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(8)しゃべる絵
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数日が過ぎて子供は順調に回復していたが、ひとつだけ問題があった。どうも極度の人見知りらしく、翡翠以外とはまったく話そうとしないのだ。
今も、周りの大人達から顔を隠すようにして、翡翠の左腕にギュッとしがみついている。
「時津彦様の掛け軸を切り裂いて、その子供が現れたのですか」
きさら狐の長である鬼在艶子が、翡翠にくっついている子供にちらりと視線を寄越してきた。
12年前に夫が死んでからずっと喪に服していて、着物はいつも真っ黒で髪はきっちりと結い上げている。化粧もほとんどしていないはずだが元々の顔が派手なので、艶子には妙に色気があった。
「掛け軸そのものを、この子が切り裂いたわけではないのだが」
右手で子供の頭を優しく撫でる。伸び放題にぼさぼさだった髪の毛は、今ではずいぶんとさっぱりとしてシャンプーの良い香りがしていた。
「あの日、俺と翡翠は本館2階のこの和室で花見をしていた。掛け軸は『ぬけ現象』を起こして和室全体が桜のある森のようになっていたんだが、その空間を裂くようにしてこいつがそこに這い出してきたんだ」
畳を指さす蓮次郎の説明を聞きながら艶子がほつれた髪を撫でつけると、指の隙間からぴょこっと狐の耳が立ち上がった。
「あれ。これは失礼を。ここは妖気が濃くて……」
恥ずかしそうに耳を押さえる艶子に、翡翠はにっこりと笑いかける。
「狐の耳は可愛くて好きだ」
「ふふ、そうですか」
艶子が色気のある笑みを返してくる。
「翡翠様はいつお会いしても、花のようにお美しいこと」
「私の姿は時津彦様の最高傑作だから」
「存じております。このように可憐な方を置いて、時津彦様はどこをほっつき歩いているのかしら。翡翠様も、お寂しいでしょうね?」
「う、うむ……」
翡翠は返答に困り、畳の上に広げた掛け軸の方に目を落とした。
宵闇に沈む森を背景に見事な枝垂れ桜が描かれているが、その中央にでかでかと乱暴な線が引かれてしまっていた。
「これは『木花咲夜姫』ですね。時津彦様がこちら側に渡って来た頃に描かれたものとか」
「つくづく残念でならない。この傑作をこんな粗暴な線で汚されるとは」
蓮次郎の声には怒りが滲んでいて、子供が怯えたように翡翠に体を押し付けてくる。
「コホン、この線は何で書かれたものだろうか」
翡翠は身を乗り出して、斜めに引かれた赤い線をそっとなぞってみた。もうすっかり乾いていて、指の先には色がつかない。筆でもペンでもないようなかすれたその線は、最初の日よりだいぶ黒ずんでしまっていた。
「ち……」
すぐそばで子供が何かを言った。
「ちで……」
「ん? なんだ?」
翡翠が首を傾けて耳を近づけると、内緒話をするように子供が囁く。
「ちで、かいたの」
「血で?」
翡翠の顔の前に子供が右手を差し出す。五本すべての指先が汚く潰れて、かさぶたができているのが見えた。
「ぼうや、まさか自分で指を噛んだのかい?」
艶子が顔を覗き込むと、子供はびくっと肩を震わせて翡翠の後ろに隠れようとする。
「よしよし、怖がらなくて良い。ここにそなたを傷つけるものはいないぞ」
翡翠が頭を撫でてやっても、子供はローブの袖に両手でしがみついて離れない。
「狐が怖いんでしょうか」
艶子が困ったように自分の耳を触った。
「いや、狐というより大人が怖いようだ。俺やメイド達も怖がられているから」
蓮次郎の説明に、翡翠は少しムッとする。
「私も大人なんだが?」
「翡翠は小柄だから威圧感がないんだろう」
「は? そこまで小さくないだろう。体の大きい小さいはまったく関係ない。この子は私の美しさに魅了されたのだ。あの日、この子が私を一目見て『きれい』と呟いたのを忘れたのか? よいか、美だ美! すべてにおいて美が勝るのだ」
「はいはい、その通りでございますね、気高く美しき翡翠様」
「馬鹿にしていないか?」
「まさか。とりあえず、その子に懐かれている美しき翡翠様から指のことを聞いてみてくださいませんか」
やっぱり馬鹿にされている気がしたが、翡翠は子供に尋ねてみた。
「そなた、自分の指を噛んで、その血で線を書いたのか」
子供はこくんと大きくうなずいた。
「くれよん、だめって。えんぴつも、だめって」
「だめ?」
「うん。くれよん、だめ! えんぴつ、だめ!」
「そう言われたのか?」
「うん」
「誰に?」
「……おかあさん」
「つまり、母親にクレヨンや鉛筆を取り上げられたから、仕方なく血で線を書いた……?」
「うん……」
「どうして、そこまでして線を書くんだ?」
「おえかき、すきだから」
「お絵描き? でもこんな痛いことをしなくても」
翡翠が傷だらけの手をそっと握ると、子供はニコッと笑った。
「おえかき、だいすきだから」
蓮次郎がハッと顔を上げ、「紙とクレヨンを用意してくれ」とメイドに命じる。
時津彦様は絵師なので『きさら堂』にはあらゆる画材が揃えられている。すぐにメイドが画用紙とクレヨンを持ってきた。
「ここに何か描いてみろ」
蓮次郎が子供の前にそれらを置く。だが、子供はいやいやと首を振ってまた翡翠にくっついてきた。
「ちょっと私も見てみたいな」
「ひすいさまも……?」
「お絵描きが好きなのであろう? 何か描いて見せてくれないか」
「おこらない?」
「怒る? なぜだ?」
子供は困ったようにもじもじとしてうつむく。
翡翠は箱から赤いクレヨンを取って、子供の手に握らせた。
「私はそなたの味方だ。何を描いても怒ったりしない」
子供は意を決したように画用紙の上で赤いクレヨンを動かし始めた。
艶子も蓮次郎も翡翠も、固唾をのんでそれを見守る。
だが、子供が画用紙に描いたのは、小さな丸がふたつと上を向いた三日月ひとつで……。
「ええと、これは……笑っている人の顔、かしら?」
何とも言えない表情で艶子が聞く。
途端に、クレヨンで描かれた三日月が大きく動いた。
『ひすいさま! すき! ひすいさま! だいすき! ひすいさま! ひすいさま! すきすき!』
「喋った!?」
「嘘だろ!」
艶子と蓮次郎が驚愕して立ち上がる。
「ひゃ」
子供が悲鳴を上げて頭を抱えた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「あ、いや、怒ったわけじゃない」
「そうだよ、ぼうや。驚いただけだから」
頭をかばうようにしてうずくまり、ぶるぶると震えだす子供。
一方、画用紙にクレヨンで描かれた顔は、まだ喋り続けている。
『すき! すき! ひすいさま! すき! だいすき! ひすいさま! ひすいさま! すき! すきすき! ひすいさま!』
「ははは、ずいぶんと熱烈な愛の告白だ」
『すきすき! ひすいさま! だいすき!』
「悪い気はしないが、少々しつこいような……。そなた、これはどうやって止めるのだ?」
翡翠がそっと子供の肩に触れる。
「あ、あぁ! ごめんなさい!」
子供は飛び上がるようにして画用紙をつかみ、いきなりビリビリと破り捨てた。
同時に、壊れたレコードのように「好き好き」と繰り返していた声がぴたりと止まる。
「よ、予想外に乱暴な止め方だな」
「ごめんなさい、おこらないで」
紙の破片を握りしめて、子供は亀のようにうずくまっている。
翡翠はそっと近づき、丸くなっている子供の背中に触れた。
「そなた、今のは……」
「ごめんなさい、ひすいさま、ごめんなさい、きらいにならないで」
「私がそなたを嫌う? そんなわけがないだろう。その絵にたくさん好きだと言われてちょっと照れ臭いだけだ」
傷だらけの指から破れた画用紙を取って、翡翠は大事に懐にしまう。
「そなたが絵を描いてくれて、とても嬉しかったぞ」
「ほんとう?」
「本当だ。力いっぱい好きだと言われて気分が良い」
子供がぱぁっと笑顔を見せた。
「ひすいさま、すき!」
「うむ、私もそなたが大好きだぞ」
細く小さな体を抱き寄せる。子供は抵抗せずに翡翠の胸に寄りかかってきた。
「ひすいさま、これ、はぐ?」
「そうだ、ハグだ」
「まだばんじゃないのに?」
「そうだな。でも、朝と晩以外にしたっていいだろう?」
「ひすいさまと、いっぱいはぐする」
「うむ、いっぱいハグしような」
翡翠はぎゅうっと子供を抱きしめる。
子供が楽しそうな笑い声をあげ、ぎゅうっと翡翠を抱きしめてきた。
今も、周りの大人達から顔を隠すようにして、翡翠の左腕にギュッとしがみついている。
「時津彦様の掛け軸を切り裂いて、その子供が現れたのですか」
きさら狐の長である鬼在艶子が、翡翠にくっついている子供にちらりと視線を寄越してきた。
12年前に夫が死んでからずっと喪に服していて、着物はいつも真っ黒で髪はきっちりと結い上げている。化粧もほとんどしていないはずだが元々の顔が派手なので、艶子には妙に色気があった。
「掛け軸そのものを、この子が切り裂いたわけではないのだが」
右手で子供の頭を優しく撫でる。伸び放題にぼさぼさだった髪の毛は、今ではずいぶんとさっぱりとしてシャンプーの良い香りがしていた。
「あの日、俺と翡翠は本館2階のこの和室で花見をしていた。掛け軸は『ぬけ現象』を起こして和室全体が桜のある森のようになっていたんだが、その空間を裂くようにしてこいつがそこに這い出してきたんだ」
畳を指さす蓮次郎の説明を聞きながら艶子がほつれた髪を撫でつけると、指の隙間からぴょこっと狐の耳が立ち上がった。
「あれ。これは失礼を。ここは妖気が濃くて……」
恥ずかしそうに耳を押さえる艶子に、翡翠はにっこりと笑いかける。
「狐の耳は可愛くて好きだ」
「ふふ、そうですか」
艶子が色気のある笑みを返してくる。
「翡翠様はいつお会いしても、花のようにお美しいこと」
「私の姿は時津彦様の最高傑作だから」
「存じております。このように可憐な方を置いて、時津彦様はどこをほっつき歩いているのかしら。翡翠様も、お寂しいでしょうね?」
「う、うむ……」
翡翠は返答に困り、畳の上に広げた掛け軸の方に目を落とした。
宵闇に沈む森を背景に見事な枝垂れ桜が描かれているが、その中央にでかでかと乱暴な線が引かれてしまっていた。
「これは『木花咲夜姫』ですね。時津彦様がこちら側に渡って来た頃に描かれたものとか」
「つくづく残念でならない。この傑作をこんな粗暴な線で汚されるとは」
蓮次郎の声には怒りが滲んでいて、子供が怯えたように翡翠に体を押し付けてくる。
「コホン、この線は何で書かれたものだろうか」
翡翠は身を乗り出して、斜めに引かれた赤い線をそっとなぞってみた。もうすっかり乾いていて、指の先には色がつかない。筆でもペンでもないようなかすれたその線は、最初の日よりだいぶ黒ずんでしまっていた。
「ち……」
すぐそばで子供が何かを言った。
「ちで……」
「ん? なんだ?」
翡翠が首を傾けて耳を近づけると、内緒話をするように子供が囁く。
「ちで、かいたの」
「血で?」
翡翠の顔の前に子供が右手を差し出す。五本すべての指先が汚く潰れて、かさぶたができているのが見えた。
「ぼうや、まさか自分で指を噛んだのかい?」
艶子が顔を覗き込むと、子供はびくっと肩を震わせて翡翠の後ろに隠れようとする。
「よしよし、怖がらなくて良い。ここにそなたを傷つけるものはいないぞ」
翡翠が頭を撫でてやっても、子供はローブの袖に両手でしがみついて離れない。
「狐が怖いんでしょうか」
艶子が困ったように自分の耳を触った。
「いや、狐というより大人が怖いようだ。俺やメイド達も怖がられているから」
蓮次郎の説明に、翡翠は少しムッとする。
「私も大人なんだが?」
「翡翠は小柄だから威圧感がないんだろう」
「は? そこまで小さくないだろう。体の大きい小さいはまったく関係ない。この子は私の美しさに魅了されたのだ。あの日、この子が私を一目見て『きれい』と呟いたのを忘れたのか? よいか、美だ美! すべてにおいて美が勝るのだ」
「はいはい、その通りでございますね、気高く美しき翡翠様」
「馬鹿にしていないか?」
「まさか。とりあえず、その子に懐かれている美しき翡翠様から指のことを聞いてみてくださいませんか」
やっぱり馬鹿にされている気がしたが、翡翠は子供に尋ねてみた。
「そなた、自分の指を噛んで、その血で線を書いたのか」
子供はこくんと大きくうなずいた。
「くれよん、だめって。えんぴつも、だめって」
「だめ?」
「うん。くれよん、だめ! えんぴつ、だめ!」
「そう言われたのか?」
「うん」
「誰に?」
「……おかあさん」
「つまり、母親にクレヨンや鉛筆を取り上げられたから、仕方なく血で線を書いた……?」
「うん……」
「どうして、そこまでして線を書くんだ?」
「おえかき、すきだから」
「お絵描き? でもこんな痛いことをしなくても」
翡翠が傷だらけの手をそっと握ると、子供はニコッと笑った。
「おえかき、だいすきだから」
蓮次郎がハッと顔を上げ、「紙とクレヨンを用意してくれ」とメイドに命じる。
時津彦様は絵師なので『きさら堂』にはあらゆる画材が揃えられている。すぐにメイドが画用紙とクレヨンを持ってきた。
「ここに何か描いてみろ」
蓮次郎が子供の前にそれらを置く。だが、子供はいやいやと首を振ってまた翡翠にくっついてきた。
「ちょっと私も見てみたいな」
「ひすいさまも……?」
「お絵描きが好きなのであろう? 何か描いて見せてくれないか」
「おこらない?」
「怒る? なぜだ?」
子供は困ったようにもじもじとしてうつむく。
翡翠は箱から赤いクレヨンを取って、子供の手に握らせた。
「私はそなたの味方だ。何を描いても怒ったりしない」
子供は意を決したように画用紙の上で赤いクレヨンを動かし始めた。
艶子も蓮次郎も翡翠も、固唾をのんでそれを見守る。
だが、子供が画用紙に描いたのは、小さな丸がふたつと上を向いた三日月ひとつで……。
「ええと、これは……笑っている人の顔、かしら?」
何とも言えない表情で艶子が聞く。
途端に、クレヨンで描かれた三日月が大きく動いた。
『ひすいさま! すき! ひすいさま! だいすき! ひすいさま! ひすいさま! すきすき!』
「喋った!?」
「嘘だろ!」
艶子と蓮次郎が驚愕して立ち上がる。
「ひゃ」
子供が悲鳴を上げて頭を抱えた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「あ、いや、怒ったわけじゃない」
「そうだよ、ぼうや。驚いただけだから」
頭をかばうようにしてうずくまり、ぶるぶると震えだす子供。
一方、画用紙にクレヨンで描かれた顔は、まだ喋り続けている。
『すき! すき! ひすいさま! すき! だいすき! ひすいさま! ひすいさま! すき! すきすき! ひすいさま!』
「ははは、ずいぶんと熱烈な愛の告白だ」
『すきすき! ひすいさま! だいすき!』
「悪い気はしないが、少々しつこいような……。そなた、これはどうやって止めるのだ?」
翡翠がそっと子供の肩に触れる。
「あ、あぁ! ごめんなさい!」
子供は飛び上がるようにして画用紙をつかみ、いきなりビリビリと破り捨てた。
同時に、壊れたレコードのように「好き好き」と繰り返していた声がぴたりと止まる。
「よ、予想外に乱暴な止め方だな」
「ごめんなさい、おこらないで」
紙の破片を握りしめて、子供は亀のようにうずくまっている。
翡翠はそっと近づき、丸くなっている子供の背中に触れた。
「そなた、今のは……」
「ごめんなさい、ひすいさま、ごめんなさい、きらいにならないで」
「私がそなたを嫌う? そんなわけがないだろう。その絵にたくさん好きだと言われてちょっと照れ臭いだけだ」
傷だらけの指から破れた画用紙を取って、翡翠は大事に懐にしまう。
「そなたが絵を描いてくれて、とても嬉しかったぞ」
「ほんとう?」
「本当だ。力いっぱい好きだと言われて気分が良い」
子供がぱぁっと笑顔を見せた。
「ひすいさま、すき!」
「うむ、私もそなたが大好きだぞ」
細く小さな体を抱き寄せる。子供は抵抗せずに翡翠の胸に寄りかかってきた。
「ひすいさま、これ、はぐ?」
「そうだ、ハグだ」
「まだばんじゃないのに?」
「そうだな。でも、朝と晩以外にしたっていいだろう?」
「ひすいさまと、いっぱいはぐする」
「うむ、いっぱいハグしような」
翡翠はぎゅうっと子供を抱きしめる。
子供が楽しそうな笑い声をあげ、ぎゅうっと翡翠を抱きしめてきた。
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