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32 本性
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泣いている唯月の背中を、透がそっと撫でてくれている。
「唯月さん……もう自分を責めないでください……」
唯月の瞳は『番の印』を隠している首元のケロイドを映し、唯月の耳はグスンと鼻をすすり上げる音を聞いた。
あれほど理不尽に踏みにじられたのに、透は唯月を責めるどころか同情しているのだ。
「透さん、あなたは本当に……」
その時、部屋の中にチャイムが鳴り響き、透がパッと体を離した。
「だ、誰か来たみたいですね。えっと、ティッシュティッシュ……」
照れたように笑ってティッシュを取ると、透は涙を拭いて鼻をかむ。
またチャイムが鳴った。
「は、はーい」
唯月が返事をして立ち上がると、間髪入れずにまたチャイムが鳴った。
「え」
連続してボタンを押しているのか、部屋の中に何度もしつこくチャイム音が鳴り続ける。
いったい誰だろうか。
春哉は鍵を持っているし、ほかに訪ねてくるものもいないはずだ。
「唯月さん、ドアフォンは?」
「あ、いえ、この家にはなくて……」
狂気じみた連続チャイムに続き、ドンドンガンガンとドアを叩く音まで聞こえ始めた。まるで怒っているかのような激しい音で、唯月は玄関へ行くのをためらってしまう。
「俺が見てきます」
透がすくっと立って玄関の方へ走って行く。
「え、待って下さい」
慌てて追いかけると、いつのまに取り出したのか、透はナイフを手に持ってかまえていた。
ドアの向こうにいる人物はよほど力が強いらしく、叩かれるたびにドアがしなってミシミシ軋んでいる。
「おい、やめろ! ドアが壊れる! それ以上すると警察呼ぶぞ!」
ドアに向かって透が鋭い声を出すと、ピタッと叩く音が止まった。
「透か? そこにいるのか?」
「え? 慶? 慶なの?」
「ああ、俺だ。すぐここを開けてくれ」
「わ、分かった!」
ドアに伸ばそうとする透の手を、唯月はとっさに後ろからガシッとつかんだ。
「透さん、神崎さんにここに来ることを言ってきましたか?」
透が驚いたように唯月を見返す。
「え、ううん。最初は来るつもりじゃなかったし」
「じゃぁ、どうして彼は透さんの居場所を知っているんです?」
「あれ? そういや何で知っているんだろ?」
唯月は両手でぎゅうっと透の手を握った。
「透さん……。どんなに優しくても、所詮αはαですよ」
透が首をかしげる。
「どういう意味ですか……?」
「あなたの持ち物にはおそらくGPSか何かが仕掛けられています。……それから、もしかしたら盗聴や盗撮もされているかも」
「まさか」
「αという生き物はΩを自分の所有物のように思うものです」
「でも、慶がそんなこと……」
「透? どうした、早く開けてくれ!」
ドアの外から苛立ったような声が聞こえる。
「ちょ、ちょっと待ってて!」
「透さん、αを信じすぎないで。もしもの時はここに逃げてください」
唯月はお守りのように持っていた名刺を透のジャケットのポケットにねじこんだ。それはDVなどの被害に遭っているΩを保護している人権団体の連絡先だった。
びっくりしている透にうなずいて見せてから、唯月は前に出てガチャリとドアの鍵を開けた。
「透!」
とたんに大きな体が飛び込んでくる。まるで唯月のことなど目に入らないかのように、神崎はまっすぐ透の元へ行って肩をつかんだ。
「透、目が赤い。泣いたのか? どうしてナイフを出しているんだ?」
「あぁ、えっとこれは、なんでもないよ……」
「あいつか? あいつに何かされたのか?」
「へ? あいつって?」
「石宮春哉だ」
「春哉さんはいないけど」
「じゃぁ、そこのΩが何かしたのか?」
「なんでだよ。唯月さんとはただ話をしただけで……」
「話ってどんな?」
「どんなって、それは、Ω同士の話だよ」
「Ωの……? それは泣くような話なのか?」
「いいだろ、泣いたって。なんていうか、唯月さんの話にちょっと感情移入しちゃったんだ。俺より唯月さんの方がずっと赤い目をしているんだから、それくらい分かるだろ」
神崎慶が視線を唯月の方へ寄越す。
ぞくりと寒気がした。
「お前、透に何を話した」
「え、あの……」
怖い目だった。
以前会った時にも感じたが、神崎慶はけして善人じゃない。
紳士のような外面で覆い隠しているつもりだろうが、誰よりもαの獣性が強いのを唯月は感じ取っていた。つまり、独占欲も、支配欲も、ほかのαよりはるかに強いはずだ。
「おい、睨むのやめろ」
バシンと透が神崎の腕を叩いた。
ハッとしたように神崎が透を見る。
「透……」
威圧するような空気が霧散して、神崎がしゅんとした顔を見せる。
狼が一瞬で小型犬になったみたいで、唯月はポカンと口を開けた。
「すいません、唯月さん。俺、そろそろ帰ります」
「あ……はい。じゃぁ、靴を」
玄関横の靴箱を開け、紙袋に入れていた透の靴を渡す。
ほわっと透の顔がゆるんだ。
「ありがとう。これ、慶にもらったものだから気に入ってたんです」
「返せて良かったです」
「はい、今日はありがとうございました」
「私も……今日は透さんとお話が出来て良かったです」
「はい、俺もです。それからクッキー、すごく美味しかったです。あの……これは、ホントのホントに本気で言うんですけど」
「は、はい」
「唯月さん、どうか春哉さんと幸せになってください。今までつらい思いをしてきた分、あなたは幸せになるべきですから」
透はにっこりと笑った。
唯月に対して何のわだかまりも無い、無垢な笑顔だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
キッチンの横には小さなパントリーがある。缶詰や調味料、オリーブオイルに酒類などを置いてあるが、ほとんどの棚はスカスカだった。唯月はもともと食が細く、春哉は週末にしかここに来ないので、あまり多く貯蔵する必要が無いのだ。
唯月はパントリーの中に座り込んで、可愛らしいウサギが描かれたチョコレートの缶を膝に乗せていた。
「はぁ……」
両手で顔を覆い、大きく深く息を吐く。
唯月は思ったよりもダメージを受けていた。罪悪感という名のダメージだ。
「なにあれ、純粋すぎるでしょ……」
もしも珀山透が生意気で甘ったれたクソガキだったなら、心の痛みもゼロだったのに。
チョコレートの缶の蓋を開くと、中には春哉と一緒に見に行った映画の半券、春哉と一緒に遊んだ海で見つけた貝殻、春哉と散歩に行った公園の落ち葉で作ったしおりなど、春哉に片想いしていた頃の宝物がぎっしり入っていて、その底に隠すように宝石のついた首輪が埋もれていた。
指先を缶の中に入れて、その美しい宝石をそっと撫でる。
唯月は別に高価なものが欲しいわけではなかった。でも、あの日の唯月は『あれが欲しい』と透の後ろ姿を指差した。『あれと同じくらいに綺麗な首輪をちょうだい。あなた、自分は金持ちだって自慢していたでしょう?』と唯月は拓真に言ったのだ。
金田拓真は珀山家やかつての墨谷家に比べれば、たいして金持ちでもなかった。唯月のせいで受験に失敗したと責めるくせに、ほかの大学を探したり次の年に備えて勉強をしたりする様子も無かった。『運命の番』のフェロモンで唯月はいつも陥落させられていたが、拓真のそれはテクニックも思いやりも無い乱暴なセックスでしかなかった。
金田拓真には秀でたところがひとつも無く、すべての面において春哉に劣っていた。本人もそれを分かっているから、春哉の婚約者を唯月に見せつけたんだろう。
唯月は心の底から拓真を嫌っていた。だから、わざと拓真を挑発した。『買えないならあれでもいいですよ。『取って来い』くらいはあなたにも出来るでしょう?』と。
『運命の番』である唯月に執着している拓真が、仲間たちと透を輪姦して、あげくに首を噛んで自分の番にしてしまうとは思わなかった。そこまで腐りきった外道だとは思っていなかったのに……。
でも、透を地獄へ落としたきっかけは唯月のその一言なんだろう。
「はぁ……」
また深い息を吐く。
せめて透の新しい相手が穏やかなβだったら、唯月の心はもう少し軽かったと思う。けれど、よりにもよってあんなαの権化のような男を透が選んでしまうなんて……。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
運転手付きのベンツはいつも通りに乗り心地が良かったけれど、車内の空気はいつも通りではなかった。
「透、教えてくれ。あのΩと何を話していたんだ」
「だから、教えられないってさっきから言ってるだろ」
「なんで俺に隠し事をする。俺が運命じゃないと分かったからか?」
「はぁ? なんでそうなるんだよ!」
「石宮春哉とよりを戻したいのか?」
「ぜんぜん違うよ! 春哉さんが平日にいないのが分かっていてあの家に行ったんだ。唯月さんと少し話したかったから」
「何を話した」
「だーかーらー、話の内容は唯月さんのプライベートに関わることだから言えないの!」
金田拓真と唯月の関係については口外しないと約束をした。
たとえ相手が大好きな慶でも、透はその約束を破るつもりは無かった。
「それより、どうして俺がここにいるって分かったんだよ」
「…………」
「つうか、なんで慶までここに来たんだよ」
「…………」
「まさか、本当にGPSとか盗聴とかしてないよな」
「そんなことはしていない」
「じゃぁどうやって」
慶は困ったように後ろを見た。つられて透も後ろを見ると、黒いワゴン車がベンツについて来ているようだった。
「透に護衛を付けていた」
「護衛?」
「βの男女10人だ」
と、慶が後ろの車をくいと首で示す。あのワゴンに護衛が乗っているということだろう。
「なんで俺に護衛なんか……しかも10人も? なんで?」
「……透の前に鬼嵜と同じような輩が現れないとも限らないだろう。一人や二人の護衛じゃ、とても透を守り切れない」
鬼嵜の化け物じみた強さを思い出す。確かにβ数人の手には負えない強さだ。
「でも、鬼嵜みたいな奴はめったにいないって、あのナントカいう名医も言ってただろ。慶は過保護すぎるよ」
「本当はいつでもそばにいてこの手で守りたいんだ。でも……ひとりになりたいと言われてしまったからな」
「だって、αの匂いがすると思考がうまくまとまらなくって」
「何をそんなに考える必要がある」
「俺はずっと慶が自分の『運命の番』だと思い込んできたから」
「違うと分かって、別れたくなったのか?」
「そんなんじゃないって! なんで慶はそんな極端なの?」
「俺も出会った時から思い込んでいた。透は『運命の番』だと……。だからこんなに年が離れていても、顔が怖くても、セックスがしつこくても、やきもちが酷くても、それでも透は俺を好きでいてくれると……」
透は目をぱちくりさせた。
「そんなくだらないことを気にしてたの……? いつも自信満々って顔してるくせに」
慶がいきなりぐいっと透の体を抱き寄せた。力を込めて両手でぎゅっと抱きしめられる。
「ん……慶、くるし……」
「俺から離れて行かないでくれ。何でもやるから一生そばにいてくれ。何が欲しい? どんなものだって、手に入れて見せる」
「別に、欲しいものなんて無いよ。もう充分にもらっているし」
「透……」
天下の神崎慶が、どうしてこれほど弱気なんだろうか。
誰もが憧れる青年実業家で、しかも歴史ある神崎家の当主で、女もΩもいくらでも寄ってくるだろうに。
慶はまるで透を捕まえるように、強く抱きしめ続けている。
「ね、ちょっと慶、離して。ほんとに苦しい……」
逃げるように体をひねるとポケットから、小さな紙が飛び出した。
「これは何だ?」
慶がその名刺のようなものを取り出す。
「ああ、それ。さっき唯月さんがくれたんだけど」
(そういえば唯月さん、もしもの時は逃げてとかそんなことを言っていたような……?)
「Ω保護団体ひまわりの里……? αによる支配的関係の強要・DV・モラハラ・セクハラにお悩みのΩは是非ご相談ください……?」
読み上げながらどんどん慶の顔が蒼ざめていく。
「透、どうしてこんなものを」
誤解だと説明しようと口を開いた透は、急に苦しくなって声が出なくなった。
圧倒的なαのフェロモンが一気に車内に満ちて、くらくらと強い眩暈がした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
パントリーでうずくまっていた唯月は、玄関の方から音がするのに気付いて慌てて飛び出した。
薄暗くなったリビングに誰かが入って来ようとしている。
「だ、誰? 透さん? なにか忘れ物でも……」
「唯月。なんで電気も付けていないんだ?」
「春哉さん?!」
ぱっと部屋の明かりがつき、スーツ姿の春哉がそこに立っていた。
「どうしたんですか? 今日はあちらに帰る日じゃ……」
「今日は唯月に会いたくて、こっちに来たんだ」
「え?」
「喜んでくれ。やっと離婚の目処が立ったんだ」
「え、あの、離婚って……」
突然の宣言に、唯月は石宮家との契約を思い出した。
石宮の妻にαの子供が出来るまで、離婚は出来ない。
石宮の妻にαの子供が出来るまで、番にも子供を作らせない。
「じゃぁ、あちらの奥さんに子供が出来たんですか?」
春哉は答えず、どさりとソファに腰を下ろした。
「甘い匂いがするな」
「クッキーを焼いたんです。春哉さんも食べますか?」
唯月は慌ててテーブルの上の食器を片付け始める。だが、すでにかなり遅い時間だと気付いて座っている春哉を見上げた。
「あ、でももうこんな時間ですね。すいません、来ると分かっていたらお夕飯作っていたんですけど……今から作るので何か食べたいものがありますか? それとも先にお風呂にします?」
いつもの週末なら時間はたっぷりあるので、完璧に春哉の世話が出来るのだが、今日は何の準備もしていない。
「唯月、そういうのは後でいいから、ここに座りなさい」
「は、はい」
向かい側のソファに座ろうとすると春哉が手を伸ばしたので、その手を取って隣に腰を下ろした。
春哉は視線を下に落としていて、どことなく緊張しているように見えた。
「春哉さん……? あちらで何かあったんですか? 子供が出来たのならしばらくはあちらにいた方が……」
春哉は首を振った。
「唯月、今まで悪かったな……」
「はい?」
「僕が守ると誓ったのに、ちゃんと守れていなかった……」
「ええと、何のことですか」
春哉はなぜか深呼吸をしてから、唯月の顔をじっと見つめてきた。
「僕は、全部知っているんだ」
「ぜん、ぶ?」
全部とはどこからどこまでを指すのだろう。
金田拓真が『運命の番』だったこと?
その拓真と体の関係があったこと?
死なない程度の毒を飲んで、拓真を精神的に追い詰めたこと?
徐々に懐柔して本気にさせて、最後には拓真を自殺に追いやったこと?
それとも、透の事件のことだろうか?
唯月が拓真に宝石の首輪を欲しいと言ってしまったこと?
渡された透の首輪を捨てられずに今でもしまってあること?
事件直後に仮病を使って春哉を引き留め、透のお見舞いに行かせなかったこと?
それとも大学でのことだろうか?
春哉がいつもちらちらと唯月を見ていることを分かっていて近づいたこと?
春哉の友達に頼み込んで、よく春哉と二人きりにしてもらったこと?
妬み嫉みで嫌がらせをしてくる学生に、こっそり倍返しで仕返ししたこと?
それとももっと前のことだろうか?
Ω専用の施設で、女衒のような施設長に勝手に縁組させられるのを恐れてβの養い親を探したこと?
いずれ唯月のせいで家庭が壊れることが分かっていて、自分からその養父を誘惑したこと?
それともさらに前のことだろうか?
虐待されてお腹を空かせ、夜中に台所に行こうとして、酔っ払って寝ている高橋信夫とさやかを見かけたこと?
その手に火のついたタバコがあることに気付いたのに、起こさないようにこっそりとコンビニへ出かけたこと?
火事で燃え上がる家を見て、嬉しすぎて泣いてしまったこと?
それとも、もっともっと前のことだろうか?
運転する父親の腕に唯月がふざけてじゃれついたせいで事故が起きてしまったこと?
唯月のせいで父母が死んだのに、救助してくれた警察官は『神様の天秤が生きる方に傾いたんだね』などと、的外れなことを言っていたっけ……。
「春哉さん、あの、全部って」
ほんの一瞬の内に頭の中を駆け巡った無数の疑問に対して、唯月は自分で自分に首を振った。
いくらなんでも昔の事故の原因なんて、春哉が知っているはずがない。
唯月は冷静になろうとして呼吸を整えた。
「全部だよ、唯月」
そう言って、春哉はスマホの画面を唯月に向けた。
その小さな画面の中に唯月の姿が映っていた。
唯月は玄関で透の腕をつかんでいた。
スマホから音声が流れる。
『透さん……。どんなに優しくても、所詮αはαですよ』
『どういう意味ですか?』
『あなたの持ち物にはおそらくGPSか何かが仕掛けられています。……それから、もしかしたら盗聴や盗撮もされているかもしれない』
『まさか』
『αという生き物はΩを自分の所有物のように思うものです』
『でも、』
そこで春哉の指が画面をタップし、映像は一時停止した。
「僕がずっと監視していることを、唯月は知っていたのか?」
唯月は肯定も否定もしなかった。盗撮されていることは知らなかったが、可能性はあると思っていた。αという生き物は独占欲が高いものだから。
「いつから……?」
唯月の声は震えていた。
「この家を建てた時からだ」
ギクリと唯月の体が硬直する。
「じゃぁ……春哉さんは、私と金田拓真とのことを……」
「あぁ、見たよ」
あの男に犯され、『運命の番』のフェロモンに抗えずに喜んでいた唯月の姿を見ていながら、春哉は今まで素知らぬ顔を通してきたのか。
絶望で血の気が引いた。
αという生き物はΩやβに比べてはるかにプライドが高い。自分のものを汚されて許せるはずがない。自分を裏切ったΩなど、ゴミをゴミ箱に捨てるよりも簡単に切り捨てるはずだ。
ぽたっと手の上に涙が落ちた。
「……お、お別れしないと、いけませんか……?」
ぽた、ぽた、と涙がいくつも落ちる。
結婚できなくても、自由に子供を作れなくても、週末にしか会えなくても、ただ、春哉の番でいられることが幸せだったのに……。
「どうして? 別れる必要なんて無いだろう?」
春哉は予想外のことを言って、唯月の肩を優しく抱き寄せた。
「だ、だって、私は……ほかのαと……」
「『運命の番』に抱かれているのに、唯月は朦朧としながらずっと僕の名前を呼んでいた。やがて正気に戻ると、あいつを思い切り罵倒し始めた。僕はあの映像を見て、あのゲス野郎に対する怒りと同時に、唯月に対して感動すら覚えたよ……」
「かん、どう?」
春哉は微笑んでうなずいた。
「唯月は僕を裏切ってなんかない。『運命の番』が現れたのに、それでも僕を選んでくれたんだろう?」
「はい……はい、私には春哉さんだけです。私が好きなのは春哉さんだけです」
唯月が春哉にしがみつくと、春哉は子供にするように頭を撫で始めた。
「僕にも唯月だけだよ……」
「春哉さん」
春哉を失わないで済むと分かって、唯月の目からはまた涙が溢れてきた。
どうしてこれほど春哉がいいのか、自分でもよく分からない。
春哉は典型的なαで、特権意識が高く、Ωを下に見ているような男だ。珀山を利用するために純真無垢な透を騙すことにもまったく良心の呵責を覚えないようだったし、石宮の妻に対しても誠実とは言い難い。かなり酷薄な性格だと思う。
最初は初めて話したαだから好きなんだと思っていた。でも、ほかのαに対して同じ気持ちにはならなかった。番になってからは、番だからこそ愛しいんだと思っていた。でも、『運命の番』が現れても、やはり唯月は春哉しか愛せなかった。
春哉にどんな欠点があったとしても、やはり唯月にとって春哉だけが特別な存在だった。
そばにいてくれることを確かめるように春哉の匂いを嗅ぐと、春哉も同じように唯月の髪の匂いを嗅いでくる。
「いい匂いだ」
「春哉さんも」
春哉は愛おしそうに唯月のおでこにキスをした。
「本当のことを言うとね、僕は石宮の方の妻とは一度も寝ていないんだ」
「そう……なんですか」
「うん。彼女は金のために結婚した僕を蛇蝎のように嫌っていた。僕もさすがに嫌がる相手にはものが勃たなくてね……。これでは永遠に子供なんて作れないだろう?」
春哉はおかしそうにクスッと笑った。
唯月はハッとした。それが金田拓真との決定的な違いだと思った。拓真は女を犯せるけれど、春哉にはそれが出来ない。たとえそのせいで契約が果たせず、資産家の娘と離婚することになっても。
「春哉さん、大好きです……」
今まで何百回と言ってきた言葉を、これからも何百回と言うだろう言葉を、唯月は言った。
「わたしにとって、春哉さんだけが運命です」
「知ってるよ」
「私、貧乏暮らしでも平気です。家計もきっちりやりくりできるし、ちゃんと働きます。Ωでも番持ちなら働けるところも探しやすいだろうし……」
「大丈夫だよ、唯月。そんな心配はいらないんだ。たんまりと慰謝料がもらえるから」
「医者……?」
「慰謝料。僕の妻はね、βの男と長い間不倫していたんだ。その証拠を石宮の義父に突き付けて、この家と土地の名義と相当額の慰謝料をせしめたから」
唯月はポカンと春哉を見上げた。
春哉の方は最初から堂々と番の唯月を囲っているのに、妻の方がほかの男と関係すると不倫という扱いになってしまうのか。
その不平等さひとつを見ても、世界はα中心に回っていることが分かる。
「石宮の……当主様が、よく納得してくれましたね。とても頑固な方なんでしょう?」
「あぁ、頑固というより、あれはαの子孫に対する妄執だな。だから、どうしてもαの子供が欲しいなら人工授精はどうかと提案して来たよ。そのための精子提供ならいくらでも協力すると言ってね」
「じゃぁ……」
「僕は二人の未来を守って見せると約束しただろう? だいぶ時間がかかったけれど……やっとそれが果たせるよ。結婚しよう、唯月。そして温かい家庭を築こう」
春哉の顔は誠実そのものだった。
艱難辛苦を乗り越えて結ばれる物語の中のヒーローさながら。
でも、春哉はとうとう最後まで盗撮していたことを謝らなかった。これから先は監視をやめるとも言わなかった。きっとαが自分のΩを管理するのは当たり前だと思っているのだ。この先もずっと唯月を監視し続けるつもりなのだ。
それでも。
それが分かっていても、唯月は嬉しかった。
「……はい、はい、春哉さん。私を春哉さんのお嫁さんにしてください……」
小さく掠れた声で返事をして、その後はずっと春哉の胸にしがみついて泣きじゃくった。
神様は、いつも唯月に味方してくれる。
今日もまた、神様の天秤は唯月の方へ傾いてくれた。
「春哉さん、愛しています……本当に、愛しています……」
胸の内にある小さな不安を打ち消すように、唯月は何度も春哉に愛を告げ続けた。
「唯月さん……もう自分を責めないでください……」
唯月の瞳は『番の印』を隠している首元のケロイドを映し、唯月の耳はグスンと鼻をすすり上げる音を聞いた。
あれほど理不尽に踏みにじられたのに、透は唯月を責めるどころか同情しているのだ。
「透さん、あなたは本当に……」
その時、部屋の中にチャイムが鳴り響き、透がパッと体を離した。
「だ、誰か来たみたいですね。えっと、ティッシュティッシュ……」
照れたように笑ってティッシュを取ると、透は涙を拭いて鼻をかむ。
またチャイムが鳴った。
「は、はーい」
唯月が返事をして立ち上がると、間髪入れずにまたチャイムが鳴った。
「え」
連続してボタンを押しているのか、部屋の中に何度もしつこくチャイム音が鳴り続ける。
いったい誰だろうか。
春哉は鍵を持っているし、ほかに訪ねてくるものもいないはずだ。
「唯月さん、ドアフォンは?」
「あ、いえ、この家にはなくて……」
狂気じみた連続チャイムに続き、ドンドンガンガンとドアを叩く音まで聞こえ始めた。まるで怒っているかのような激しい音で、唯月は玄関へ行くのをためらってしまう。
「俺が見てきます」
透がすくっと立って玄関の方へ走って行く。
「え、待って下さい」
慌てて追いかけると、いつのまに取り出したのか、透はナイフを手に持ってかまえていた。
ドアの向こうにいる人物はよほど力が強いらしく、叩かれるたびにドアがしなってミシミシ軋んでいる。
「おい、やめろ! ドアが壊れる! それ以上すると警察呼ぶぞ!」
ドアに向かって透が鋭い声を出すと、ピタッと叩く音が止まった。
「透か? そこにいるのか?」
「え? 慶? 慶なの?」
「ああ、俺だ。すぐここを開けてくれ」
「わ、分かった!」
ドアに伸ばそうとする透の手を、唯月はとっさに後ろからガシッとつかんだ。
「透さん、神崎さんにここに来ることを言ってきましたか?」
透が驚いたように唯月を見返す。
「え、ううん。最初は来るつもりじゃなかったし」
「じゃぁ、どうして彼は透さんの居場所を知っているんです?」
「あれ? そういや何で知っているんだろ?」
唯月は両手でぎゅうっと透の手を握った。
「透さん……。どんなに優しくても、所詮αはαですよ」
透が首をかしげる。
「どういう意味ですか……?」
「あなたの持ち物にはおそらくGPSか何かが仕掛けられています。……それから、もしかしたら盗聴や盗撮もされているかも」
「まさか」
「αという生き物はΩを自分の所有物のように思うものです」
「でも、慶がそんなこと……」
「透? どうした、早く開けてくれ!」
ドアの外から苛立ったような声が聞こえる。
「ちょ、ちょっと待ってて!」
「透さん、αを信じすぎないで。もしもの時はここに逃げてください」
唯月はお守りのように持っていた名刺を透のジャケットのポケットにねじこんだ。それはDVなどの被害に遭っているΩを保護している人権団体の連絡先だった。
びっくりしている透にうなずいて見せてから、唯月は前に出てガチャリとドアの鍵を開けた。
「透!」
とたんに大きな体が飛び込んでくる。まるで唯月のことなど目に入らないかのように、神崎はまっすぐ透の元へ行って肩をつかんだ。
「透、目が赤い。泣いたのか? どうしてナイフを出しているんだ?」
「あぁ、えっとこれは、なんでもないよ……」
「あいつか? あいつに何かされたのか?」
「へ? あいつって?」
「石宮春哉だ」
「春哉さんはいないけど」
「じゃぁ、そこのΩが何かしたのか?」
「なんでだよ。唯月さんとはただ話をしただけで……」
「話ってどんな?」
「どんなって、それは、Ω同士の話だよ」
「Ωの……? それは泣くような話なのか?」
「いいだろ、泣いたって。なんていうか、唯月さんの話にちょっと感情移入しちゃったんだ。俺より唯月さんの方がずっと赤い目をしているんだから、それくらい分かるだろ」
神崎慶が視線を唯月の方へ寄越す。
ぞくりと寒気がした。
「お前、透に何を話した」
「え、あの……」
怖い目だった。
以前会った時にも感じたが、神崎慶はけして善人じゃない。
紳士のような外面で覆い隠しているつもりだろうが、誰よりもαの獣性が強いのを唯月は感じ取っていた。つまり、独占欲も、支配欲も、ほかのαよりはるかに強いはずだ。
「おい、睨むのやめろ」
バシンと透が神崎の腕を叩いた。
ハッとしたように神崎が透を見る。
「透……」
威圧するような空気が霧散して、神崎がしゅんとした顔を見せる。
狼が一瞬で小型犬になったみたいで、唯月はポカンと口を開けた。
「すいません、唯月さん。俺、そろそろ帰ります」
「あ……はい。じゃぁ、靴を」
玄関横の靴箱を開け、紙袋に入れていた透の靴を渡す。
ほわっと透の顔がゆるんだ。
「ありがとう。これ、慶にもらったものだから気に入ってたんです」
「返せて良かったです」
「はい、今日はありがとうございました」
「私も……今日は透さんとお話が出来て良かったです」
「はい、俺もです。それからクッキー、すごく美味しかったです。あの……これは、ホントのホントに本気で言うんですけど」
「は、はい」
「唯月さん、どうか春哉さんと幸せになってください。今までつらい思いをしてきた分、あなたは幸せになるべきですから」
透はにっこりと笑った。
唯月に対して何のわだかまりも無い、無垢な笑顔だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
キッチンの横には小さなパントリーがある。缶詰や調味料、オリーブオイルに酒類などを置いてあるが、ほとんどの棚はスカスカだった。唯月はもともと食が細く、春哉は週末にしかここに来ないので、あまり多く貯蔵する必要が無いのだ。
唯月はパントリーの中に座り込んで、可愛らしいウサギが描かれたチョコレートの缶を膝に乗せていた。
「はぁ……」
両手で顔を覆い、大きく深く息を吐く。
唯月は思ったよりもダメージを受けていた。罪悪感という名のダメージだ。
「なにあれ、純粋すぎるでしょ……」
もしも珀山透が生意気で甘ったれたクソガキだったなら、心の痛みもゼロだったのに。
チョコレートの缶の蓋を開くと、中には春哉と一緒に見に行った映画の半券、春哉と一緒に遊んだ海で見つけた貝殻、春哉と散歩に行った公園の落ち葉で作ったしおりなど、春哉に片想いしていた頃の宝物がぎっしり入っていて、その底に隠すように宝石のついた首輪が埋もれていた。
指先を缶の中に入れて、その美しい宝石をそっと撫でる。
唯月は別に高価なものが欲しいわけではなかった。でも、あの日の唯月は『あれが欲しい』と透の後ろ姿を指差した。『あれと同じくらいに綺麗な首輪をちょうだい。あなた、自分は金持ちだって自慢していたでしょう?』と唯月は拓真に言ったのだ。
金田拓真は珀山家やかつての墨谷家に比べれば、たいして金持ちでもなかった。唯月のせいで受験に失敗したと責めるくせに、ほかの大学を探したり次の年に備えて勉強をしたりする様子も無かった。『運命の番』のフェロモンで唯月はいつも陥落させられていたが、拓真のそれはテクニックも思いやりも無い乱暴なセックスでしかなかった。
金田拓真には秀でたところがひとつも無く、すべての面において春哉に劣っていた。本人もそれを分かっているから、春哉の婚約者を唯月に見せつけたんだろう。
唯月は心の底から拓真を嫌っていた。だから、わざと拓真を挑発した。『買えないならあれでもいいですよ。『取って来い』くらいはあなたにも出来るでしょう?』と。
『運命の番』である唯月に執着している拓真が、仲間たちと透を輪姦して、あげくに首を噛んで自分の番にしてしまうとは思わなかった。そこまで腐りきった外道だとは思っていなかったのに……。
でも、透を地獄へ落としたきっかけは唯月のその一言なんだろう。
「はぁ……」
また深い息を吐く。
せめて透の新しい相手が穏やかなβだったら、唯月の心はもう少し軽かったと思う。けれど、よりにもよってあんなαの権化のような男を透が選んでしまうなんて……。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
運転手付きのベンツはいつも通りに乗り心地が良かったけれど、車内の空気はいつも通りではなかった。
「透、教えてくれ。あのΩと何を話していたんだ」
「だから、教えられないってさっきから言ってるだろ」
「なんで俺に隠し事をする。俺が運命じゃないと分かったからか?」
「はぁ? なんでそうなるんだよ!」
「石宮春哉とよりを戻したいのか?」
「ぜんぜん違うよ! 春哉さんが平日にいないのが分かっていてあの家に行ったんだ。唯月さんと少し話したかったから」
「何を話した」
「だーかーらー、話の内容は唯月さんのプライベートに関わることだから言えないの!」
金田拓真と唯月の関係については口外しないと約束をした。
たとえ相手が大好きな慶でも、透はその約束を破るつもりは無かった。
「それより、どうして俺がここにいるって分かったんだよ」
「…………」
「つうか、なんで慶までここに来たんだよ」
「…………」
「まさか、本当にGPSとか盗聴とかしてないよな」
「そんなことはしていない」
「じゃぁどうやって」
慶は困ったように後ろを見た。つられて透も後ろを見ると、黒いワゴン車がベンツについて来ているようだった。
「透に護衛を付けていた」
「護衛?」
「βの男女10人だ」
と、慶が後ろの車をくいと首で示す。あのワゴンに護衛が乗っているということだろう。
「なんで俺に護衛なんか……しかも10人も? なんで?」
「……透の前に鬼嵜と同じような輩が現れないとも限らないだろう。一人や二人の護衛じゃ、とても透を守り切れない」
鬼嵜の化け物じみた強さを思い出す。確かにβ数人の手には負えない強さだ。
「でも、鬼嵜みたいな奴はめったにいないって、あのナントカいう名医も言ってただろ。慶は過保護すぎるよ」
「本当はいつでもそばにいてこの手で守りたいんだ。でも……ひとりになりたいと言われてしまったからな」
「だって、αの匂いがすると思考がうまくまとまらなくって」
「何をそんなに考える必要がある」
「俺はずっと慶が自分の『運命の番』だと思い込んできたから」
「違うと分かって、別れたくなったのか?」
「そんなんじゃないって! なんで慶はそんな極端なの?」
「俺も出会った時から思い込んでいた。透は『運命の番』だと……。だからこんなに年が離れていても、顔が怖くても、セックスがしつこくても、やきもちが酷くても、それでも透は俺を好きでいてくれると……」
透は目をぱちくりさせた。
「そんなくだらないことを気にしてたの……? いつも自信満々って顔してるくせに」
慶がいきなりぐいっと透の体を抱き寄せた。力を込めて両手でぎゅっと抱きしめられる。
「ん……慶、くるし……」
「俺から離れて行かないでくれ。何でもやるから一生そばにいてくれ。何が欲しい? どんなものだって、手に入れて見せる」
「別に、欲しいものなんて無いよ。もう充分にもらっているし」
「透……」
天下の神崎慶が、どうしてこれほど弱気なんだろうか。
誰もが憧れる青年実業家で、しかも歴史ある神崎家の当主で、女もΩもいくらでも寄ってくるだろうに。
慶はまるで透を捕まえるように、強く抱きしめ続けている。
「ね、ちょっと慶、離して。ほんとに苦しい……」
逃げるように体をひねるとポケットから、小さな紙が飛び出した。
「これは何だ?」
慶がその名刺のようなものを取り出す。
「ああ、それ。さっき唯月さんがくれたんだけど」
(そういえば唯月さん、もしもの時は逃げてとかそんなことを言っていたような……?)
「Ω保護団体ひまわりの里……? αによる支配的関係の強要・DV・モラハラ・セクハラにお悩みのΩは是非ご相談ください……?」
読み上げながらどんどん慶の顔が蒼ざめていく。
「透、どうしてこんなものを」
誤解だと説明しようと口を開いた透は、急に苦しくなって声が出なくなった。
圧倒的なαのフェロモンが一気に車内に満ちて、くらくらと強い眩暈がした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
パントリーでうずくまっていた唯月は、玄関の方から音がするのに気付いて慌てて飛び出した。
薄暗くなったリビングに誰かが入って来ようとしている。
「だ、誰? 透さん? なにか忘れ物でも……」
「唯月。なんで電気も付けていないんだ?」
「春哉さん?!」
ぱっと部屋の明かりがつき、スーツ姿の春哉がそこに立っていた。
「どうしたんですか? 今日はあちらに帰る日じゃ……」
「今日は唯月に会いたくて、こっちに来たんだ」
「え?」
「喜んでくれ。やっと離婚の目処が立ったんだ」
「え、あの、離婚って……」
突然の宣言に、唯月は石宮家との契約を思い出した。
石宮の妻にαの子供が出来るまで、離婚は出来ない。
石宮の妻にαの子供が出来るまで、番にも子供を作らせない。
「じゃぁ、あちらの奥さんに子供が出来たんですか?」
春哉は答えず、どさりとソファに腰を下ろした。
「甘い匂いがするな」
「クッキーを焼いたんです。春哉さんも食べますか?」
唯月は慌ててテーブルの上の食器を片付け始める。だが、すでにかなり遅い時間だと気付いて座っている春哉を見上げた。
「あ、でももうこんな時間ですね。すいません、来ると分かっていたらお夕飯作っていたんですけど……今から作るので何か食べたいものがありますか? それとも先にお風呂にします?」
いつもの週末なら時間はたっぷりあるので、完璧に春哉の世話が出来るのだが、今日は何の準備もしていない。
「唯月、そういうのは後でいいから、ここに座りなさい」
「は、はい」
向かい側のソファに座ろうとすると春哉が手を伸ばしたので、その手を取って隣に腰を下ろした。
春哉は視線を下に落としていて、どことなく緊張しているように見えた。
「春哉さん……? あちらで何かあったんですか? 子供が出来たのならしばらくはあちらにいた方が……」
春哉は首を振った。
「唯月、今まで悪かったな……」
「はい?」
「僕が守ると誓ったのに、ちゃんと守れていなかった……」
「ええと、何のことですか」
春哉はなぜか深呼吸をしてから、唯月の顔をじっと見つめてきた。
「僕は、全部知っているんだ」
「ぜん、ぶ?」
全部とはどこからどこまでを指すのだろう。
金田拓真が『運命の番』だったこと?
その拓真と体の関係があったこと?
死なない程度の毒を飲んで、拓真を精神的に追い詰めたこと?
徐々に懐柔して本気にさせて、最後には拓真を自殺に追いやったこと?
それとも、透の事件のことだろうか?
唯月が拓真に宝石の首輪を欲しいと言ってしまったこと?
渡された透の首輪を捨てられずに今でもしまってあること?
事件直後に仮病を使って春哉を引き留め、透のお見舞いに行かせなかったこと?
それとも大学でのことだろうか?
春哉がいつもちらちらと唯月を見ていることを分かっていて近づいたこと?
春哉の友達に頼み込んで、よく春哉と二人きりにしてもらったこと?
妬み嫉みで嫌がらせをしてくる学生に、こっそり倍返しで仕返ししたこと?
それとももっと前のことだろうか?
Ω専用の施設で、女衒のような施設長に勝手に縁組させられるのを恐れてβの養い親を探したこと?
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それともさらに前のことだろうか?
虐待されてお腹を空かせ、夜中に台所に行こうとして、酔っ払って寝ている高橋信夫とさやかを見かけたこと?
その手に火のついたタバコがあることに気付いたのに、起こさないようにこっそりとコンビニへ出かけたこと?
火事で燃え上がる家を見て、嬉しすぎて泣いてしまったこと?
それとも、もっともっと前のことだろうか?
運転する父親の腕に唯月がふざけてじゃれついたせいで事故が起きてしまったこと?
唯月のせいで父母が死んだのに、救助してくれた警察官は『神様の天秤が生きる方に傾いたんだね』などと、的外れなことを言っていたっけ……。
「春哉さん、あの、全部って」
ほんの一瞬の内に頭の中を駆け巡った無数の疑問に対して、唯月は自分で自分に首を振った。
いくらなんでも昔の事故の原因なんて、春哉が知っているはずがない。
唯月は冷静になろうとして呼吸を整えた。
「全部だよ、唯月」
そう言って、春哉はスマホの画面を唯月に向けた。
その小さな画面の中に唯月の姿が映っていた。
唯月は玄関で透の腕をつかんでいた。
スマホから音声が流れる。
『透さん……。どんなに優しくても、所詮αはαですよ』
『どういう意味ですか?』
『あなたの持ち物にはおそらくGPSか何かが仕掛けられています。……それから、もしかしたら盗聴や盗撮もされているかもしれない』
『まさか』
『αという生き物はΩを自分の所有物のように思うものです』
『でも、』
そこで春哉の指が画面をタップし、映像は一時停止した。
「僕がずっと監視していることを、唯月は知っていたのか?」
唯月は肯定も否定もしなかった。盗撮されていることは知らなかったが、可能性はあると思っていた。αという生き物は独占欲が高いものだから。
「いつから……?」
唯月の声は震えていた。
「この家を建てた時からだ」
ギクリと唯月の体が硬直する。
「じゃぁ……春哉さんは、私と金田拓真とのことを……」
「あぁ、見たよ」
あの男に犯され、『運命の番』のフェロモンに抗えずに喜んでいた唯月の姿を見ていながら、春哉は今まで素知らぬ顔を通してきたのか。
絶望で血の気が引いた。
αという生き物はΩやβに比べてはるかにプライドが高い。自分のものを汚されて許せるはずがない。自分を裏切ったΩなど、ゴミをゴミ箱に捨てるよりも簡単に切り捨てるはずだ。
ぽたっと手の上に涙が落ちた。
「……お、お別れしないと、いけませんか……?」
ぽた、ぽた、と涙がいくつも落ちる。
結婚できなくても、自由に子供を作れなくても、週末にしか会えなくても、ただ、春哉の番でいられることが幸せだったのに……。
「どうして? 別れる必要なんて無いだろう?」
春哉は予想外のことを言って、唯月の肩を優しく抱き寄せた。
「だ、だって、私は……ほかのαと……」
「『運命の番』に抱かれているのに、唯月は朦朧としながらずっと僕の名前を呼んでいた。やがて正気に戻ると、あいつを思い切り罵倒し始めた。僕はあの映像を見て、あのゲス野郎に対する怒りと同時に、唯月に対して感動すら覚えたよ……」
「かん、どう?」
春哉は微笑んでうなずいた。
「唯月は僕を裏切ってなんかない。『運命の番』が現れたのに、それでも僕を選んでくれたんだろう?」
「はい……はい、私には春哉さんだけです。私が好きなのは春哉さんだけです」
唯月が春哉にしがみつくと、春哉は子供にするように頭を撫で始めた。
「僕にも唯月だけだよ……」
「春哉さん」
春哉を失わないで済むと分かって、唯月の目からはまた涙が溢れてきた。
どうしてこれほど春哉がいいのか、自分でもよく分からない。
春哉は典型的なαで、特権意識が高く、Ωを下に見ているような男だ。珀山を利用するために純真無垢な透を騙すことにもまったく良心の呵責を覚えないようだったし、石宮の妻に対しても誠実とは言い難い。かなり酷薄な性格だと思う。
最初は初めて話したαだから好きなんだと思っていた。でも、ほかのαに対して同じ気持ちにはならなかった。番になってからは、番だからこそ愛しいんだと思っていた。でも、『運命の番』が現れても、やはり唯月は春哉しか愛せなかった。
春哉にどんな欠点があったとしても、やはり唯月にとって春哉だけが特別な存在だった。
そばにいてくれることを確かめるように春哉の匂いを嗅ぐと、春哉も同じように唯月の髪の匂いを嗅いでくる。
「いい匂いだ」
「春哉さんも」
春哉は愛おしそうに唯月のおでこにキスをした。
「本当のことを言うとね、僕は石宮の方の妻とは一度も寝ていないんだ」
「そう……なんですか」
「うん。彼女は金のために結婚した僕を蛇蝎のように嫌っていた。僕もさすがに嫌がる相手にはものが勃たなくてね……。これでは永遠に子供なんて作れないだろう?」
春哉はおかしそうにクスッと笑った。
唯月はハッとした。それが金田拓真との決定的な違いだと思った。拓真は女を犯せるけれど、春哉にはそれが出来ない。たとえそのせいで契約が果たせず、資産家の娘と離婚することになっても。
「春哉さん、大好きです……」
今まで何百回と言ってきた言葉を、これからも何百回と言うだろう言葉を、唯月は言った。
「わたしにとって、春哉さんだけが運命です」
「知ってるよ」
「私、貧乏暮らしでも平気です。家計もきっちりやりくりできるし、ちゃんと働きます。Ωでも番持ちなら働けるところも探しやすいだろうし……」
「大丈夫だよ、唯月。そんな心配はいらないんだ。たんまりと慰謝料がもらえるから」
「医者……?」
「慰謝料。僕の妻はね、βの男と長い間不倫していたんだ。その証拠を石宮の義父に突き付けて、この家と土地の名義と相当額の慰謝料をせしめたから」
唯月はポカンと春哉を見上げた。
春哉の方は最初から堂々と番の唯月を囲っているのに、妻の方がほかの男と関係すると不倫という扱いになってしまうのか。
その不平等さひとつを見ても、世界はα中心に回っていることが分かる。
「石宮の……当主様が、よく納得してくれましたね。とても頑固な方なんでしょう?」
「あぁ、頑固というより、あれはαの子孫に対する妄執だな。だから、どうしてもαの子供が欲しいなら人工授精はどうかと提案して来たよ。そのための精子提供ならいくらでも協力すると言ってね」
「じゃぁ……」
「僕は二人の未来を守って見せると約束しただろう? だいぶ時間がかかったけれど……やっとそれが果たせるよ。結婚しよう、唯月。そして温かい家庭を築こう」
春哉の顔は誠実そのものだった。
艱難辛苦を乗り越えて結ばれる物語の中のヒーローさながら。
でも、春哉はとうとう最後まで盗撮していたことを謝らなかった。これから先は監視をやめるとも言わなかった。きっとαが自分のΩを管理するのは当たり前だと思っているのだ。この先もずっと唯月を監視し続けるつもりなのだ。
それでも。
それが分かっていても、唯月は嬉しかった。
「……はい、はい、春哉さん。私を春哉さんのお嫁さんにしてください……」
小さく掠れた声で返事をして、その後はずっと春哉の胸にしがみついて泣きじゃくった。
神様は、いつも唯月に味方してくれる。
今日もまた、神様の天秤は唯月の方へ傾いてくれた。
「春哉さん、愛しています……本当に、愛しています……」
胸の内にある小さな不安を打ち消すように、唯月は何度も春哉に愛を告げ続けた。
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