1 / 1
治外法権
しおりを挟む
夜明け前、鼻腔を震わせながら雑音を立てる横顔を、眺めていた。
酔い潰れてアルコール臭のする呼気、一日中帽子の下にいた頭髪はボサボサで、かつてはイケメンだとか言われていたらしいそのお顔には、今は暗闇の中でもわかるほど皺が刻まれていて。
ほんの数時間前までカッコよくギターを弾いて歌っていた彼だけど、こうしてみれば、ただの中年のおじさんで。
睡眠不足と心労を抱えたその人は、わたしにとっては、ただの大事な友人だった。
昨夜、音楽仲間である彼と、ライブのあとの打ち上げでたくさんお酒を飲んで、酔って。
まだまだ飲み足りないと言って、共通の友人の家に傾れ込んだところまではよかったのだけど、友人はさっさと寝落ちてしまって。
後には、お酒が進むにつれて涙脆くなった彼と、そんな彼を慰めて話を聞いていた、お酒の強いわたしだけが、残された。
日頃の心労からひとしきり泣いた後の彼は、消え入りそうな声で、わたしの名前を呼ぶ。ステージネームじゃないほうの、本名のほうで。そんなの、初めてのことで。
呼ばれてつい、そばに寄れば、差し出した手を握られて。わたしの腕ごと強く胸に抱いて、そのまま眠りに落ちた。そのせいでわたしは身動きを取れず、一睡もしないままだ。
だけど、ぜんぶがつらいという彼の、苦しみを受け止める一助になれるなら、そんなことは全然苦にはならない。
たとえ彼が、ほんの1ヶ月前まで片想いをしていた、わたしの想い人であったとしても。
*
ん、と小さく呻きながら、もぞもぞと動く、その愛しい物体は、大きな体を小さく丸める。それはまるで胎児のようで。
思わず可愛いなどと思ってしまったその瞬間に、それはわたしの上に着地した。腕に強くつかまったまま、私の胸に顔を埋める。
定位置を決めたとばかりに、また寝息を立て始めた。
……さすがにこれは、どうみてもアウトだろう。
わたしが彼に告白して、あえなく玉砕してから約1ヶ月。
わたしにはもう、他に恋人がいた。
恋人は、わたしが彼にずっと片想いをしていたことを知っていて、まだ想いを忘れられずにいたわたしに、それでもいいと言ってくれた稀有な存在だ。
だけど、いくらなんでも。
会えない週末の夜に、自分の彼女がこんなことをしているなんて知ったら、どんなに悲しむだろう。いや、それとも怒るだろうか。
まだその辺りのことはわからないけれど、それを考えてもまだなお、わたしはなされるがままになっていた。
…………このまま、時が止まればいいのに。
そんな不届きなことを思ってしまったわたしには、当然、罰が待っていた。
その瞬間、彼は目をぱちりと開き、ハッと起き上がり、混乱したように呟く。
「え…………寝てた…………?」
「はい。とてもよく。…………今、4時です」
そんな受け答えをする。
「びっくりしたでしょ。…………気にすることないですよ」
さっきまで添い寝していた場所をキョロキョロ見渡して、まるで何も覚えていないというような様子で。それはわたしを暗澹とした気持ちにさせる。
だから何も言われないうちに、先回りしてフォローをする。
「たまには甘えるのも、大事ですから。さすがにここでのことは、誰にも言わないし」
ごめん、という言葉だけは、もう聞きたくなかったから。
「…………吸いに行きます?」
「…………うん」
そうして、空気を変えようと外へ出た。そのつもりだった。
薄着で来ていたから、まだ暗い外の世界は肌寒かった。
わたしのタバコを一本分けて、火もつけてあげる。以前もここで、彼のラッキーストライクを2人で吸ったことを思い出す。
きっと彼は気づいていない。
好きな男が変わるたびにタバコの銘柄を変えてばかりのわたしが、まだラキストを吸っていることも、その意味も。
「これ、ずいぶん軽い感じするね」
「そうでもなかったけどな…………あ、でもラキストよりは軽かったね」
友達にもらった、普段とは別のタバコを試しながら、そんな感想を言い合う。
路上で吸いながらまだフラフラしているその背中を、トンと叩いて引き寄せる。危ない。車に轢かれでもしたら困る。
携帯灰皿をシェアして使うたびに、近づく距離に、わたしは気づかないフリをする。
「まだフワフワですね。寝起きだから?」
「…………そうなのかなぁ」
そう言うとわざとらしく、彼はゆらゆら歩きをして見せる。その動きを見ていると、昨夜まだ眠る前に、酔った勢いでたくさん抱きつかれたことをふと思い出す。
そのせいで、愚かなわたしは。
「…………寒いです」
そんな、ことを口走ってしまう。
彼の脇腹を突きながら。
「寒いね」
言うが早いか、彼はわたしの背中を抱いてくれる。
本当に、どうしようもない。昨日の名残で、身体接触をすることのハードルがすっかり下がってしまったのか。
だけど、暖かくて、くせになってしまいそうで。
すごく、こわかったから。
「ああ、まだ酔ってるでしょ」
「そうかも」
そう言って笑い合った。
そうして、なかったことになるはずだった。
部屋に戻ると、冷たい空気の世界から一転して、幸せな暖かさに包まれる。
さっきまで一緒に寝ていた大きなふわふわのクッションが、わたしたちにはすごく魅力的に見えて。
結局2人とも、そこにもたれかかる。
さっきまでと、同じ体勢で。
吐息がかかるほどの至近距離で、こちらを向いた彼と目が合って笑い合った。
「どうしよう」
「何がですか」
「この状況」
「どうしようもないですね」
はぁ、とため息をつかれる。
顔に手を当てて考え込むようにしながら。
だけど、もう片方の手はわたしの腕に触れていた。
「さすがに怒られますかね」
「そりゃ、まずいよね」
そう言いながらも彼は、距離をとる様子はない。そして、わたしも。
「ここは治外法権だから。法は及ばない……」
彼は、そんな言葉まで吐き出す始末で。
「そうですね。…………倫理もないかも」
わたしだって、同罪で。
くだらない言葉のやりとりは、そこまででよかった。
熱い手のひら。指先をそっと触れさせると、長い指に絡め取られる。
ギタリストのくせにろくに手入れもしていない手。
カサカサの皮膚に伸びた爪、だけどそれはただ、温かくて。
それだけで、わたしの心をしっかりと絡め取るには充分だった。
指と指の間でいたずらを繰り返す。
こちらが手のひらを撫でれば、あちらは指先を爪で弄ぶ。
きゅ、と握ってみれば、その倍の力で握り返されて。
強く握られたその手は、震えていた。
…………神様、どうか。
今だけ、この瞬間だけでいいから、見逃してください、と。そんなこと祈りながら。
わたしは、絡めたままのその手の甲に、そっと口付けたのだった。
酔い潰れてアルコール臭のする呼気、一日中帽子の下にいた頭髪はボサボサで、かつてはイケメンだとか言われていたらしいそのお顔には、今は暗闇の中でもわかるほど皺が刻まれていて。
ほんの数時間前までカッコよくギターを弾いて歌っていた彼だけど、こうしてみれば、ただの中年のおじさんで。
睡眠不足と心労を抱えたその人は、わたしにとっては、ただの大事な友人だった。
昨夜、音楽仲間である彼と、ライブのあとの打ち上げでたくさんお酒を飲んで、酔って。
まだまだ飲み足りないと言って、共通の友人の家に傾れ込んだところまではよかったのだけど、友人はさっさと寝落ちてしまって。
後には、お酒が進むにつれて涙脆くなった彼と、そんな彼を慰めて話を聞いていた、お酒の強いわたしだけが、残された。
日頃の心労からひとしきり泣いた後の彼は、消え入りそうな声で、わたしの名前を呼ぶ。ステージネームじゃないほうの、本名のほうで。そんなの、初めてのことで。
呼ばれてつい、そばに寄れば、差し出した手を握られて。わたしの腕ごと強く胸に抱いて、そのまま眠りに落ちた。そのせいでわたしは身動きを取れず、一睡もしないままだ。
だけど、ぜんぶがつらいという彼の、苦しみを受け止める一助になれるなら、そんなことは全然苦にはならない。
たとえ彼が、ほんの1ヶ月前まで片想いをしていた、わたしの想い人であったとしても。
*
ん、と小さく呻きながら、もぞもぞと動く、その愛しい物体は、大きな体を小さく丸める。それはまるで胎児のようで。
思わず可愛いなどと思ってしまったその瞬間に、それはわたしの上に着地した。腕に強くつかまったまま、私の胸に顔を埋める。
定位置を決めたとばかりに、また寝息を立て始めた。
……さすがにこれは、どうみてもアウトだろう。
わたしが彼に告白して、あえなく玉砕してから約1ヶ月。
わたしにはもう、他に恋人がいた。
恋人は、わたしが彼にずっと片想いをしていたことを知っていて、まだ想いを忘れられずにいたわたしに、それでもいいと言ってくれた稀有な存在だ。
だけど、いくらなんでも。
会えない週末の夜に、自分の彼女がこんなことをしているなんて知ったら、どんなに悲しむだろう。いや、それとも怒るだろうか。
まだその辺りのことはわからないけれど、それを考えてもまだなお、わたしはなされるがままになっていた。
…………このまま、時が止まればいいのに。
そんな不届きなことを思ってしまったわたしには、当然、罰が待っていた。
その瞬間、彼は目をぱちりと開き、ハッと起き上がり、混乱したように呟く。
「え…………寝てた…………?」
「はい。とてもよく。…………今、4時です」
そんな受け答えをする。
「びっくりしたでしょ。…………気にすることないですよ」
さっきまで添い寝していた場所をキョロキョロ見渡して、まるで何も覚えていないというような様子で。それはわたしを暗澹とした気持ちにさせる。
だから何も言われないうちに、先回りしてフォローをする。
「たまには甘えるのも、大事ですから。さすがにここでのことは、誰にも言わないし」
ごめん、という言葉だけは、もう聞きたくなかったから。
「…………吸いに行きます?」
「…………うん」
そうして、空気を変えようと外へ出た。そのつもりだった。
薄着で来ていたから、まだ暗い外の世界は肌寒かった。
わたしのタバコを一本分けて、火もつけてあげる。以前もここで、彼のラッキーストライクを2人で吸ったことを思い出す。
きっと彼は気づいていない。
好きな男が変わるたびにタバコの銘柄を変えてばかりのわたしが、まだラキストを吸っていることも、その意味も。
「これ、ずいぶん軽い感じするね」
「そうでもなかったけどな…………あ、でもラキストよりは軽かったね」
友達にもらった、普段とは別のタバコを試しながら、そんな感想を言い合う。
路上で吸いながらまだフラフラしているその背中を、トンと叩いて引き寄せる。危ない。車に轢かれでもしたら困る。
携帯灰皿をシェアして使うたびに、近づく距離に、わたしは気づかないフリをする。
「まだフワフワですね。寝起きだから?」
「…………そうなのかなぁ」
そう言うとわざとらしく、彼はゆらゆら歩きをして見せる。その動きを見ていると、昨夜まだ眠る前に、酔った勢いでたくさん抱きつかれたことをふと思い出す。
そのせいで、愚かなわたしは。
「…………寒いです」
そんな、ことを口走ってしまう。
彼の脇腹を突きながら。
「寒いね」
言うが早いか、彼はわたしの背中を抱いてくれる。
本当に、どうしようもない。昨日の名残で、身体接触をすることのハードルがすっかり下がってしまったのか。
だけど、暖かくて、くせになってしまいそうで。
すごく、こわかったから。
「ああ、まだ酔ってるでしょ」
「そうかも」
そう言って笑い合った。
そうして、なかったことになるはずだった。
部屋に戻ると、冷たい空気の世界から一転して、幸せな暖かさに包まれる。
さっきまで一緒に寝ていた大きなふわふわのクッションが、わたしたちにはすごく魅力的に見えて。
結局2人とも、そこにもたれかかる。
さっきまでと、同じ体勢で。
吐息がかかるほどの至近距離で、こちらを向いた彼と目が合って笑い合った。
「どうしよう」
「何がですか」
「この状況」
「どうしようもないですね」
はぁ、とため息をつかれる。
顔に手を当てて考え込むようにしながら。
だけど、もう片方の手はわたしの腕に触れていた。
「さすがに怒られますかね」
「そりゃ、まずいよね」
そう言いながらも彼は、距離をとる様子はない。そして、わたしも。
「ここは治外法権だから。法は及ばない……」
彼は、そんな言葉まで吐き出す始末で。
「そうですね。…………倫理もないかも」
わたしだって、同罪で。
くだらない言葉のやりとりは、そこまででよかった。
熱い手のひら。指先をそっと触れさせると、長い指に絡め取られる。
ギタリストのくせにろくに手入れもしていない手。
カサカサの皮膚に伸びた爪、だけどそれはただ、温かくて。
それだけで、わたしの心をしっかりと絡め取るには充分だった。
指と指の間でいたずらを繰り返す。
こちらが手のひらを撫でれば、あちらは指先を爪で弄ぶ。
きゅ、と握ってみれば、その倍の力で握り返されて。
強く握られたその手は、震えていた。
…………神様、どうか。
今だけ、この瞬間だけでいいから、見逃してください、と。そんなこと祈りながら。
わたしは、絡めたままのその手の甲に、そっと口付けたのだった。
1
お気に入りに追加
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説


好きな人がいるならちゃんと言ってよ
しがと
恋愛
高校1年生から好きだった彼に毎日のようにアピールして、2年の夏にようやく交際を始めることができた。それなのに、彼は私ではない女性が好きみたいで……。 彼目線と彼女目線の両方で話が進みます。*全4話


運命の強制力が働いたと判断したので、即行で断捨離します
下菊みこと
恋愛
悲恋になるのかなぁ…ほぼお相手の男が出番がないですが、疑心暗鬼の末の誤解もあるとはいえ裏切られて傷ついて結果切り捨てて勝ちを拾いに行くお話です。
ご都合主義の多分これから未来は明るいはずのハッピーエンド?ビターエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
誤解ありきのアレコレだからあんまり読後感は良くないかも…でもよかったらご覧ください!

忘れられたら苦労しない
菅井群青
恋愛
結婚を考えていた彼氏に突然振られ、二年間引きずる女と同じく過去の恋に囚われている男が出会う。
似ている、私たち……
でもそれは全然違った……私なんかより彼の方が心を囚われたままだ。
別れた恋人を忘れられない女と、運命によって引き裂かれ突然亡くなった彼女の思い出の中で生きる男の物語
「……まだいいよ──会えたら……」
「え?」
あなたには忘れらない人が、いますか?──

思い出してしまったのです
月樹《つき》
恋愛
同じ姉妹なのに、私だけ愛されない。
妹のルルだけが特別なのはどうして?
婚約者のレオナルド王子も、どうして妹ばかり可愛がるの?
でもある時、鏡を見て思い出してしまったのです。
愛されないのは当然です。
だって私は…。


ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる