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(6)ありきたりではない夜
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「翡翠」
「んー……?」
「眠いのか」
「ん……ふぁ……」
いつのまにかかなり酒が進んでしまい、眠気に小さく欠伸が出る。
「あぁ、悪い」
「いや」
ほんのりと潤んだ目で蓮次郎を見上げると、太い腕がぐいっと翡翠の腰を抱き寄せてきた。
「もうだいぶ夜も更けた。今日は俺のところで寝るか」
耳に熱い息がかかる。
「蓮次郎、酔っているな」
「そりゃ酔うさ。昨夜は……いや今朝方まで熱く抱き合っていた仲じゃないか」
蓮次郎の唇がちゅっと耳に触れてきて、翡翠は両手で蓮次郎の体を押し返した。
「やめろ、蓮次郎も分かっているだろう。私の体が時津彦様以外を受け入れられるのは新月の夜だけだ」
「だが、翡翠だって大人の男だ。本当に月に一度だけで足りるのか? あんなに貪欲に男のモノを欲しがって、自分から腰を揺らして喘ぐような淫乱なお前が……」
「そう言って前にも試してみたではないか。でも新月以外にはまったくダメだった。私の体は少しも感じないし、勃たないし、濡れなかった……。忘れたのか?」
「それは……」
大げさにため息を吐いて見せて、翡翠は立ち上がる。
さっきまで感じていた眠気はすっかりなくなっていた。
「今夜はお開きにするか。ひい、ふう、ここを片付けて蓮次郎の寝床の準備を……」
その時、突然ぐらりと視界が揺らいだ。
眩暈かと思ったが、部屋自体が小刻みに揺れている。
「地震か?」
蓮次郎が眉をしかめ、こちらを見て驚いたように立ち上がった。
「翡翠、それ」
「え……?」
翡翠の目の前、1メートルも離れていない空中にポツンと赤い点が見えた。虫でもいるのかと目を凝らすと、赤い点は見る間に斜めに伸びていき赤い線になっていく。
「空中に、線……?」
ペンや筆で書かれたものには見えない。まるで指先に絵の具を付けて擦り付けたような歪んでかすれた線だ。
「翡翠、下がれ」
蓮次郎が駆け寄ってきて翡翠をかばうように前に出た。だが、空中に現れたその赤い線をどう扱っていいものか判断に迷っているようで、それ以上は動けないでいる。
『きさら堂』では毎日のように不思議なことが起こるが、空中に赤い線を引くような怪異は今まで見たことがなかった。
息をのんで見つめる翡翠と蓮次郎の前で、その線を裂くようにして空中にぬっと指が出てきた。
「ひ……」
細い指だった。赤黒く汚れた指だった。
赤い線のところで空間を左右に裂くようにして、指から手、手から腕までがずるずるとこちらへ出てくる。餓鬼を連想させるような骨と皮ばかりの痩せた腕だ。やがて、ぼさぼさの髪が見えてきて頭らしきものがのぞいたかと思うと、痩せこけた小さな人間がずるりと這い出てきて、どさりと畳の上に落ちた。
「……子供?」
蓮次郎が呟いた次の瞬間には、桜が消え、森と星空が消え、そして床の間の掛け軸がばさりと音立てて床に落ちた。
和室に転がったその者は、異様な姿をしている。伸び放題でひどく傷んだ髪、穴や破れのあるぼろきれみたいな服、ぶつけたような痣がいくつもある細い手足。それに加え、かなり不快な刺激臭が漂ってくる。
「子供……? これは人間の子供、なのか」
翡翠の漏らした声に反応して、それがハッと顔を上げた。
ぼさぼさに乱れた前髪の間から、黒い大きな瞳が翡翠を見る。
トクン、と翡翠の心臓が跳ねた。
「あ……思ったより可愛い」
翡翠の言葉に子供は大きく目を見開き、そしてなぜか隣にいる蓮次郎もびっくりしたようにこちらの方を見た。
「翡翠、可愛いとか言っている場合か」
「え、ダメなのか? あ、そうか。こんなに痩せているからご飯をあげた方がいいのかな。ええとお前、余り物でよければこっちにきて一緒に……」
「やめろっ」
蓮次郎が厳しい声で制止する。
「飢えたやつにいきなりこんな油っこいものを食べさせれば腹を壊すだろうが」
「そ、そうなのか?」
「そうなのかって……」
「すまない。子供を間近で見るのは初めてなのだ」
蓮次郎は困ったように頭を掻き、「とりあえず翡翠は黙っていてくれ」と言って子供の方に向き直った。
「おい、お前。いったい何者だ? どうやって『きさら堂』に入った?」
ずんずんと近づく蓮次郎に、子供がびくっと体をこわばらせる。
蓮次郎の大きな手が触れようとした途端に、子供は「ひぃっ」と悲鳴を上げ両手で頭を抱えて縮こまった。
「は?」
子供は亀のようにまるくうずくまったまま、ぶるぶると震えている。
「なんだ、俺は何もしていないぞ」
「蓮次郎の顔が怖いのではないか」
「あのなぁ、俺は話が聞きたいだけだ。お前、名前は? 親はどうした? どこから来たんだ?」
怯え切っている子供は震えるばかりで、蓮次郎の質問に答えようとしない。
「ち、埒があかないな……」
蓮次郎は大きくため息を吐くと、周囲に控えていたメイド達に指示を出し始めた。
「ひい、料理人に粥を用意させてくれ。それからふうとみいはすぐに風呂の用意、ようは鬼在神社の狐に連絡して、人間に詳しい医者を寄越してもらってくれ。いつとむうは適当な客室を一部屋開けてベッドを整え、こいつの着替えを……まぁ、子供服なぞここにはないだろうが、翡翠の部屋着でもいいから用意するように」
「翡翠様……」
メイド達がこちらを見てくるので、翡翠はこくりとうなずいた。
「蓮次郎の指示に従ってくれ」
途端に彼女たちが一斉に動き出す。
「翡翠、こっちに」
手招きされて蓮次郎と子供のそばへ行く。
「この臭い、分かるか?」
「えっと……強い臭いだな。人間の子供というのは臭うものなのか」
蓮次郎は首を振った。
「いいや。普通はこんな臭いはしない。これは多分、しばらくの間……そうだな、数ヵ月は風呂に入っていない臭いだ」
「え!」
翡翠は喉の奥から変な声を出してしまった。
「そんな人間がいるのか?」
「あぁ……翡翠はここに来る客ぐらいしか人間を知らないのだったな……。この汚い髪を見てみろ。もう何年も櫛を通したことがなさそうだ」
子供が小さい声で何かを言った。
ちゃんと聞き取れなかったが、「ごめんなさい」と繰り返し言っているようだった。
「ったく……これはひどいな……」
蓮次郎の顔も声も、暗く沈んでいる。
「あの、どうしてこの子は」
「後で話そう。とりあえずは風呂だ」
「あ、あぁ」
蓮次郎は丸くなっている子供をひょいと抱え上げた。小さく悲鳴を上げる子供にかまわず、すたすたと部屋を出て行こうとする。
翡翠もすぐに追いかけようとしたが、ふと気になって床の間を振り返った。
床に落ちた掛け軸には斜めに大きく一本の赤い線が走っていて、もう二度と花見はできそうになかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
医者がその手に針を持つのを見て、翡翠は狼狽えて悲鳴を上げた。
「や、やめろやめろ! 針など持って何をする気だ!」
「ふふ、翡翠様は点滴を見るのは初めてですか」
頭の上の狐耳を隠すことなく、白衣を着た女が赤い唇で笑った。
鬼在神社に本家があるきさら狐達は、人に化け人に交じって暮らしている。中には医術を身につけた者もいて、本家から連絡を受けてすぐに駆け付けてくれたのだ。
「てん、てき?」
「はい、この細い管につながっている液体は栄養剤ですよ」
「えいよう……?」
「栄養剤。悪いものではありませんから、安心してください」
「で、ででででも、そんなものを刺したら痛いではないか。しかもこんなに痩せっぽちの細い腕に……わ、わわっ、ほんとに刺した!」
「騒ぐな、翡翠」
蓮次郎があきれたように翡翠の肩に手を置く。
「でも蓮次郎。こんなに小さくて傷だらけなのに、さらに痛いことをするなんて」
「だから落ち着けって、お医者先生は治療をしてくれているんだ。別に痛めつけているわけじゃねぇ」
「でも」
「こいつは自力で飯も食えない状態なんだから、こうやって栄養を入れるしかないだろう? 点滴ってのは、まぁ、簡単に言うと飯を食う代わりなんだ」
子供は浴室で蓮次郎に洗われている内に、気絶するように眠ってしまった。
せっかく用意されたお粥はとっくに冷めてしまっている。
「飯も食えない状態って、どうしてだ?」
「それだけ弱っているってことだろうな」
「だから、それがよく分からない。なぁ、蓮次郎。どうしてこの子供は弱っているんだ? どうしてこんなにガリガリなんだ? どうしてこんなに傷だらけなんだ?」
翡翠はさっきから自分の声が震えたりひっくり返ったりしていることに気付いていた。ベッドに横たわる痛々しい姿の子供を見ていると、なぜか泣きそうな気分になってしまうのだ。
「見るからに虐待ですね」
狐の医者が低い声で答える。
「ぎゃくたい」
翡翠には聞き馴染みのない言葉だった。
医者は痛ましそうな目で子供を見下ろす。
「……おそらく、親が」
「親が? 親が何?」
まったくピンとこない翡翠に対して、蓮次郎はすべて分かっているというようにうなずいた。
「ここまでガリガリに干からびているってことは、食事もまともに与えられなかったんだろう。おそらく、何日かに一回もらえたかどうかといったところか。それに体中のこのひどい痣……日常的に殴られていたんだろう」
「殴られる……?」
翡翠にはあまりにも理解しがたいことであり、想像してみようとしたが、それすらもうまくできなかった。
翡翠は絵から生まれ出てから50年、一度だって殴られたことなどない。翡翠は平和で快適な『きさら堂』の暮らししか知らないのだ。
「どうして親が殴るのだ?」
「どうしてなのか、真っ当な理由があるなら聞いてみたいものですね」
医者の言葉に翡翠がますます首をかしげると、蓮次郎が切り捨てるように答えた。
「世の中には最低最悪のクズどもがいるってことだ。親からの虐待ってやつは、『きさら堂』の外では……特にあちら側ではよく聞く話だ」
「この子はあちら側から来たのだろうか」
「どうだかな。時津彦以外の人間はきさら狐の仲介が無ければここには入れないはずなんだが、こいつは空間を切り裂くようにして無理矢理に入ってきただろう」
「そうだった。それで時津彦様の絵が、ひとつダメになってしまったのだった……」
「あぁ、あれは傑作だったのに」
赤い線が入ってしまった掛け軸を思い出して、二人で小さく溜息を吐く。
「では、この子はこの子で尋常ではないということですね」
狐の医者が尋ねると、蓮次郎は深くうなずいた。
「こいつ自身に何かしらの力がある可能性はある」
「『きさら堂』に悪影響は無いのでしょうか」
「無いとは断言できないが、こんな状態の子供を放置できるか?」
「翡翠様はどうお考えですか」
医者が急にこちらを向いたので、翡翠はぱちぱちと瞬きをした。
「どう、とは?」
「この子供の処遇です」
「しょぐう?」
「『きさら堂』の仮の主人は翡翠だろう。翡翠はこの子をどうしたいんだ?」
「もちろん助けたい!」
力んでしまい、語尾がひっくり返る。
蓮次郎はくすっと笑って翡翠の頭にポンと手を置いた。
「そうだな。とりあえず助けることには賛成だ。だが、俺が聞きたいのはその後のことだ」
言いたいことが良く分からず、翡翠はきょとんとした顔で蓮次郎を見上げた。
「その後? ええと、人間は百年くらい生きるのだろう? その後は裏庭に埋めてきちんと墓を建ててやるつもりだが? でも、今からどんなお墓にするかを考えるのはあまりにも早くないか?」
「んー……?」
「眠いのか」
「ん……ふぁ……」
いつのまにかかなり酒が進んでしまい、眠気に小さく欠伸が出る。
「あぁ、悪い」
「いや」
ほんのりと潤んだ目で蓮次郎を見上げると、太い腕がぐいっと翡翠の腰を抱き寄せてきた。
「もうだいぶ夜も更けた。今日は俺のところで寝るか」
耳に熱い息がかかる。
「蓮次郎、酔っているな」
「そりゃ酔うさ。昨夜は……いや今朝方まで熱く抱き合っていた仲じゃないか」
蓮次郎の唇がちゅっと耳に触れてきて、翡翠は両手で蓮次郎の体を押し返した。
「やめろ、蓮次郎も分かっているだろう。私の体が時津彦様以外を受け入れられるのは新月の夜だけだ」
「だが、翡翠だって大人の男だ。本当に月に一度だけで足りるのか? あんなに貪欲に男のモノを欲しがって、自分から腰を揺らして喘ぐような淫乱なお前が……」
「そう言って前にも試してみたではないか。でも新月以外にはまったくダメだった。私の体は少しも感じないし、勃たないし、濡れなかった……。忘れたのか?」
「それは……」
大げさにため息を吐いて見せて、翡翠は立ち上がる。
さっきまで感じていた眠気はすっかりなくなっていた。
「今夜はお開きにするか。ひい、ふう、ここを片付けて蓮次郎の寝床の準備を……」
その時、突然ぐらりと視界が揺らいだ。
眩暈かと思ったが、部屋自体が小刻みに揺れている。
「地震か?」
蓮次郎が眉をしかめ、こちらを見て驚いたように立ち上がった。
「翡翠、それ」
「え……?」
翡翠の目の前、1メートルも離れていない空中にポツンと赤い点が見えた。虫でもいるのかと目を凝らすと、赤い点は見る間に斜めに伸びていき赤い線になっていく。
「空中に、線……?」
ペンや筆で書かれたものには見えない。まるで指先に絵の具を付けて擦り付けたような歪んでかすれた線だ。
「翡翠、下がれ」
蓮次郎が駆け寄ってきて翡翠をかばうように前に出た。だが、空中に現れたその赤い線をどう扱っていいものか判断に迷っているようで、それ以上は動けないでいる。
『きさら堂』では毎日のように不思議なことが起こるが、空中に赤い線を引くような怪異は今まで見たことがなかった。
息をのんで見つめる翡翠と蓮次郎の前で、その線を裂くようにして空中にぬっと指が出てきた。
「ひ……」
細い指だった。赤黒く汚れた指だった。
赤い線のところで空間を左右に裂くようにして、指から手、手から腕までがずるずるとこちらへ出てくる。餓鬼を連想させるような骨と皮ばかりの痩せた腕だ。やがて、ぼさぼさの髪が見えてきて頭らしきものがのぞいたかと思うと、痩せこけた小さな人間がずるりと這い出てきて、どさりと畳の上に落ちた。
「……子供?」
蓮次郎が呟いた次の瞬間には、桜が消え、森と星空が消え、そして床の間の掛け軸がばさりと音立てて床に落ちた。
和室に転がったその者は、異様な姿をしている。伸び放題でひどく傷んだ髪、穴や破れのあるぼろきれみたいな服、ぶつけたような痣がいくつもある細い手足。それに加え、かなり不快な刺激臭が漂ってくる。
「子供……? これは人間の子供、なのか」
翡翠の漏らした声に反応して、それがハッと顔を上げた。
ぼさぼさに乱れた前髪の間から、黒い大きな瞳が翡翠を見る。
トクン、と翡翠の心臓が跳ねた。
「あ……思ったより可愛い」
翡翠の言葉に子供は大きく目を見開き、そしてなぜか隣にいる蓮次郎もびっくりしたようにこちらの方を見た。
「翡翠、可愛いとか言っている場合か」
「え、ダメなのか? あ、そうか。こんなに痩せているからご飯をあげた方がいいのかな。ええとお前、余り物でよければこっちにきて一緒に……」
「やめろっ」
蓮次郎が厳しい声で制止する。
「飢えたやつにいきなりこんな油っこいものを食べさせれば腹を壊すだろうが」
「そ、そうなのか?」
「そうなのかって……」
「すまない。子供を間近で見るのは初めてなのだ」
蓮次郎は困ったように頭を掻き、「とりあえず翡翠は黙っていてくれ」と言って子供の方に向き直った。
「おい、お前。いったい何者だ? どうやって『きさら堂』に入った?」
ずんずんと近づく蓮次郎に、子供がびくっと体をこわばらせる。
蓮次郎の大きな手が触れようとした途端に、子供は「ひぃっ」と悲鳴を上げ両手で頭を抱えて縮こまった。
「は?」
子供は亀のようにまるくうずくまったまま、ぶるぶると震えている。
「なんだ、俺は何もしていないぞ」
「蓮次郎の顔が怖いのではないか」
「あのなぁ、俺は話が聞きたいだけだ。お前、名前は? 親はどうした? どこから来たんだ?」
怯え切っている子供は震えるばかりで、蓮次郎の質問に答えようとしない。
「ち、埒があかないな……」
蓮次郎は大きくため息を吐くと、周囲に控えていたメイド達に指示を出し始めた。
「ひい、料理人に粥を用意させてくれ。それからふうとみいはすぐに風呂の用意、ようは鬼在神社の狐に連絡して、人間に詳しい医者を寄越してもらってくれ。いつとむうは適当な客室を一部屋開けてベッドを整え、こいつの着替えを……まぁ、子供服なぞここにはないだろうが、翡翠の部屋着でもいいから用意するように」
「翡翠様……」
メイド達がこちらを見てくるので、翡翠はこくりとうなずいた。
「蓮次郎の指示に従ってくれ」
途端に彼女たちが一斉に動き出す。
「翡翠、こっちに」
手招きされて蓮次郎と子供のそばへ行く。
「この臭い、分かるか?」
「えっと……強い臭いだな。人間の子供というのは臭うものなのか」
蓮次郎は首を振った。
「いいや。普通はこんな臭いはしない。これは多分、しばらくの間……そうだな、数ヵ月は風呂に入っていない臭いだ」
「え!」
翡翠は喉の奥から変な声を出してしまった。
「そんな人間がいるのか?」
「あぁ……翡翠はここに来る客ぐらいしか人間を知らないのだったな……。この汚い髪を見てみろ。もう何年も櫛を通したことがなさそうだ」
子供が小さい声で何かを言った。
ちゃんと聞き取れなかったが、「ごめんなさい」と繰り返し言っているようだった。
「ったく……これはひどいな……」
蓮次郎の顔も声も、暗く沈んでいる。
「あの、どうしてこの子は」
「後で話そう。とりあえずは風呂だ」
「あ、あぁ」
蓮次郎は丸くなっている子供をひょいと抱え上げた。小さく悲鳴を上げる子供にかまわず、すたすたと部屋を出て行こうとする。
翡翠もすぐに追いかけようとしたが、ふと気になって床の間を振り返った。
床に落ちた掛け軸には斜めに大きく一本の赤い線が走っていて、もう二度と花見はできそうになかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
医者がその手に針を持つのを見て、翡翠は狼狽えて悲鳴を上げた。
「や、やめろやめろ! 針など持って何をする気だ!」
「ふふ、翡翠様は点滴を見るのは初めてですか」
頭の上の狐耳を隠すことなく、白衣を着た女が赤い唇で笑った。
鬼在神社に本家があるきさら狐達は、人に化け人に交じって暮らしている。中には医術を身につけた者もいて、本家から連絡を受けてすぐに駆け付けてくれたのだ。
「てん、てき?」
「はい、この細い管につながっている液体は栄養剤ですよ」
「えいよう……?」
「栄養剤。悪いものではありませんから、安心してください」
「で、ででででも、そんなものを刺したら痛いではないか。しかもこんなに痩せっぽちの細い腕に……わ、わわっ、ほんとに刺した!」
「騒ぐな、翡翠」
蓮次郎があきれたように翡翠の肩に手を置く。
「でも蓮次郎。こんなに小さくて傷だらけなのに、さらに痛いことをするなんて」
「だから落ち着けって、お医者先生は治療をしてくれているんだ。別に痛めつけているわけじゃねぇ」
「でも」
「こいつは自力で飯も食えない状態なんだから、こうやって栄養を入れるしかないだろう? 点滴ってのは、まぁ、簡単に言うと飯を食う代わりなんだ」
子供は浴室で蓮次郎に洗われている内に、気絶するように眠ってしまった。
せっかく用意されたお粥はとっくに冷めてしまっている。
「飯も食えない状態って、どうしてだ?」
「それだけ弱っているってことだろうな」
「だから、それがよく分からない。なぁ、蓮次郎。どうしてこの子供は弱っているんだ? どうしてこんなにガリガリなんだ? どうしてこんなに傷だらけなんだ?」
翡翠はさっきから自分の声が震えたりひっくり返ったりしていることに気付いていた。ベッドに横たわる痛々しい姿の子供を見ていると、なぜか泣きそうな気分になってしまうのだ。
「見るからに虐待ですね」
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「ぎゃくたい」
翡翠には聞き馴染みのない言葉だった。
医者は痛ましそうな目で子供を見下ろす。
「……おそらく、親が」
「親が? 親が何?」
まったくピンとこない翡翠に対して、蓮次郎はすべて分かっているというようにうなずいた。
「ここまでガリガリに干からびているってことは、食事もまともに与えられなかったんだろう。おそらく、何日かに一回もらえたかどうかといったところか。それに体中のこのひどい痣……日常的に殴られていたんだろう」
「殴られる……?」
翡翠にはあまりにも理解しがたいことであり、想像してみようとしたが、それすらもうまくできなかった。
翡翠は絵から生まれ出てから50年、一度だって殴られたことなどない。翡翠は平和で快適な『きさら堂』の暮らししか知らないのだ。
「どうして親が殴るのだ?」
「どうしてなのか、真っ当な理由があるなら聞いてみたいものですね」
医者の言葉に翡翠がますます首をかしげると、蓮次郎が切り捨てるように答えた。
「世の中には最低最悪のクズどもがいるってことだ。親からの虐待ってやつは、『きさら堂』の外では……特にあちら側ではよく聞く話だ」
「この子はあちら側から来たのだろうか」
「どうだかな。時津彦以外の人間はきさら狐の仲介が無ければここには入れないはずなんだが、こいつは空間を切り裂くようにして無理矢理に入ってきただろう」
「そうだった。それで時津彦様の絵が、ひとつダメになってしまったのだった……」
「あぁ、あれは傑作だったのに」
赤い線が入ってしまった掛け軸を思い出して、二人で小さく溜息を吐く。
「では、この子はこの子で尋常ではないということですね」
狐の医者が尋ねると、蓮次郎は深くうなずいた。
「こいつ自身に何かしらの力がある可能性はある」
「『きさら堂』に悪影響は無いのでしょうか」
「無いとは断言できないが、こんな状態の子供を放置できるか?」
「翡翠様はどうお考えですか」
医者が急にこちらを向いたので、翡翠はぱちぱちと瞬きをした。
「どう、とは?」
「この子供の処遇です」
「しょぐう?」
「『きさら堂』の仮の主人は翡翠だろう。翡翠はこの子をどうしたいんだ?」
「もちろん助けたい!」
力んでしまい、語尾がひっくり返る。
蓮次郎はくすっと笑って翡翠の頭にポンと手を置いた。
「そうだな。とりあえず助けることには賛成だ。だが、俺が聞きたいのはその後のことだ」
言いたいことが良く分からず、翡翠はきょとんとした顔で蓮次郎を見上げた。
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