ハード・デイズ・ナイト

かもめ

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第1話 殺人鬼との遭遇

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「ああ、疲れた」
 俺は缶コーヒーを飲みながら言った。高いビルを見上げ、その上の夜空を眺めながら感傷たっぷりに息を吐き出す。俺はひとつの戦いを終えたところだった。つまり就職活動から帰っているところだった。午後からハローワークに行き、窓口で求職の申請を出し、そしてとうとう面接を取り付けた。ハローワークから出て、うどん屋で一杯300円の素麺をすすっているところに電話があり、日にちは明日とのことだった。急だったが中途採用、ハローワークからの求職では良くあることだ。
「今回は行けそうな気がするんだよな」
 俺は今年の夏に無職になった。そして今が冬なので約半年間就職活動をしている。今まで受けた会社は4社。いずれも不採用。うち3社は条件は良いが資格云々が厳しくダメもとで受けてみた会社だったので仕方がなかった。だが、残る一社で落ちた時はさすがに気分が落ちた。さすがに26にもなって職歴が真っ白な人間に社会は甘くない。が、いちいちそんなことでやる気を失ってはいられない。そうして奮起し、ようやく今日これぞと思う求人に応募したのだ。
条件も悪くない。求められている資格も持っている。後は面接でのアピール次第だろう。明日が勝負だ。
(上手くいったら嬉しんだけどなぁ)
 本当にそう思う。HPを見ても不穏な感じはしなかったし、求人表からもやばそうな感じはしなかった。そうは言ってもこんなもの入ってみなくては分からないのだが、それでも何か手応えのようなものがある。俺はこの会社にかけていた。
(これでうまくいったら俺もちゃらんぽらんな人生とおさらばか)
 俺は今までの生活を振り替えって思う。俺は今までフリーターだった。高校を卒業してからずっとである。いくつかのバイトを転々としながら適当に生きてきたのだ。しかし、この夏親がいよいよ言ったのだ。「いい加減にちゃんとしてくれ」と。その言葉は俺に深く突き刺さった。というか、自分でももうそろそろまともにならなくてはならないと思っていたのだ。フリーターは楽だがきつい。生活にストレスは少ないが、将来が見通せなくて苦しいのだ。俺はそんな生活が嫌になってきたところだった。だから、ちゃんと働くことにしたのだ。世の中いろんな意見があるだろう。フリーターだって立派なもんだ、という人もいるだろう。そういう意見だって正しいのだと思う。なので、これはあくまで俺の意思だ。とにかく、俺はなんとかまともな職に就こうと必死だったのだ。
(明日は頑張ろう。もし、就職出来たらなにかお祝いでもするかな)
 俺の未来に幸あれだ。ここから俺の人生はようやく彩り鮮やかになっていくのだ。ようやく胸を張って生きていけるようになるのだ。俺は来る戦いに向けてやる気満々だった。
 ともあれ、今日はこれでお仕舞いだ。俺は腕時計を見る。安物のデジタルの腕時計、その文字盤は夜の7時過ぎを示していた。俺は歩きだす。家に帰るのだ。履歴書も職務経歴書ももう用意してある。後は風呂に入って寝るだけだ。準備は万端である。家は今居る駅前から路面電車に乗ってしばらく行った住宅街にあるアパートだった。俺は路面電車の駅に向かう。
(少し歩くか)
 俺は気分転換がしたかった。なので、二駅分ほど歩くことにした。表通りをしばらく歩く。
『...ており、警察の捜査は続いています。今だ犯人の足取りは掴めておらず、犠牲者は8人に上っています。住民からは不安の声が上がり....』
 電気屋の液晶テレビがニュースを流していた。それは今この町で起きている連続殺人事件の話だった。
 1月ほど前に住宅街で死体が発見された。それは右手を切り落とされ、その後に首の動脈をザックリと切られた中年男性の死体だった。警察はそれを他殺と認め、殺人事件として発表した。
 その後捜査が始まったが3日後、次の犯行が発生した。今度は繁華街で被害者は若い女性。両腕を手首から落とされ、左足も膝から下を切り落とされ、そして頭部を縦に割られた死体が発見されたのだ。その後も数日置きに犯行は続き今日で8人目だ。いずれも凄惨な殺され方をした死体ばかりで、警察も犯人の足取りは掴めていなかった。目深にフードを被った人物が犯行現場の近くで目撃されたという情報もあったがそれだけだ。それ以上の手がかりは出てきていない。
今や全国ニュースになっているこの連続殺人事件が俺の町で起きているのだった。
(警察か)
 俺の前方、大通りの交差点で警察が検問を行っていた。パトカーのランプが回り、辺りを赤い光が明滅しながら照らしている。ここ数週間ずっとこの有り様だ。
(物騒な話だ)
 俺はため息をつく。実際物騒だ。8人も殺した殺人鬼が今もこの町のどこかに潜伏しているのである。今この町は言ってしまえば危険地帯と化しているのだ。夜出歩く人も随分減った。俺も足早に家に急ぐ。なんにしても明日は面接なのだ。殺人鬼も気になるが今はそれより俺の人生の方が問題だ。町の不穏さに付き合ってばかりもいられない。俺は路面電車の駅に向かう。
 俺が二駅ばかり歩くのは気分転換のためであり、気分転換をするということは気分が変わるものが駅までの道にあるということだ。
(うん、良いビルだ)
 俺は歩きながら上を見上げる。そこには古めかしいタイル張りのビルがある。この通りは昭和から建っているような古いビルが並んでいる。大きいものから小さいものまで様々だ。俺はビルを眺めるのが好きだった。夜のビルが特に好きだ。それも現代の技術を使った美しいビルよりもこういったレトロな趣のあるビルが好きだった。
 俺は大通りから一本入った裏通りに入る。ここには色んな会社の事務所が入ったビルが並んでいる。そして路面電車の駅までそれが続いているのだ。これを眺めながら歩くのが俺の気分転換というわけである。
 俺はむふー、と鼻から息を吐いた。良い、実に良い。実に満たされる。今ではあまり見られないレトロなタイルのビル、コンクリートで打ちっぱなしのものもある。それらの壁面に付いた音を立てて回る空調機。非常階段と淡く光るその表示。そして、灯る窓明かり。それがずらりと並んでいる。実に素晴らしい。俺は気分が高揚していた。
 駅までそれを堪能しながら歩いていく。こういう景色があればなんとか生きていけるなぁ、などと間抜けな感想を思い浮かべながらビルを眺めて歩く。お気に入りのいくつかのビルを堪能し、そうしてあっという間に駅まであと少しとなる。もうすぐこの素晴らしい景色も終わってしまう。俺は残念に思いながらビルの壁面に視線に這わせ、ゆっくりと下に下ろしていく。そこでだった。俺は動きを止めた。目に写ったのは人影だった。ビルとビルの間の裏路地にその人影は立っていた。
 俺はすぐに思った。もしや、と。その人物は黒い服装だった。黒いジャージのズボンに黒いパーカー。フードは頭をすっぽり覆い顔を見ることは出来ない。そしてその人物はなにかを握っていた。長いそれはまっすぐ壁に突き立てられており、そしてその先端にはまた人が居た。いや、ぼんやりした形容にしたのは俺が現実を理解したくなかったからだ。残念ながら俺にはそこで何が起きているのかをはっきりと見ることができた。街灯がちょうど照らしていたからだ。そこで起きていたのは明らかな殺人行為だった。パーカーの人物の前に居たのは男性だった。服装はスーツでいかにもサラリーマンといった感じだ。どんな顔か、どんな年齢かといったことは分からなかった。何せ男の顔は血まみれだったからだ。いや、血まみれどころではない。その顔にはパーカーの人物が突き立てた刃物が深々と突き刺さっていたのだから。頭部が原型を留めないほどに破壊されていたのだ。
「う...」
 俺は小さく呻いた。意外なもので悲鳴は出なかった。恐らく生存本能のようなものが働いたのだろうか。目の前のパーカーの人物、この殺人鬼に気づかれないように声を出さなかったのだ。見つかれば殺される。俺の本能がそう告げていた。
 しかし、そんな本能だの機転だのは意味を成さなかった。俺がわずかに上げた呻き声。それに殺人鬼はきっちり反応した。その顔が俺の方を見た。フードで表情は見えなかった。しかし、明らかに殺人鬼と俺はばっちり目が合ってしまった。
「あ...」
 俺はまた小さな声で言う。そして固まる。
「あー。見られてしまいましたか。面倒がひとつ増えましたね」
 殺人鬼はそう言った。その声は女のものだった。しかし、殺人鬼の正体に一歩近づけたことなどどうでも良かった。俺の頭は人生で最高クラスの恐怖に支配されたからだ。殺人鬼は目の前の死体から離れ、スタスタと俺の方に歩いてきたのだ。
「すみませんね。すぐ済みますから。動かないで下さいよ」
 殺人鬼はそう言いながら右手に持った刃物をピュウ、と一度振るった。血を払ったようだ。
 俺はすぐに理解した。ああ、殺されるのだと。
「うわぁああああああ!!」
 俺は叫んだ。さっきまで抑えていた分、倍増しくらいで叫んだ。そして走り出した。
「ああ、くそ。やっぱりそうなりますか」
 後ろで殺人鬼が言っていた。俺はそれを振りきるように走る。とにかく逃げなくてはならない。どうしたって逃げなくてはならない。何がなんでも逃げなくてはならない。捕まったら殺される。俺は大通りに向かう。今も検問のパトランプが光っている。あそこだ。あそこにたどり着けばなんとかなる。距離にして100mほど。全力で走る。
 俺は走りながらこの通りに入ったことを激しく後悔していた。油断していた。近くで警察が検問を張っている、なのでここは安全だと。普通ならそのはずだったのだ。だが、あの殺人鬼は大胆不敵にも警察が居るそのすぐそばで犯行に及んでいやがったのだ。さすがに8人も殺害する猟奇犯罪者は頭がイカれているということか。俺たちが思う常識なんぞ持ち合わせていないのだ。
 俺は走りながら後ろを振り返る。殺人鬼は走ってきている。それも結構速い。
(このままじゃ追い付かれる!)
 これでも高校までは陸上部に所属し結構足は速いほうだと思っていたのだがもはやその過去も見る影無しということか。まずかった。このままでは大通りに出る前に追い付かれる。それはつまりこのままでは死ぬということを意味している。俺は戦慄した。
(助けて助けて!! 誰か助けてくれ!!!)
 俺は心の中で絶叫する。声に出すことは無かった。その余裕がなかった。だから、半泣きになりながら走るしかなかった。しかし、このままではどうしようもない。
 どうしてこうなった。チクショウ!! 明日は面接でそれに受かって俺は輝かしい人生を送るのではなかったのか。どうしてこんな異常事態に陥っているのだ。俺はこの世の不条理に頭の中で八つ当たりしていた。
 また後ろを見る。殺人鬼はもうあと十数mのところまで迫っていた。俺は絶望する。
 と、その時だった。
(あああああ!!! 良かった!!!)
 目の前に人影が現れたのだ。それは警察だった。検問をしている交差点からこっちにパトロールかなにかで入ってきたのだ。
「お巡りさぁん!!! 助けてください!!!」
 俺は叫んだ。人生でここまで警察をありがたいと思った事はない。これで殺人鬼から逃れられる。見れば殺人鬼も急停止をかけて止まっていた。俺は急いで警察官の後ろに回りそこから殺人鬼と対峙した。
「あいつは連続殺人事件の犯人です!!! 捕まえてください!!!」
 俺は殺人鬼を指差して言った。殺人鬼は若干たじろいでいた。良い気味だ。さっきまでの圧倒的な威圧感が嘘のようだ。この警察官が無線をひとつ入れ、腰の銃を構えればやつは一貫の終わりというわけだ。これで俺の命も助かり、大事件も解決。なんということだ。さっきの絶望感から一変、今度は高揚感が湧いてきた。俺はなかなか良い仕事をしたのではないかとさえ思えてきた。これはニュースに出られるぞ、などと思う余裕も出てきた。
「ふぅふぅ...」
 俺は全力疾走で乱れた息を整える。そして事の成り行きを見守る。見守る。見守った。
「?」
 疑問符だった。どうしたことか。全然事は動かなかった。警官は殺人鬼と対峙したまま全然動かない。
「お巡りさん? どうしたっていうんですか」
 俺はそう言って警官の様子をうかがう。すると警官がくるりと俺の方を見た。その目は血走っていた。
「ああ、ダメです! 逃げてください!!!」
 殺人鬼が叫んだ。いや、俺はお前から逃げているのであってそれをお前に言われたくはない、などと思っている時だった。刺すような痛みが俺を襲った。
「はぁ!?」
 俺は絶句した。
 警官が俺の肩にものすごい力で噛みついていたのだから。
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