠と遊びたがる。長い間押し入れに閉じ込められていた咲夜は、自由に歩き回れるだけで楽しいのかもしれなかった。

「では、どこを探検しようか」

 晩餐室の隣にある小食堂を出て、翡翠は咲夜に問いかける。
 咲夜はわざとらしく難しい顔をして、天井の高い廊下をゆっくりと見まわした。

「うーん、うーん、ん-とねー、あっち!」
「分かった。あっちに行ってみよう」

 咲夜はトコトコと小走りで進んだが、急に向きを変えて戻ってきた。

「ひすいさま、てーつなぐ?」
「あぁ、手をつないで行こうな」
「うん!」

 日に日に咲夜は元気になっていた。痩せすぎで体力がなく、声もとても小さかったのに、狐耳の医者が驚くほどに回復している。

 時津彦様もそうだったのだが、咲夜は人間にしては珍しく妖気になじみやすい体質らしい。常に一定の妖気で満たされている『きさら堂』は、咲夜の体にとって良い環境なのだそうだ。

「あ! ひすいさま、ちょうちょ! とうめいなちょうちょ!」

 本館一階の廊下を10センチほどの蝶が飛んでいた。咲夜の言う通りに透明で色は無い。

「あれはシャンデリアを飾るクリスタルの蝶だ。ハウスメイドが第二応接室の掃除をした時にでも出てきてしまったんだろう」
「ちょうちょさん、まいご?」
「そうかもしれないな」

 咲夜は目を丸くすると、パタパタと蝶の方へ走っていく。

「おいで、おいで、おうちにもどろう」

 咲夜が背伸びして両手を高く掲げる。
 透き通った蝶はひらひらと舞いながら、ゆっくりとその手にとまって羽を閉じた。

「あっ、がらすになった!」

 咲夜の小さな手のひらの上で、蝶は素直に元の姿に戻っている。

「シャンデリアに戻してあげようか」
「うん! もどす!」

 本館1階には大広間や晩餐室、遊戯室、そして二つの応接室などがある。

 第一応接室は壁に剣などが飾られた無骨な雰囲気の部屋で、たいていの客がここに通される。第二応接室は珊瑚色に統一された柔らかな雰囲気の部屋で、時津彦様の親しい友人などの訪問時に使われた。

「いっぱいおへやがあるねー」
「あやかし館や使用人館も含めて、全部で108部屋あるのだ。基本的に鍵が開いている部屋は入ってもいいが、必ず先にノックすること」
「はーい」

 第二応接室のドアの前まで行き、見上げてくる咲夜に翡翠はうなずく。

「こんこんこん」

 咲夜は口で言いながら、ドアを軽く叩いた。
 返事はなく、咲夜はまた翡翠を見上げてくる。

「だれもいない?」
「そのようだ。入ろう」
「うん」

 ドアを開けると、応接間の中は埃ひとつなく整えられていた。長期間使っていない部屋でも、常に掃除は行き届いている。『きさら堂』のハウスメイド達は人間のようにさぼることが無いからだ。

「わぁ、ひろい」

 咲夜がきょろきょろと室内を見回した。

 珊瑚色に金の装飾が施された猫足のソファに、そろいの装飾の椅子が5脚、小さめのガラステーブルが3脚配されている。

「しゃんでりや、たかーい。ちょうちょさん、とどかないよ」

 咲夜が困った顔をして、天井の豪奢なシャンデリアを見上げた。クリスタルで作られた数十の蝶が吊り下げられ、キラキラと輝きを放っている。

「大丈夫だ。その子には羽があるから自分で戻れる」

 翡翠はガラステーブルのひとつに近づくと、その上に置かれた水差しを爪の先で軽く弾いた。
 チンと可愛いらしい音が鳴り、とたんにシャンデリアに飾られていたクリスタル製の蝶が一斉にばぁっと飛び立った。

「わっ」

 咲夜が驚いてよろめき、その拍子に手のひらの蝶もパッと飛び上がる。
 数十の透明な蝶が天井を乱舞して、さっきまで咲夜の手にとまっていた蝶もその中に紛れてしまい、どれか分からなくなってしまった。

「うわぁ……ちょうちょさん、きれい……なかまがいっぱいで、たのしそう」
「あぁ、楽しそうだ」

 しばらく二人で眺めていると、蝶は一匹、また一匹と少しずつシャンデリアにとまり、クリスタルに戻っていく。

 やがて最後の一匹が咲夜の周りをひらひらと舞ってからシャンデリアへと飛んでいき、クリスタルの蝶へと姿を変えた。

「ちょうちょさん、もうまいごじゃない?」
「あぁ、みんなのところに戻れたから、もう迷子じゃない」

 翡翠が手を差し出すと、咲夜はふふふと笑いながら手をつないできた。

「よかったぁ」
「あぁ、良かったな。では咲夜、次はどうする?」
「んっとー、もっとたんけんする!」
「そうか、もっと探検しよう」




 応接間を出て廊下を行くうちに大階段が見えてきて、翡翠はぎくりと立ち止まった。

 手を離して咲夜の正面に立ち、大階段を手で指し示す。

「咲夜、この階段を登るときは気を付けなさい。絶対に、どんなことがあっても立ち止まらないように」

 昨日も一昨日もその前も同じことを言ったのだが、それでもまたここに来ると注意せずにはいられない。

「はーい! しってる! ひとつめのやくそく! だいかいだんをのぼるとちゅうではけしてたちどまってはいけない」
「そうだ。よく覚えているな」
「さくや、やくそくぜんぶいえるー」
「そうか、全部言えるのか。偉いな咲夜」
「さくやえらい?」
「あぁ偉いぞ。でもな、覚えていてもうっかり立ち止まることもあるかもしれない。できればここの階段は使わずに、ちょっと遠回りして向こうの使用人用の細い階段を登ると良い。あそこは立ち止まろうが引き返そうが、何も起きないから」
「わかったー」
「良い子だ、咲夜」

 頭を撫でると、咲夜はふにゃっと笑顔になった。

「うん、さくや、いいこ!」
 
 可愛い声と可愛い仕草に、ついつい翡翠の頬がゆるむ。

「次はどこに行こうか」
「ろんぐぎゃらりー!」
「ロングギャラリー? 気に入ったのか?」
「うん! さくや、ろんぐぎゃらりーすきー」

 ロングギャラリーとは、本館の3階とあやかし館の3階をつなぐ通路のことだ。1階と2階には連絡通路が無いので、一度中庭へ出てからあやかし館へ行く方が早かった。

「では、ロングギャラリーに行こうか」
「やったー! ぎゃらりー、ぎゃらりー、ろーんぐぎゃらりー、ぐるぐるぎゃらりー、ろーんぐぎゃらりー」

 作詞作曲咲夜のご機嫌な歌を聴きながら使用人用の階段を使って3階へ行き、東の端まで二人でのんびり歩いていく。




「あれぇ……まえとちがう……?」

 通路へ続くドアの前で咲夜は首をかしげた。木製の扉には繊細な草花の彫刻が施されていて、その中央に隠者(ザ・ハーミット)の柄が浮き彫りされている。

「前は何の柄だったか、覚えているのか?」
「うん、らいおんとおんなのひとだったよ」
「ライオンと美女は力(ストレングス)だな……。咲夜、この柄は隠者(ザ・ハーミット)というのだ。ロングギャラリーに入るための扉にはタロットカードの絵柄が刻まれているのだ」
「たろっとかぁど?」
「咲夜は見たことが無いか。あやかし館に付喪神つくもがみになったタロットカードがあるから、今度会いに行ってみようか」
「えっとー、つくも?」
「付喪神。長い年月大切にされてきた道具には、魂が宿ることがあるんだ。それを付喪神と呼んでいる」
「えっとー、たまし……?」
「魂とは、肉体とは別の精神的な存在で……ふふっ」
「ひすいさま?」
「ここで問答していると、いつまで経ってもロングギャラリーに入れないではないか。難しい話はまた今度にしてまずはこのドアを開けて中に入らないか? 『きさら堂』のロングギャラリーは、扉の柄が毎回変わるように、中に飾ってあるものも毎回変わるのだ。今日はどんな美術品があるのか見たいだろう?」
「うん、さくや、なかをみたい!」
「では、行こう」
「いこう、いこう」

 咲夜が小さな手でゆっくりと扉を開くと、暖かなランプの光が出迎えてくれた。

「わぁ、ほんとだ……まえとちがってる」

 咲夜の目が嬉しそうに輝く。

「好きなだけ見てきて良いぞ」
「うん! みてくる!」

 咲夜は端から順にじっくりと絵画を眺め始めた。

 『きさら堂』のロングギャラリーは訪れるたびに置いてあるものが変わる。今回は油絵の風景画を中心に並べられているようだった。

 数十メートルもある長い通路に窓は無く、片方の壁に沿って絵画が飾られ、もう片方の壁には休憩できるように椅子や物書き机、サイドテーブルが置かれている。

 翡翠は通路の真ん中まで歩き、ゆったりと大きめの椅子に腰かけた。たいして疲れたわけではないが、翡翠は時津彦様の描かれた作品以外にはそれほど興味が沸かないので、座って待つことにしたのだ。


 咲夜は幼い子供とは思えぬほどの集中力で、ひとつひとつの絵を真剣に鑑賞していく。

 色使いや筆使いを学んでいるのか、それとも精神的に絵と対話しているのか、翡翠にはよく分からない。ただ、その真剣なまなざしがとても愛しかった。

「ひすいさま、さくや、もっとみたい」

 通路の突き当りまで進むと、咲夜は翡翠の前まで戻ってきてねだるように言った。

「わかった、もっと見ようか」
「うん!」

 ギャラリーの突き当りにはドアが二枚並んでいる。
 片方には入ってくる時と同じ隠者(ザ・ハーミット)の浮き彫り、もう片方のドアにはタロットの運命の輪(ホイールオブフォーチュン)が浮き彫りされていた。

 入って来た時と同じ扉を選べば、そのまま向こうのあやかし館に出られる。だが、違う扉を選べば、そこにはまた新たな通路が待っている。違う絵柄の扉を選び続ければ、永遠にそれが繰り返されるのだ。

 『きさら堂』のロングギャラリーは無限回廊だった。

「入るときは扉の柄を覚えておくといい。忘れると、出られなくなるかもしれないから」
「うん、さくやおぼえてる」
「では、入り口にあった柄は?」
「こっち!」
「そうだな。隠者(ザ・ハーミット)を開ければ出られる。でも、もっと美術品を見たいのなら違う柄の扉だ」

 翡翠は運命の輪(ホイールオブフォーチュン)のドアを開いた。

「うわぁ、しろくろだ」

 咲夜は楽しそうに通路に駆け出していく。壁にかかっていたのは、水墨画の掛け軸だった。

「すごいすごい! しろくろなのに! しろくろじゃないみたい!」

 墨の濃淡と筆使いだけで表現が完成されていることを、咲夜なりの語彙力で説明したんだろう。

「そうだな、すごいな」
「うん、ほんとにすごい! すごいすごい!」

 はしゃぐ咲夜が可愛くて、愛しくて、抱きしめたくなる。
 だが、鑑賞の邪魔はしたくない。

「ゆっくり見てきなさい」
「うん」

 咲夜はまた、通路の端から順に掛け軸を見つめ始めた。

 時間がゆったりと過ぎていくが、二人とも退屈ではなかった。
 咲夜は真剣な目で掛け軸と向き合い、翡翠はその間ずっと咲夜の横顔を眺めていた。

 やがてまた通路の突き当りまで辿り着き、咲夜が期待するような目で翡翠を見上げてきた。

「まだほかのを見たいのか?」
「うん!」
「疲れていないか?」
「だいじょうぶ!」

 並んでいる二枚のドアには運命の輪(ホイールオブフォーチュン)の浮き彫りと恋人(ザ・ラバーズ)の浮き彫り。

 翡翠は恋人(ザ・ラバーズ)の扉を開いた。

「おにんぎょうだ!」

 咲夜が声を上げる。
 扉の向こうの通路にはフィギュリン(磁器人形)が並べられていた。

 花売りの女性、踊り子、ボルゾイ犬を連れた貴婦人、ユニコーンと乙女、白いドレスを着た少女……どれも女性をモチーフにしたフィギュリンだ。

 ドレスのしわや花びらなど、細部まで磁器で作られた繊細な人形を、咲夜は前から後ろから面白そうに眺め始めている。

「いらしてたのですね、翡翠様」

 柔らかな声に振り向けば、すぐ後ろに女性が立っていた。白と赤のまだらのドレスを身にまとった三十代くらいの女性だ。

「グレイス……久しぶりだ」
「はい」

 グレイスは幽霊だった。

 もう百年以上も前の話だが、グレイスは浮気者の夫を責めて、逆上した夫に首を切られた。その時、そばにあったフィギュリンにグレイスの血が飛び散り、彼女はそのフィギュリンに取り憑いてしまったらしい。

 金色の髪に碧い瞳の美人なのだが、首にはまるで今切られたような生々しい傷があり、そこから流れる血で白いドレスが赤く染まっている。

「相変わらず、痛そうだ……」
「はい、痛いです」

 グレイスは小さくクスリと笑った。

「あやかし館のアスクレピオス様に頼めば、その首を治してくれるぞ」

 アスクレピオスとはギリシャ神話に登場する医学の神だが、もちろん『きさら堂』にいるのは本物の神ではない。数百年前に造られた石像のあやかしだ。

「まだ治したくありません」

 グレイスは首を振った。
 動いたせいで、傷からさらにドクドクと血が流れる。

「だが……あまりにひどい傷だ」
「この傷を治してしまったら、すべてを忘れてしまいそうで嫌なのです……」
「もう忘れてもいいのではないか」
「いいえ。私はまだ、夫を許せない……。許したくありません」
「どうしてそこまで……。その夫とやらはもうとっくに死んでいるのだろう?」
「私は夫のために人生を捧げました。夫のために生き、夫のせいで死にました。私から夫は切り離せないのです……切り離したら、私は私でなくなる気がするのです」

 グレイスは痛々しい首の傷を隠しもせず、哀しく笑う。

「翡翠様も同じではないですか」
「私も、同じ……?」
「そうです。翡翠様も、ただ一人の男のために生きている」
「それは、そうだが……」

 翡翠は時津彦様のために生まれ、時津彦様のために生きている。そしていずれ、時津彦様のために死ぬだろう。

「私は人間ではないから、そなたのように霊魂が残ることは無いのだ。時津彦様が私を要らないと判断した時には、何も残さずただ消えるだけだ……」
「ひすいさま!」

 突然、ぎゅっと小さな体がくっついてきた。

「咲夜?」
「ひすいさま、どこかいたいの?」
「痛い?」
「うん、ひすいさま、すごくいたそう」

 見上げてくる黒くて丸くて可愛い瞳。
 ふっと翡翠は微笑んだ。

「大丈夫、どこも痛くない」
「ほんとう?」
「あぁ、咲夜がいるから、なんにも痛くない」
「よかったぁ」

―― 本当にようございました……

「グレイス?」

 グレイスは儚げに微笑み、すぅっと姿を消した。
 同時に、さっきまで汚れひとつなかった少女のフィギュリンが、血を浴びたかのように赤く染まっていた。

「ひすいさま」
「なんだ?」
「さくや、おなかすいた」
「そうか、では戻ろうか」
「うん……」

 恋人(ザ・ラバーズ)、運命の輪(ホイールオブフォーチュン)、そして隠者(ザ・ハーミット)の順に扉を開けて、二人はロングギャラリーを出た。

 いつのまにか窓から夕陽が差し込んでいた。



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