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(4)ありきたりな昼
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骨董店『きさら堂』にはめったに人間の客が来ない。
鬼在の古参のあやかしであるきさら狐に仲介してもらわないと、入ることを許されないからだ。
きさら狐の長である鬼在艶子のお眼鏡に叶うには、相当な熱意か類稀な幸運、あるいはよほどの財力が必要だった。
「ようこそ、お客人。『きさら堂』が仮の主人、翡翠が挨拶申し上げる」
翡翠は客に頭を下げない。
時津彦様の最高傑作である翡翠が、そこらの人間におもねるわけにはいかないからだ。
「お客人におかれては、幸運にも『きさら堂』に足を踏み入れることが叶い、今その胸を期待に膨らませていることだろう……。地上3階地下1階108部屋からなるこの荘厳な洋館を、自由に観覧してくれてかまわない。心ゆくまで、ごゆるりとすごされよ」
「は、はい……」
本日の客はジェラルミンのアタッシュケースを両腕に抱え、高級スーツに身を包んだ三十代くらいの男だった。
五人のメイドを後ろに従えて、翡翠は正面玄関で客を出迎えた。朝のうちに地下の扉を30度ほど開いたので、ひいとふうの他によう・いつ・むうも活動できるようになっている。
「『きさら堂』は建物自体が芸術品であり、飾ってある置物や絵画は言うに及ばず、マントルピースやシャンデリア・柱の彫刻や壁紙までも、他では手に入らないものばかりだ。欲しいものがあれば近くにいる使用人に申し出るように。万が一、盗んだり故意に傷をつけた場合は相応の対価を支払ってもらう。対価は金とは限らないので、十分心しておくように」
客の男はなぜか口を半開きにしたままで、ポーッと翡翠の顔を眺めていた。
ちゃんと聞いているのかいないのか、翡翠は怪訝に思いながらも説明を続けていく。
「……望みのものが見つかるまでは何日でも滞在してくれてかまわないが、お客人の身の安全のために、守ってもらいたい約束事がみっつある」
翡翠はここでいったん言葉を切り、役者のように声を張った。
「ひとつ、大階段を登る途中ではけして立ち止まらないこと。ふたつ、中庭にある地下への階段はけして一人で降りないこと。みっつ、『きさら堂』で働く使用人をけして外へ連れ出さないこと。もしもこれらの約束事を違えた場合、たとえお客人の身に何が起ころうと、こちらでは一切の責任を持たないので悪しからず了承……」
「翡翠さんは、使用人ではありませんよね?」
「は?」
それまで何の反応も寄越さなかった客がいきなり距離を詰めてきたので、翡翠は反射的に一歩下がった。
「翡翠さんはここのご主人であって使用人ではないのですよね」
「『きさら堂』の主人は井筒時津彦様だ。私は時津彦様ご不在時の仮の主人で……」
「仮だろうが何だろうが、使用人ではなく主人なんですよね。つまり、翡翠さんを連れ出すことは可能ということですか?」
「は……? なぜそんなことを?」
客がまた近づいて顔を寄せてくる。
「欲しいものが見つかったからです」
「欲しいもの?」
「はい、一目惚れです」
「ひとめぼれ?」
「一目惚れです!」
鼻息荒く宣言されて、翡翠はぽかんと口を開いた。
「なにが?」
「ですから、翡翠さんです」
「私?」
「そうです。祖父の昔語りに聞いた時から、一目でいいからこの目で見てみたかった……。『きさら堂』の仮の主人・翡翠様、理想を具現化したような絶世の美人、この世ならざる妖艶な花……。祖父は思い出を美化して大げさに言っているだけだと思っていましたが、それがそのまますべて真実だったのだと俺は今知ったのです」
「そなたの、祖父……」
「はい。俺の顔は祖父の若い頃によく似ているそうです」
男は何かを期待するまなざしで翡翠を見てきた。
「すまぬが、客人の顔をいちいち覚えてはおらぬ」
「そうですか……。でも、三十年以上前のただ一夜の思い出を、祖父は死ぬまで大切に胸にしまっていました。病で死ぬ直前に、あなたにもらったという飾り紐を棺に入れるよう私に頼んだのです」
そこまで言われても、翡翠はそれが誰だか分からなかった。
一夜限りという約束で人間の男に抱かれたのは、一度や二度ではなかったからだ。
「翡翠さん。俺は翡翠さんが欲しい。翡翠さんを連れ帰りたい。翡翠さんを俺のものにしたいんです」
客はアタッシュケースを翡翠に見せるように抱え上げた。
「ここに3千万あります。足りなければさらに何千万でもご用意します。いくら払えば俺と来てくれますか」
翡翠は大きく首を振った。
「私にはすでに持ち主がいる」
「持ち主?」
「私の体は髪の毛一本まですべてその方のもの。お客人と行くことなどできない。あきらめてくれ」
冷たく言って歩き出した翡翠を、客の男が追ってくる。
「待ってください、翡翠さん。口説くチャンスすら与えてくれないんですか?」
男が片手を伸ばして翡翠の手を握ってきた。
「やっ、はなせ!」
思わず叩くように振り払い、翡翠は逃げるように足を速めた。
「翡翠さん、俺は本気です。あなたほど綺麗な人を他に見たことがない。俺はどうしても……」
「いけません、お客様!」
「お待ちください、お客様!」
「翡翠様を困らせてはいけません!」
メイド達が間に入ろうとするのだが、客の勢いは止まらない。
玄関ホールを抜けて第一応接室と第二応接室の前を足早に通り過ぎるが、客は翡翠のすぐ後ろをぴったりついてくる。
「持ち主ってのはどんな奴ですか? 権力者ですか? 金持ちですか? 恋人ではなく持ち主っていうことは翡翠さんを所有物のように扱うわけですよね? そんな奴はやめて俺にしませんか?」
「そういうお客人だって、金で私を買おうとしているではないか」
「この3千万は支度金のようなものですよ。俺は翡翠さんに不自由な思いはさせません」
「そんなことを言われても、私はここから出られないんだ」
翡翠はいつのまにか大階段のあるホールへ出ていた。とっさに階段に足を向けかけて、ほんの一瞬迷いが頭を巡った。
階段を登って2階にいる蓮次郎に助けを求めるか、連絡通路へ入って無限回廊に客を閉じ込めるか、あやかし館の2階の奥へ走って浄玻璃鏡を客人に見せるか。
玄関からここまで来ただけで、翡翠の息はもうあがっている。無限回廊も浄玻璃鏡も遠く感じられて、翡翠はやはり階段の上を見上げた。
更紗のローブの長い裾を引きずりながら階段を登り始める。
客もその後ろを登って迫ってきた。
「出られないってどういう意味ですか? 豪邸にしか住めないとか? 俺の屋敷もなかなか広いですよ。贅沢したいならいくらでもさせてあげます。俺は貿易会社を経営しているんです。船だって三隻も持っていて」
「え、船を?」
つい振り返ってしまってから、翡翠はハッとする。
(しまった! 感情を顔に出してしまった)
「船に興味がおありなのですか?」
ぱっと表情を明るくして、客の男が立ち止まった。
「あっ、ばか、立ち止まるな!」
「え? なんですか?」
「いいから階段を登れ!」
翡翠が叫んでも、客の男はきょとんとした顔で見上げてくる。
―――― 大階段を登る途中で立ち止まってはいけない。
「おい、はやく!」
「翡翠さん?」
「は、はやく! 立ち止まっていてはだめだ!」
「何を焦っているんですか……? ん? あれ……?」
客が不思議そうにきょろきょろと左右を見た。
「なんか、人がいっぱい……。さっきまで翡翠さんしかいなかったのに、いつの間にこんなに大勢……?」
「だめだって、はやく! 何が見えたとしてもかまわず登り切るんだ!」
「え? え? なんで? あれ?」
男の姿が空気に溶けるようにじわりと滲む。
翡翠は慌てて手を伸ばしたが、その腕をつかむ前に男の姿は煙のように消えてしまっていた。
「……翡翠さーん……? どこですかー……?」
はるか遠くから小さく声が聞こえたが、それもすぐに聞こえなくなる。ゴン、ガン、ゴン、と音を立てて、アタッシュケースだけが階段を転がり落ちていく。
「あぁ……」
翡翠はかすれた声を漏らして手すりにつかまった。踊り場のステンドグラスを通して煌めく光が、そんな翡翠の横顔を照らしている。
「翡翠様」
「翡翠様、大丈夫ですか」
階段下に落ちたアタッシュケースの周りにメイド達が集まってきて、心配そうに翡翠を見上げた。
「私は大丈夫だ。ほんのちょっと驚いただけ……」
「なんだ? 何を騒いでいる?」
階段の上からひょいと蓮次郎が顔を覗かせた。
仕入れの旅から帰ったばかりの昨夜は三つ揃えのパリッとした洋装だったが、今朝は木綿の着流しに雪駄というかなり気楽な身なりだった。
「客が消えたんだ」
翡翠が答えると蓮次郎は目を丸くして階段を下り始める。
「おいおい、まさかひとつ目の約束を破るような間抜けがいたってのか?」
「あぁ、しかも正面玄関から入ってたった5分で退場だ。まったく……階段の途中で立ち止まらないというだけの簡単な約束なのに……」
客が現れてから消え去るまでの嵐のような展開がなんだかおかしくて、翡翠はくすくすと笑い出してしまった。
「笑うなよ、不謹慎だ」
「そういう蓮次郎も顔が笑っているじゃないか」
「だって入ってたったの5分だろ? 最短記録じゃないか?」
「ははっ、そうだな。だが強引に言い寄られていたから正直助かった」
「なんだ、翡翠。わざとそいつを階段へ誘導したのか」
「まさか! 私は仮とはいえ『きさら堂』の主人だぞ。客人相手にそんなことするはずがあるまい。二階へ行けば蓮次郎がいると思ったんだ」
「なるほど。しつこい客は俺に追い払わせるつもりだったのか」
「その通り」
蓮次郎は苦笑しながら降りてきて、支えるように翡翠の手を取ってくれる。
「まぁ、ここに滞在する間くらいは翡翠の用心棒をしてやってもいいが、普段はどうしているんだ?」
「無限回廊か浄玻璃鏡か、ここには上手く使えば身を守れる術はたくさんある」
「ははは、とんだ化け物屋敷だな」
「それらを仕入れてきた蓮次郎が言うことではあるまい」
「確かにな」
蓮次郎と翡翠は顔を見合わせてくすくす笑う。
だがすぐに、蓮次郎は真面目な顔に戻った。
「でも、本当に危ないものはあちら側の証城寺に引き取ってもらっているから安心してくれ」
「あちら側は確か妖気が無いのだったか」
「あぁ。悪いものを封印するには、あちら側の方が向いているんだ」
翡翠が絵から生まれたばかりの頃、時津彦様に教えてもらったことがある。妖気のまったく無い『あちら側』の世界と、常に妖気が漂っている『こちら側』の世界。隣り合ったふたつの世界があるのだという。
時津彦様は自分が生まれ育った世界を現世(うつしよ)、こちら側を幽世(かくりよ)と呼んでいた。でも、こちら側で生まれ育った蓮次郎にしてみれば、こちら側こそが現世(うつしよ)だと主張するので、結局ふたつの世界は『あちら側』と『こちら側』というあいまいな呼称に落ち着いていた。
『きさら堂』を出たことのない翡翠には『あちら側』と『こちら側』の違いはよく分からない。
蓮次郎の話では『あちら側』は大きな戦争や大きな災害が繰り返し起こっていて、それを乗り越えるために文化文明がはるかに進んでいるらしい。反対に『こちら側』では戦争も災害もほとんどなくて平和だが、文化文明はかなり遅れているらしい。
『あちら側』の入り口は証城寺の狸が、『こちら側』の入り口はきさら神社の狐が管理していた。
「ところで翡翠、ここの階段から消えた人間はいったいどこへ行くのか知っているか?」
「さぁ? どこだろう? 時津彦様はそんな間抜け野郎は放っておけと言うので、今まで探したこともなかったな」
翡翠やメイド達は『きさら堂』に属するあやかしなので、大階段で立ち止まってもどこかへ飛ばされることはない。蓮次郎も鬼の血を引いているので、気を抜かなければ平気なものらしい。
「まぁ、俺も簡単な約束すら守れないようなバカをわざわざ探そうとは思わないが」
「だろう?」
「だが、その立派な鞄はどうするんだ?」
メイドのひいが階段下に落ちたアタッシュケースを拾うのを見て、蓮次郎が聞いてきた。
「今までの客の忘れ物と同様に、蔵にしまっておくだけだ」
「蔵か」
敷地内の裏庭にある土蔵には、普通の客には売らない品々が置いてある。
蓮次郎は何かを思いついたようにパチンと指を鳴らした。
「なぁ、翡翠。この後暇になったんなら、どうだ? 花見でもしないか? 仕入れたものをゆっくり見せたいし、欧羅巴のうまい酒もいくつか持参したんだ」
「酒盛りするのは別に良いが、桜の時期はとうに終わっているのではないか? そもそも『きさら堂』の敷地には桜の木など一本もないぞ」
「何を言う。あるだろうが、立派な桜が」
翡翠は首をかしげる。
「桜が? どこに?」
「蔵ん中にだよ」
蓮次郎がニッと口角を上げた。
鬼在の古参のあやかしであるきさら狐に仲介してもらわないと、入ることを許されないからだ。
きさら狐の長である鬼在艶子のお眼鏡に叶うには、相当な熱意か類稀な幸運、あるいはよほどの財力が必要だった。
「ようこそ、お客人。『きさら堂』が仮の主人、翡翠が挨拶申し上げる」
翡翠は客に頭を下げない。
時津彦様の最高傑作である翡翠が、そこらの人間におもねるわけにはいかないからだ。
「お客人におかれては、幸運にも『きさら堂』に足を踏み入れることが叶い、今その胸を期待に膨らませていることだろう……。地上3階地下1階108部屋からなるこの荘厳な洋館を、自由に観覧してくれてかまわない。心ゆくまで、ごゆるりとすごされよ」
「は、はい……」
本日の客はジェラルミンのアタッシュケースを両腕に抱え、高級スーツに身を包んだ三十代くらいの男だった。
五人のメイドを後ろに従えて、翡翠は正面玄関で客を出迎えた。朝のうちに地下の扉を30度ほど開いたので、ひいとふうの他によう・いつ・むうも活動できるようになっている。
「『きさら堂』は建物自体が芸術品であり、飾ってある置物や絵画は言うに及ばず、マントルピースやシャンデリア・柱の彫刻や壁紙までも、他では手に入らないものばかりだ。欲しいものがあれば近くにいる使用人に申し出るように。万が一、盗んだり故意に傷をつけた場合は相応の対価を支払ってもらう。対価は金とは限らないので、十分心しておくように」
客の男はなぜか口を半開きにしたままで、ポーッと翡翠の顔を眺めていた。
ちゃんと聞いているのかいないのか、翡翠は怪訝に思いながらも説明を続けていく。
「……望みのものが見つかるまでは何日でも滞在してくれてかまわないが、お客人の身の安全のために、守ってもらいたい約束事がみっつある」
翡翠はここでいったん言葉を切り、役者のように声を張った。
「ひとつ、大階段を登る途中ではけして立ち止まらないこと。ふたつ、中庭にある地下への階段はけして一人で降りないこと。みっつ、『きさら堂』で働く使用人をけして外へ連れ出さないこと。もしもこれらの約束事を違えた場合、たとえお客人の身に何が起ころうと、こちらでは一切の責任を持たないので悪しからず了承……」
「翡翠さんは、使用人ではありませんよね?」
「は?」
それまで何の反応も寄越さなかった客がいきなり距離を詰めてきたので、翡翠は反射的に一歩下がった。
「翡翠さんはここのご主人であって使用人ではないのですよね」
「『きさら堂』の主人は井筒時津彦様だ。私は時津彦様ご不在時の仮の主人で……」
「仮だろうが何だろうが、使用人ではなく主人なんですよね。つまり、翡翠さんを連れ出すことは可能ということですか?」
「は……? なぜそんなことを?」
客がまた近づいて顔を寄せてくる。
「欲しいものが見つかったからです」
「欲しいもの?」
「はい、一目惚れです」
「ひとめぼれ?」
「一目惚れです!」
鼻息荒く宣言されて、翡翠はぽかんと口を開いた。
「なにが?」
「ですから、翡翠さんです」
「私?」
「そうです。祖父の昔語りに聞いた時から、一目でいいからこの目で見てみたかった……。『きさら堂』の仮の主人・翡翠様、理想を具現化したような絶世の美人、この世ならざる妖艶な花……。祖父は思い出を美化して大げさに言っているだけだと思っていましたが、それがそのまますべて真実だったのだと俺は今知ったのです」
「そなたの、祖父……」
「はい。俺の顔は祖父の若い頃によく似ているそうです」
男は何かを期待するまなざしで翡翠を見てきた。
「すまぬが、客人の顔をいちいち覚えてはおらぬ」
「そうですか……。でも、三十年以上前のただ一夜の思い出を、祖父は死ぬまで大切に胸にしまっていました。病で死ぬ直前に、あなたにもらったという飾り紐を棺に入れるよう私に頼んだのです」
そこまで言われても、翡翠はそれが誰だか分からなかった。
一夜限りという約束で人間の男に抱かれたのは、一度や二度ではなかったからだ。
「翡翠さん。俺は翡翠さんが欲しい。翡翠さんを連れ帰りたい。翡翠さんを俺のものにしたいんです」
客はアタッシュケースを翡翠に見せるように抱え上げた。
「ここに3千万あります。足りなければさらに何千万でもご用意します。いくら払えば俺と来てくれますか」
翡翠は大きく首を振った。
「私にはすでに持ち主がいる」
「持ち主?」
「私の体は髪の毛一本まですべてその方のもの。お客人と行くことなどできない。あきらめてくれ」
冷たく言って歩き出した翡翠を、客の男が追ってくる。
「待ってください、翡翠さん。口説くチャンスすら与えてくれないんですか?」
男が片手を伸ばして翡翠の手を握ってきた。
「やっ、はなせ!」
思わず叩くように振り払い、翡翠は逃げるように足を速めた。
「翡翠さん、俺は本気です。あなたほど綺麗な人を他に見たことがない。俺はどうしても……」
「いけません、お客様!」
「お待ちください、お客様!」
「翡翠様を困らせてはいけません!」
メイド達が間に入ろうとするのだが、客の勢いは止まらない。
玄関ホールを抜けて第一応接室と第二応接室の前を足早に通り過ぎるが、客は翡翠のすぐ後ろをぴったりついてくる。
「持ち主ってのはどんな奴ですか? 権力者ですか? 金持ちですか? 恋人ではなく持ち主っていうことは翡翠さんを所有物のように扱うわけですよね? そんな奴はやめて俺にしませんか?」
「そういうお客人だって、金で私を買おうとしているではないか」
「この3千万は支度金のようなものですよ。俺は翡翠さんに不自由な思いはさせません」
「そんなことを言われても、私はここから出られないんだ」
翡翠はいつのまにか大階段のあるホールへ出ていた。とっさに階段に足を向けかけて、ほんの一瞬迷いが頭を巡った。
階段を登って2階にいる蓮次郎に助けを求めるか、連絡通路へ入って無限回廊に客を閉じ込めるか、あやかし館の2階の奥へ走って浄玻璃鏡を客人に見せるか。
玄関からここまで来ただけで、翡翠の息はもうあがっている。無限回廊も浄玻璃鏡も遠く感じられて、翡翠はやはり階段の上を見上げた。
更紗のローブの長い裾を引きずりながら階段を登り始める。
客もその後ろを登って迫ってきた。
「出られないってどういう意味ですか? 豪邸にしか住めないとか? 俺の屋敷もなかなか広いですよ。贅沢したいならいくらでもさせてあげます。俺は貿易会社を経営しているんです。船だって三隻も持っていて」
「え、船を?」
つい振り返ってしまってから、翡翠はハッとする。
(しまった! 感情を顔に出してしまった)
「船に興味がおありなのですか?」
ぱっと表情を明るくして、客の男が立ち止まった。
「あっ、ばか、立ち止まるな!」
「え? なんですか?」
「いいから階段を登れ!」
翡翠が叫んでも、客の男はきょとんとした顔で見上げてくる。
―――― 大階段を登る途中で立ち止まってはいけない。
「おい、はやく!」
「翡翠さん?」
「は、はやく! 立ち止まっていてはだめだ!」
「何を焦っているんですか……? ん? あれ……?」
客が不思議そうにきょろきょろと左右を見た。
「なんか、人がいっぱい……。さっきまで翡翠さんしかいなかったのに、いつの間にこんなに大勢……?」
「だめだって、はやく! 何が見えたとしてもかまわず登り切るんだ!」
「え? え? なんで? あれ?」
男の姿が空気に溶けるようにじわりと滲む。
翡翠は慌てて手を伸ばしたが、その腕をつかむ前に男の姿は煙のように消えてしまっていた。
「……翡翠さーん……? どこですかー……?」
はるか遠くから小さく声が聞こえたが、それもすぐに聞こえなくなる。ゴン、ガン、ゴン、と音を立てて、アタッシュケースだけが階段を転がり落ちていく。
「あぁ……」
翡翠はかすれた声を漏らして手すりにつかまった。踊り場のステンドグラスを通して煌めく光が、そんな翡翠の横顔を照らしている。
「翡翠様」
「翡翠様、大丈夫ですか」
階段下に落ちたアタッシュケースの周りにメイド達が集まってきて、心配そうに翡翠を見上げた。
「私は大丈夫だ。ほんのちょっと驚いただけ……」
「なんだ? 何を騒いでいる?」
階段の上からひょいと蓮次郎が顔を覗かせた。
仕入れの旅から帰ったばかりの昨夜は三つ揃えのパリッとした洋装だったが、今朝は木綿の着流しに雪駄というかなり気楽な身なりだった。
「客が消えたんだ」
翡翠が答えると蓮次郎は目を丸くして階段を下り始める。
「おいおい、まさかひとつ目の約束を破るような間抜けがいたってのか?」
「あぁ、しかも正面玄関から入ってたった5分で退場だ。まったく……階段の途中で立ち止まらないというだけの簡単な約束なのに……」
客が現れてから消え去るまでの嵐のような展開がなんだかおかしくて、翡翠はくすくすと笑い出してしまった。
「笑うなよ、不謹慎だ」
「そういう蓮次郎も顔が笑っているじゃないか」
「だって入ってたったの5分だろ? 最短記録じゃないか?」
「ははっ、そうだな。だが強引に言い寄られていたから正直助かった」
「なんだ、翡翠。わざとそいつを階段へ誘導したのか」
「まさか! 私は仮とはいえ『きさら堂』の主人だぞ。客人相手にそんなことするはずがあるまい。二階へ行けば蓮次郎がいると思ったんだ」
「なるほど。しつこい客は俺に追い払わせるつもりだったのか」
「その通り」
蓮次郎は苦笑しながら降りてきて、支えるように翡翠の手を取ってくれる。
「まぁ、ここに滞在する間くらいは翡翠の用心棒をしてやってもいいが、普段はどうしているんだ?」
「無限回廊か浄玻璃鏡か、ここには上手く使えば身を守れる術はたくさんある」
「ははは、とんだ化け物屋敷だな」
「それらを仕入れてきた蓮次郎が言うことではあるまい」
「確かにな」
蓮次郎と翡翠は顔を見合わせてくすくす笑う。
だがすぐに、蓮次郎は真面目な顔に戻った。
「でも、本当に危ないものはあちら側の証城寺に引き取ってもらっているから安心してくれ」
「あちら側は確か妖気が無いのだったか」
「あぁ。悪いものを封印するには、あちら側の方が向いているんだ」
翡翠が絵から生まれたばかりの頃、時津彦様に教えてもらったことがある。妖気のまったく無い『あちら側』の世界と、常に妖気が漂っている『こちら側』の世界。隣り合ったふたつの世界があるのだという。
時津彦様は自分が生まれ育った世界を現世(うつしよ)、こちら側を幽世(かくりよ)と呼んでいた。でも、こちら側で生まれ育った蓮次郎にしてみれば、こちら側こそが現世(うつしよ)だと主張するので、結局ふたつの世界は『あちら側』と『こちら側』というあいまいな呼称に落ち着いていた。
『きさら堂』を出たことのない翡翠には『あちら側』と『こちら側』の違いはよく分からない。
蓮次郎の話では『あちら側』は大きな戦争や大きな災害が繰り返し起こっていて、それを乗り越えるために文化文明がはるかに進んでいるらしい。反対に『こちら側』では戦争も災害もほとんどなくて平和だが、文化文明はかなり遅れているらしい。
『あちら側』の入り口は証城寺の狸が、『こちら側』の入り口はきさら神社の狐が管理していた。
「ところで翡翠、ここの階段から消えた人間はいったいどこへ行くのか知っているか?」
「さぁ? どこだろう? 時津彦様はそんな間抜け野郎は放っておけと言うので、今まで探したこともなかったな」
翡翠やメイド達は『きさら堂』に属するあやかしなので、大階段で立ち止まってもどこかへ飛ばされることはない。蓮次郎も鬼の血を引いているので、気を抜かなければ平気なものらしい。
「まぁ、俺も簡単な約束すら守れないようなバカをわざわざ探そうとは思わないが」
「だろう?」
「だが、その立派な鞄はどうするんだ?」
メイドのひいが階段下に落ちたアタッシュケースを拾うのを見て、蓮次郎が聞いてきた。
「今までの客の忘れ物と同様に、蔵にしまっておくだけだ」
「蔵か」
敷地内の裏庭にある土蔵には、普通の客には売らない品々が置いてある。
蓮次郎は何かを思いついたようにパチンと指を鳴らした。
「なぁ、翡翠。この後暇になったんなら、どうだ? 花見でもしないか? 仕入れたものをゆっくり見せたいし、欧羅巴のうまい酒もいくつか持参したんだ」
「酒盛りするのは別に良いが、桜の時期はとうに終わっているのではないか? そもそも『きさら堂』の敷地には桜の木など一本もないぞ」
「何を言う。あるだろうが、立派な桜が」
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「桜が? どこに?」
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蓮次郎がニッと口角を上げた。
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