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第五章 友哉とあきらの視える日常
5-(3) それぞれに見える世界 前編
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友哉の目が見えなくなってから二週間が過ぎていた。
狼はがしは順調に進んで、俺には今6匹の式狼がいる。
大雅、連翹、つゆくさ、朧、磯良、アレス。最終的には21匹になる予定だから新しい名前を考えるのも面倒で、もとの所有者が付けた名前をそのまま使っている。統一感は無いし、うっすらと中二病の匂いがしなくもないけれど。
力のある術者でも3匹より多く所有するのは稀で、過去の当主が10匹従えていたのが最高なんだそうだ。式を持ちすぎるのも術者の負担になるらしいから、いずれ何匹かは野に放つつもりだ。
解放した狼がどうなるかは分からないと雪華は言っていた。笛流里がやって来たという西方へ帰ると伝わっていて、一度放つともう二度と戻って来ないそうだ。だから、主従のつながりが切れた銀箭が未だに姿を見せることを、雪華はかなり訝しく思っているようだった。
「あきら、吉野部長と御子神、何時に来るって?」
片手で壁を触りながら歩く友哉が、リンリンの通知音に気付いて聞いてくる。
俺は友哉の少し後ろを歩きながら、スマートフォンのアプリを開いてリンリンのメッセージを読んだ
「もうちょっとかかるみたい。なんか、御前の踏切に花を供えてから来るって」
「花を供える?」
「うん、最近、そこで知り合いが死んだらしいよ」
「え、俺の知っている人?」
「どうだろ? 名前は書いてないけど」
友哉は応接室の前まで来ると、手探りでドアを開けて中に入った。ソファの位置を把握しているので、ほとんど迷いなく進んで自力でそこに座ってしまう。
両親のもとへは帰らないと約束してくれた翌日から、友哉はできるだけ自分のことは自分でやりたいと言い出して、壁伝いに歩く練習なんかをさっさと始めてしまった。俺は友哉を一生介助していくつもりだからそんなことは必要ないと言ったんだけど、友哉が出来るだけひとりで歩きたいというのを止めることは出来なくて、結局その練習に付き合うことになってしまった。
そうして、友哉はトイレと洗面所と風呂とダイニングはスタスタと怖がらずに行けるようになったし、ひとりで風呂に入れるようになったし、食事もかなり上達してしまっている。
もともと器用なこともあって、見えない状態に慣れるにつれて友哉の出来ることはどんどん増えていった。最近では、掃除や洗濯、料理も出来るようになりたいなんて言い出して、山田と佐藤に手伝ってもらいながら楽し気に挑戦を始めてしまっている。
家事が苦手な俺は友哉と一緒にいる時間が減ってしまって、実はちょっと面白くない。
ゲームでもすればいいと友哉は言うけど、あれは二人でやるから楽しかったんだ。
友哉は根っからの努力家だから、その内に白杖の使い方とか点字の読み書きとかを習いたいと言い出すと思う。俺は友哉を盲学校へは行かせたくない。俺の手の届かないところで人間関係を作って欲しくない。俺以外の誰かを大事に思って欲しくないから。
友哉に嫌われることなく、自然に孤立させるにはどうしたらいいだろう。
「あきら、どうした? 座らないのか?」
俺が悪いことを考えていることも知らずに、友哉はいつも通りに俺を呼んだ。
俺は友哉の隣に腰を下ろして、その手の上に一台のスマートフォンをぽんと乗せた。
「はいこれ」
「これ?」
「友哉のスマホ」
「えー、渡されても使えないよ。表面ツルツルでボタンが無いし」
「音声読み上げ機能とかうまく工夫すれば使えるらしいよ。吉野部長が、見えない人に便利なアプリを勉強したから今日教えてくれるって」
「まじで!?」
「うん、まじで」
「へぇ、そんな機能があるんだ。知らなかった」
「俺達、スマホほとんど使いこなせてないもんな」
「見えている時も使っていなかったのに、見えなくなってからちゃんと使えるのかな」
「スマホは絶対に使うべきだって吉野部長が力説してた。文明の利器はそのためにあるんです、だって」
「そっかぁ、ちょっと楽しみだな」
友哉はスマートフォンの表面を撫でながら嬉しそうに笑顔を見せた。
本当は友哉にはスマートフォンも持たせたくなかったけれど、行動を制限しすぎるのも不自然に思われるかも知れない。なにより、今みたいな笑顔を見ると、俺もふわっと嬉しくなってしまう。
「ねぇ友哉、どっか行きたいとこある?」
「ん、なんで」
「だってもう俺ら、どこにでも行けるじゃん?」
「うーん、行きたいところかぁ。閉じ込められていた時は、もしも御前市を出られたら日本中回りたいなんて思っていたけど」
「いいね、日本中か。行こうよ」
「簡単に言うなよ。俺を連れていると介護みたいで楽しめないだろ」
「なんで? 今だって一緒にいるだけで楽しいのに」
友哉がちょっと瞬きをする。
「あはは、確かに。あきらと一緒ならどこでも楽しいかもな」
「うん、きっと楽しいよ」
吉野とミコッチに友哉の目のことを話した時は、思った通りにミコッチから大きな反発があった。友哉を家に帰してきちんと治療を受けさせ、障害者手帳も取得して福祉のサポートを受けさせるべきだと。
友哉の失明は呪いによって魂を傷付けられた結果だから医学で治せるものではないし、医者やヘルパーが友哉の体にべたべた触るなんて俺は不快でしかない。ミコッチに何を言われようと、俺は友哉の一番近くにいられるこの現状を変えるつもりは無かった。
以前のミコッチは、いつもふざけた口調で面白いことばっかり話していたのに、一乃峰で友哉が倒れて以降は真面目なことしか言わなくなってしまった。病院での出来事がよっぽど許せないらしくて、会うたびに俺に正論をぶつけてくる。
力を使えば誰でも俺の言いなりになってしまうし、なんだかんだ言っても友哉は俺に甘いから、『久豆葉あきら』に正面から意見できるのはこの世でミコッチだけかもしれない。
俺にとっては貴重な人材なので、どんなにズケズケ言われてもミコッチに危害を加えるつもりは無い。けれど、友哉に余計なことを言わないように脅すことはちゃんと忘れなかった。ミコッチにも大事な家族や大事な友人や大事な彼女がいる。人を脅すって案外簡単なことだ。
ノックの音がして、雪華が皿を持って応接室に顔をのぞかせた。
「あきら、友哉君。佐藤さんがクッキーを焼いてくれたんだ。どうかな」
友哉がすぅっと鼻から息を吸い込む。
「バターのいい匂い……佐藤さんのお菓子美味しいですよね」
「友哉君がこの前作ったチーズケーキも美味しかった」
「いえ、あれはほとんど佐藤さんにやってもらったので」
「いやいや、見えないのに手際がいいって佐藤さんも褒めていたよ」
「そうなら嬉しいな」
雪華はニコニコしながらテーブルに皿を置くと、自分も向かいのソファに腰を下ろした。
「あきら、これ」
雪華がポケットから紙を出して渡してくる。
ざっと目を通してから、俺はふっと息を吐いた。
「なに?」
友哉が首を傾げる。
「数学のプリント」
「勉強、進んでいるのか」
「うん、ばっちりだよー」
友哉は突然視力を失ったので、とりあえず一時的に休学扱いになっている。
俺は友哉のいない学校に行く気は無いからもちろん休学したけれど、俺が休学することについては少しだけ友哉と揉めた。学校に行くように勧める友哉を、高卒認定試験を受けるからと言ってやっと説得したのだ。だから、俺は雪華に勉強を見てもらっていることになっている。
だが、もちろん、今渡された紙は数学のプリントなんかではない。そこには、雪華の手書きで誠司が死んだことが書かれていた。学校の屋上からの転落死、あのクズにはぴったりの死に場所と言うか予想通りというか。
まだ詳細は不明だが、そのうちに警察の調書のコピーが届くことになっているらしい。三乃峰の警察の中には大賀見の息のかかった駒が何人もいる。
誠司の死は予想していたけれど、その時期は思ったよりもずっと早かった。狼を失ったことを隠し通すには、あいつは頭が悪すぎたみたいだ。あれだけ方々に恨みを買っていればいずれ殺されるだろうなと思っていたが、これは予想より早く狼はがしが一族に知られた可能性が高い。警戒しろ、とその紙の最後に書いてあった。
警戒して守りに入るよりも、狼はがしのペースを上げた方がいいと俺は思う。あいつらの狼をはがせばはがすほど、大賀見家は弱体化していく。逆に狼を得た分だけこちらは戦力が上がっていく。まさに攻撃は最大の防御ってやつだ。
「雪彦さん、今日はよろしくお願いします」
友哉がペコっと頭を下げた。
「そう改まらなくてもいいよ。お友達はまだかな?」
「はい、もう少しで着くそうです」
吉野の左耳に憑いているものについて、雪華が判断するという話になっている。あの小鬼は弱い魔物だから放置でかまわないと思うが、友哉が気にしているのだから仕方がなかった。
俺も雪華も、友哉には弱い。
「今日来るのはオカルト研究部の先輩と言ったかな。友哉君は、部活ではどういう研究をしていたんだい?」
雪華は大賀見家の中で醜い輩ばかり見て来たせいか、きれいな友哉を溺愛して庇護欲を全開に向けている。
あれも買おうかこれも買おうかと提案しては、最低限でかまわないと断られ、あげくに屋敷を完全バリアフリーに改築しようなどと言い出したけど、いつまでもお世話になれませんと遠慮されてしょげていた。
それでも、何のかんのと用事を作っては毎日のように友哉に話しかけている。
「えっと……研究と言うほどのことは何もしていなくて、あの道切りのことで力を貸してもらったので……」
「あ、そ、そうか」
道切りによる結界づくりは大賀見家の中でも雪華を中心に行われたことだ。
「ええと、やっぱり友哉君もオカルトに興味があったのかな」
「いいえ。あの部活に入ったのはたまたまで、初めは『あれ』に学校で襲われた時に、吉野部長が部室に入れてくれて……」
「そ、そうか」
『あれ』、つまり式狼を飛ばして俺達を襲っていたのも雪華を中心に行われていたことだ。
俺達は十年以上も加害者と被害者の関係だった。何を話題にしてもかなりの確率で地雷に当たるのに、めげずに話しかける雪華は意外に図太い。
友哉は友哉で、大賀見家のせいで視力を失ったというのに、雪華に対して恨み事も言わず、むしろ呪詛返しで傷付いた足の心配までしてやっている。
狭い世界に閉じ込められて、魂に傷をつけられて、目の光まで失った。憎悪や怨恨で心が真っ黒になってもおかしくは無いのに、奪われたものを数えない生き方はしなやかで強い。
友哉は本当にきれいだ。
「えっと、クッキー、いただきますね」
「俺が取るよ」
友哉がテーブルに手を伸ばしたので、俺は横からクッキーを一枚取って、友哉の手に持たせた。
「サンキュ」
笑ってそれを口に持って行き、クッキーが唇に触れる直前に友哉は手を止めた。
「あっ」
驚いたように見えない目を見開き、急に立ち上がる。クッキーがテーブルの上に落ちてカツンと割れた。
「友哉?」
「何かが……」
俺と雪華は友哉の向いている方にばっと視線を向けた。
壁際に置かれた棚に生け花が飾られているだけで、何も異変は無い。
「何かって?」
「何かが、近づいて来る」
俺は雪華を見たが、雪華にも分からないらしくて首を振った。
「何も無いようだが……」
「えっと、人っぽいものが見えて」
「人?」
「うん、大きいのと小さいのがあっちの方に」
友哉は壁を指し、その指がゆっくりと動く。俺達がその指の示す先を目で追っていると、玄関の方角でぴたりと止まった。
ハッとしたように雪華が言った。
「そうか、壁の向こうか」
友哉の目には壁も生け花も映らないから、その分、俺達より気付くのが早いんだ。
意識を向けると俺にも分かる。玄関の方に大小二つの気配。
小さいのは吉野についているあの小鬼だ。
もうひとつは……。
「叢雲! 碧空!」
「大雅! 連翹! つゆくさ!」
「待って!」
俺達が式狼を呼ぶ声に重ねて、友哉が制止の声を上げた。
「待って下さい! 知り合いです! 狼で襲わないで!」
現れた式狼達が次にどうすればいいのかと、こっちを見上げてくる。
その時、コンコンコンとドアをノックする音が響いた。
「あきらさん、友哉さん、お友達がいらっしゃいましたよ。お通ししてもよろしいですか」
山田の声だった。
俺と雪華が一瞬ためらった隙に、友哉が返事をする。
「はい、どうぞ通してください」
「友哉、だめだ、危険だ」
庇うように肩を抱き寄せると、友哉は俺の手をポンポンと叩いた。
「大丈夫だよ、あきらも顔を見れば分かるだろ? 中学の時の同級生だよ」
同級生とか、顔とか、そんなものに目はいかない。
だって、そいつ、下半身が無い。
裂けた腹から内臓ずるずるひきずって、血か何か分からないものをボトボト落として、そこに無数の手が群がっているじゃないか。
「覚えていないのか? 野球部の竹久だよ、竹久一球!」
友哉ののんきな声に、俺達は混乱して動けない。
野球部とか名前とかそんな情報はどうでもいい。あれは見るからに化け物じゃないか。
化け物なら式狼に食べさせればいいだけなのに、懐かしそうにしている友哉の存在がそれを許さない。
途惑いで固まっている俺達の耳に、玄関で応対する山田の声と、ゆっくり近づいて来る複数の足音が聞こえてくる。
「失礼します」
山田がドアを開け、その後ろからアームホルダーで左腕を吊ったミコッチと、顔色の悪い吉野と、吉野にくっついた下半身ドロドロの悪霊が応接室に入って来てしまった。
叢雲や大雅らは毛を逆立てて身構えたが、俺と雪華の指示が無いからそのまま動かない。
「吉野さん、大丈夫ですか」
吉野は眩暈がするように頭を抱えていて、ミコッチが動かせる右手だけで支えるように寄り添っていた。
「吉野部長、具合が悪いのか?」
「うん。とりあえず吉野さんを休ませてもらえるか? 頭痛と耳鳴りがするみたいで」
「あ、ああ。ソファへどうぞ」
雪華に言われて、ミコッチは吉野を座らせた。左耳の小鬼は吉野にしがみついて震えているが、力が弱すぎて何の守りにもなっていない。
ミコッチが顔を上げ、ちょっと困ったように片手を上げる。
「よう、久しぶりだな」
ミコッチの後ろで、下半身の無いそいつも片手を上げて笑った。
―― あれぇ、久しぶりだなぁ。俺だよ、竹久、竹久一球。
狼はがしは順調に進んで、俺には今6匹の式狼がいる。
大雅、連翹、つゆくさ、朧、磯良、アレス。最終的には21匹になる予定だから新しい名前を考えるのも面倒で、もとの所有者が付けた名前をそのまま使っている。統一感は無いし、うっすらと中二病の匂いがしなくもないけれど。
力のある術者でも3匹より多く所有するのは稀で、過去の当主が10匹従えていたのが最高なんだそうだ。式を持ちすぎるのも術者の負担になるらしいから、いずれ何匹かは野に放つつもりだ。
解放した狼がどうなるかは分からないと雪華は言っていた。笛流里がやって来たという西方へ帰ると伝わっていて、一度放つともう二度と戻って来ないそうだ。だから、主従のつながりが切れた銀箭が未だに姿を見せることを、雪華はかなり訝しく思っているようだった。
「あきら、吉野部長と御子神、何時に来るって?」
片手で壁を触りながら歩く友哉が、リンリンの通知音に気付いて聞いてくる。
俺は友哉の少し後ろを歩きながら、スマートフォンのアプリを開いてリンリンのメッセージを読んだ
「もうちょっとかかるみたい。なんか、御前の踏切に花を供えてから来るって」
「花を供える?」
「うん、最近、そこで知り合いが死んだらしいよ」
「え、俺の知っている人?」
「どうだろ? 名前は書いてないけど」
友哉は応接室の前まで来ると、手探りでドアを開けて中に入った。ソファの位置を把握しているので、ほとんど迷いなく進んで自力でそこに座ってしまう。
両親のもとへは帰らないと約束してくれた翌日から、友哉はできるだけ自分のことは自分でやりたいと言い出して、壁伝いに歩く練習なんかをさっさと始めてしまった。俺は友哉を一生介助していくつもりだからそんなことは必要ないと言ったんだけど、友哉が出来るだけひとりで歩きたいというのを止めることは出来なくて、結局その練習に付き合うことになってしまった。
そうして、友哉はトイレと洗面所と風呂とダイニングはスタスタと怖がらずに行けるようになったし、ひとりで風呂に入れるようになったし、食事もかなり上達してしまっている。
もともと器用なこともあって、見えない状態に慣れるにつれて友哉の出来ることはどんどん増えていった。最近では、掃除や洗濯、料理も出来るようになりたいなんて言い出して、山田と佐藤に手伝ってもらいながら楽し気に挑戦を始めてしまっている。
家事が苦手な俺は友哉と一緒にいる時間が減ってしまって、実はちょっと面白くない。
ゲームでもすればいいと友哉は言うけど、あれは二人でやるから楽しかったんだ。
友哉は根っからの努力家だから、その内に白杖の使い方とか点字の読み書きとかを習いたいと言い出すと思う。俺は友哉を盲学校へは行かせたくない。俺の手の届かないところで人間関係を作って欲しくない。俺以外の誰かを大事に思って欲しくないから。
友哉に嫌われることなく、自然に孤立させるにはどうしたらいいだろう。
「あきら、どうした? 座らないのか?」
俺が悪いことを考えていることも知らずに、友哉はいつも通りに俺を呼んだ。
俺は友哉の隣に腰を下ろして、その手の上に一台のスマートフォンをぽんと乗せた。
「はいこれ」
「これ?」
「友哉のスマホ」
「えー、渡されても使えないよ。表面ツルツルでボタンが無いし」
「音声読み上げ機能とかうまく工夫すれば使えるらしいよ。吉野部長が、見えない人に便利なアプリを勉強したから今日教えてくれるって」
「まじで!?」
「うん、まじで」
「へぇ、そんな機能があるんだ。知らなかった」
「俺達、スマホほとんど使いこなせてないもんな」
「見えている時も使っていなかったのに、見えなくなってからちゃんと使えるのかな」
「スマホは絶対に使うべきだって吉野部長が力説してた。文明の利器はそのためにあるんです、だって」
「そっかぁ、ちょっと楽しみだな」
友哉はスマートフォンの表面を撫でながら嬉しそうに笑顔を見せた。
本当は友哉にはスマートフォンも持たせたくなかったけれど、行動を制限しすぎるのも不自然に思われるかも知れない。なにより、今みたいな笑顔を見ると、俺もふわっと嬉しくなってしまう。
「ねぇ友哉、どっか行きたいとこある?」
「ん、なんで」
「だってもう俺ら、どこにでも行けるじゃん?」
「うーん、行きたいところかぁ。閉じ込められていた時は、もしも御前市を出られたら日本中回りたいなんて思っていたけど」
「いいね、日本中か。行こうよ」
「簡単に言うなよ。俺を連れていると介護みたいで楽しめないだろ」
「なんで? 今だって一緒にいるだけで楽しいのに」
友哉がちょっと瞬きをする。
「あはは、確かに。あきらと一緒ならどこでも楽しいかもな」
「うん、きっと楽しいよ」
吉野とミコッチに友哉の目のことを話した時は、思った通りにミコッチから大きな反発があった。友哉を家に帰してきちんと治療を受けさせ、障害者手帳も取得して福祉のサポートを受けさせるべきだと。
友哉の失明は呪いによって魂を傷付けられた結果だから医学で治せるものではないし、医者やヘルパーが友哉の体にべたべた触るなんて俺は不快でしかない。ミコッチに何を言われようと、俺は友哉の一番近くにいられるこの現状を変えるつもりは無かった。
以前のミコッチは、いつもふざけた口調で面白いことばっかり話していたのに、一乃峰で友哉が倒れて以降は真面目なことしか言わなくなってしまった。病院での出来事がよっぽど許せないらしくて、会うたびに俺に正論をぶつけてくる。
力を使えば誰でも俺の言いなりになってしまうし、なんだかんだ言っても友哉は俺に甘いから、『久豆葉あきら』に正面から意見できるのはこの世でミコッチだけかもしれない。
俺にとっては貴重な人材なので、どんなにズケズケ言われてもミコッチに危害を加えるつもりは無い。けれど、友哉に余計なことを言わないように脅すことはちゃんと忘れなかった。ミコッチにも大事な家族や大事な友人や大事な彼女がいる。人を脅すって案外簡単なことだ。
ノックの音がして、雪華が皿を持って応接室に顔をのぞかせた。
「あきら、友哉君。佐藤さんがクッキーを焼いてくれたんだ。どうかな」
友哉がすぅっと鼻から息を吸い込む。
「バターのいい匂い……佐藤さんのお菓子美味しいですよね」
「友哉君がこの前作ったチーズケーキも美味しかった」
「いえ、あれはほとんど佐藤さんにやってもらったので」
「いやいや、見えないのに手際がいいって佐藤さんも褒めていたよ」
「そうなら嬉しいな」
雪華はニコニコしながらテーブルに皿を置くと、自分も向かいのソファに腰を下ろした。
「あきら、これ」
雪華がポケットから紙を出して渡してくる。
ざっと目を通してから、俺はふっと息を吐いた。
「なに?」
友哉が首を傾げる。
「数学のプリント」
「勉強、進んでいるのか」
「うん、ばっちりだよー」
友哉は突然視力を失ったので、とりあえず一時的に休学扱いになっている。
俺は友哉のいない学校に行く気は無いからもちろん休学したけれど、俺が休学することについては少しだけ友哉と揉めた。学校に行くように勧める友哉を、高卒認定試験を受けるからと言ってやっと説得したのだ。だから、俺は雪華に勉強を見てもらっていることになっている。
だが、もちろん、今渡された紙は数学のプリントなんかではない。そこには、雪華の手書きで誠司が死んだことが書かれていた。学校の屋上からの転落死、あのクズにはぴったりの死に場所と言うか予想通りというか。
まだ詳細は不明だが、そのうちに警察の調書のコピーが届くことになっているらしい。三乃峰の警察の中には大賀見の息のかかった駒が何人もいる。
誠司の死は予想していたけれど、その時期は思ったよりもずっと早かった。狼を失ったことを隠し通すには、あいつは頭が悪すぎたみたいだ。あれだけ方々に恨みを買っていればいずれ殺されるだろうなと思っていたが、これは予想より早く狼はがしが一族に知られた可能性が高い。警戒しろ、とその紙の最後に書いてあった。
警戒して守りに入るよりも、狼はがしのペースを上げた方がいいと俺は思う。あいつらの狼をはがせばはがすほど、大賀見家は弱体化していく。逆に狼を得た分だけこちらは戦力が上がっていく。まさに攻撃は最大の防御ってやつだ。
「雪彦さん、今日はよろしくお願いします」
友哉がペコっと頭を下げた。
「そう改まらなくてもいいよ。お友達はまだかな?」
「はい、もう少しで着くそうです」
吉野の左耳に憑いているものについて、雪華が判断するという話になっている。あの小鬼は弱い魔物だから放置でかまわないと思うが、友哉が気にしているのだから仕方がなかった。
俺も雪華も、友哉には弱い。
「今日来るのはオカルト研究部の先輩と言ったかな。友哉君は、部活ではどういう研究をしていたんだい?」
雪華は大賀見家の中で醜い輩ばかり見て来たせいか、きれいな友哉を溺愛して庇護欲を全開に向けている。
あれも買おうかこれも買おうかと提案しては、最低限でかまわないと断られ、あげくに屋敷を完全バリアフリーに改築しようなどと言い出したけど、いつまでもお世話になれませんと遠慮されてしょげていた。
それでも、何のかんのと用事を作っては毎日のように友哉に話しかけている。
「えっと……研究と言うほどのことは何もしていなくて、あの道切りのことで力を貸してもらったので……」
「あ、そ、そうか」
道切りによる結界づくりは大賀見家の中でも雪華を中心に行われたことだ。
「ええと、やっぱり友哉君もオカルトに興味があったのかな」
「いいえ。あの部活に入ったのはたまたまで、初めは『あれ』に学校で襲われた時に、吉野部長が部室に入れてくれて……」
「そ、そうか」
『あれ』、つまり式狼を飛ばして俺達を襲っていたのも雪華を中心に行われていたことだ。
俺達は十年以上も加害者と被害者の関係だった。何を話題にしてもかなりの確率で地雷に当たるのに、めげずに話しかける雪華は意外に図太い。
友哉は友哉で、大賀見家のせいで視力を失ったというのに、雪華に対して恨み事も言わず、むしろ呪詛返しで傷付いた足の心配までしてやっている。
狭い世界に閉じ込められて、魂に傷をつけられて、目の光まで失った。憎悪や怨恨で心が真っ黒になってもおかしくは無いのに、奪われたものを数えない生き方はしなやかで強い。
友哉は本当にきれいだ。
「えっと、クッキー、いただきますね」
「俺が取るよ」
友哉がテーブルに手を伸ばしたので、俺は横からクッキーを一枚取って、友哉の手に持たせた。
「サンキュ」
笑ってそれを口に持って行き、クッキーが唇に触れる直前に友哉は手を止めた。
「あっ」
驚いたように見えない目を見開き、急に立ち上がる。クッキーがテーブルの上に落ちてカツンと割れた。
「友哉?」
「何かが……」
俺と雪華は友哉の向いている方にばっと視線を向けた。
壁際に置かれた棚に生け花が飾られているだけで、何も異変は無い。
「何かって?」
「何かが、近づいて来る」
俺は雪華を見たが、雪華にも分からないらしくて首を振った。
「何も無いようだが……」
「えっと、人っぽいものが見えて」
「人?」
「うん、大きいのと小さいのがあっちの方に」
友哉は壁を指し、その指がゆっくりと動く。俺達がその指の示す先を目で追っていると、玄関の方角でぴたりと止まった。
ハッとしたように雪華が言った。
「そうか、壁の向こうか」
友哉の目には壁も生け花も映らないから、その分、俺達より気付くのが早いんだ。
意識を向けると俺にも分かる。玄関の方に大小二つの気配。
小さいのは吉野についているあの小鬼だ。
もうひとつは……。
「叢雲! 碧空!」
「大雅! 連翹! つゆくさ!」
「待って!」
俺達が式狼を呼ぶ声に重ねて、友哉が制止の声を上げた。
「待って下さい! 知り合いです! 狼で襲わないで!」
現れた式狼達が次にどうすればいいのかと、こっちを見上げてくる。
その時、コンコンコンとドアをノックする音が響いた。
「あきらさん、友哉さん、お友達がいらっしゃいましたよ。お通ししてもよろしいですか」
山田の声だった。
俺と雪華が一瞬ためらった隙に、友哉が返事をする。
「はい、どうぞ通してください」
「友哉、だめだ、危険だ」
庇うように肩を抱き寄せると、友哉は俺の手をポンポンと叩いた。
「大丈夫だよ、あきらも顔を見れば分かるだろ? 中学の時の同級生だよ」
同級生とか、顔とか、そんなものに目はいかない。
だって、そいつ、下半身が無い。
裂けた腹から内臓ずるずるひきずって、血か何か分からないものをボトボト落として、そこに無数の手が群がっているじゃないか。
「覚えていないのか? 野球部の竹久だよ、竹久一球!」
友哉ののんきな声に、俺達は混乱して動けない。
野球部とか名前とかそんな情報はどうでもいい。あれは見るからに化け物じゃないか。
化け物なら式狼に食べさせればいいだけなのに、懐かしそうにしている友哉の存在がそれを許さない。
途惑いで固まっている俺達の耳に、玄関で応対する山田の声と、ゆっくり近づいて来る複数の足音が聞こえてくる。
「失礼します」
山田がドアを開け、その後ろからアームホルダーで左腕を吊ったミコッチと、顔色の悪い吉野と、吉野にくっついた下半身ドロドロの悪霊が応接室に入って来てしまった。
叢雲や大雅らは毛を逆立てて身構えたが、俺と雪華の指示が無いからそのまま動かない。
「吉野さん、大丈夫ですか」
吉野は眩暈がするように頭を抱えていて、ミコッチが動かせる右手だけで支えるように寄り添っていた。
「吉野部長、具合が悪いのか?」
「うん。とりあえず吉野さんを休ませてもらえるか? 頭痛と耳鳴りがするみたいで」
「あ、ああ。ソファへどうぞ」
雪華に言われて、ミコッチは吉野を座らせた。左耳の小鬼は吉野にしがみついて震えているが、力が弱すぎて何の守りにもなっていない。
ミコッチが顔を上げ、ちょっと困ったように片手を上げる。
「よう、久しぶりだな」
ミコッチの後ろで、下半身の無いそいつも片手を上げて笑った。
―― あれぇ、久しぶりだなぁ。俺だよ、竹久、竹久一球。
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