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岩沢和文

35、→私負けましたわ←

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「私……負けましたわ ……」 

土管どかんの片隅でうつ伏せになりながら1匹の猫がこうつぶやいた。  

 毛色は黒。 

今、土管どかんは彼女の巨体によって半分程が埋まり、中の空気の通りはよくない。

そして彼女の弱々しい鳴き声は土管どかんを通して空き地の夕闇に静かに消えていった。  
 
* 

結論から言うと猫の決闘はタマさんが勝利を治めた。  

決闘の終盤しゅうばんは、瀕死ひんしのタマさんが最後の力を振り絞って立ち上がり、トラさんの巨体に全体重をかけタックルを掛けた。 

 ガンッ 

「うっ、みゃ~ん……」 

嫌な音とほぼ同時にトラさんはタマさんの放ったタックルを受け止めきれず、太い短い右後ろ足左後ろ足に絡まり土管どかんに頭を打ち付け気を失った。

その様子を見届けた参謀さんぼうのドラ猫は空き地にチーズを投げ入れた。

猫の決闘でチーズを投げ入れるのは“棄権”きけんを意味する。  

この瞬間、タマさんの勝利が決定した。


「た、タマさん……」


半狂乱の他の猫たちを押し退け、おいらは半開きの眼に前足を痙攣けいれんさせ横たわるタマさんに駆け寄り、彼女を抱きあげた。  

タマさんは勝利を手にしたものの肩で息をするのが精いっぱいという状況だった。 

そんな瀕死ひんしの彼女を仲間の猫たちに頼み、おいらの自宅マンションの玄関先まで運んでもらうことにした。  

飼い主のみさきさんなら助けてくれるかも、という淡い期待を込めながらおいら達は、人間を避けマンションに向かう。

 その時間は、月がひょっこりと顔を出し、人よりも街灯の灯が多い時間帯になっていた……。

* 


「あ~疲れた。足が死ぬ……」


私は加藤岬かとうみさき。 

39歳、独身。 

某大手食品メーカーの広告を担当している。  

 この年で独身となると主任を通り越して部長のポストも手が届きそうなくらい忙しく、会社では社畜しゃちくごとく仕事をこなしている。 


「会社辞めたい……。でも、金蔓(男)がいない。自分でかせがにゃ生きていけない」


帰宅途中に買ったご褒美ほうびのレモン風味のチューハイに口をつけながら自宅のあるマンションの誰もいない薄暗いエントランスをほろ酔い状態で進む。 

今日はノー残業デー。  

 
「今週の納期も終わった。私、頑張った。帰ったら和文かずふみとおはぎにいやしてもらお……」  


そんな切ない独り言を言いながらエレベーターの中に入り、【閉】ボタンを長押した。 


 ガタン ガー ガタン シュー ……


「みゃっ、みゃー!」 

居住しているマンションの短いエレベータを降り、千鳥足ちどりあしで歩を進めると聞き覚えのある野太のぶとい猫の声で私はいをました。


 (和文かずふみの声だ。でも、あの子がこんな夜中に鳴くなんて……)  


私は一抹いちまつの不安を抱え、自室ある角部屋に向けて全速力で走った。

和文かずふみは三毛猫のオス。 

三毛猫は通常、メスしか生まれないが、和文かずふみは副業のブリーダーの仕事をしている時にたまたま生まれた特別な子だ。 

 (あの子、かなり臆病おくびょうなのにこんなに遅くに鳴くなんて。よほどのことがないと鳴いたりはしないはず……) 


そんなことを考えながら廊下ろうかを走りきり、私は自室の前で立ちくした。 


「……ウソ?」 


部屋の前には1匹の血塗れの猫と和文かずふみがいた。

 一瞬、和文かずふみの母猫のおはぎかと思ったが、おはぎと同じ柄のその猫はおはぎよりも小ぶりで肢体からだが細く、薄汚れている。  


和文かずふみ!その子、お友達!?喧嘩けんかでもしたの!?」 


慌てふためく私はバックからひざ掛けを取り出すとその猫を持ち上げた。  

血まみれの猫は素人目しろうとめには怪我のわりに出血がひどいように見える。 


「……っにゃ」


くだんの猫は私に体を預けるとか細く鳴いた。 


 「待ってて。今、病院に連れて行ってあげる。和文かずふみ。ついてらっしゃい」 


私は引掻ひっかき傷だらけの猫を抱えるとアパートに併設へいせつされている動物病院に向かった。  

小さな動物病院の診療時間は遥か昔に終わっていた。 

だが、私はチャイムを何度も押し、顔なじみの獣医に必死で助けを求めた。 

こんな時間に何事だと風呂上がりだと思われる院長先生が寝間着ねまき姿で出てきたが、毛布にくるまれた瀕死ひんしの猫を見つけるとすぐにオペ室に猫を連れて行った。 

私は薄暗い病院の廊下ろうか和文かずふみひざの上に乗せ処置が終わるのをただひたすらに待った。  

和文かずふみくだんの猫が連れて行かれた扉をじっと見つめ耳とひげを垂れ下げ、いつものすこ座りをしている。 


和文かずふみ。大丈夫よ。先生が見てくださっているから……。あなたは大丈夫?怪我けがはない?」 

「んたっ」
 

和文かずふみは私の言葉に言葉少なめに返事をした。 

元気はないが、怪我けがはなさそうだ。 

暗闇に光る和文かずふみの眼は涙で濡れてはいるが、憂いを帯びているようなはかなげにうつろいそれはまるで、恋をしているようなそんな目をしていた。  

*  

くだんの猫の傷は見かけほど深くはなかったと院長先生は言っていた。 

検査結果次第だが、1週間ほどで退院できるらしい。  

そしてその猫は昔、近所に住んでいた老齢の“佐藤さとう”という女性の飼い猫だったと院長先生は記憶していた。 

 名前はタマ。

飼い主の女性は自宅で脳梗塞のうこうそくで倒れて認知症にんちしょうを発症し、家族がこの近くの老人ホームに入所を決め、その代金をまかなうため土地を売りに出したらしい。  

遠くに住む息子夫婦はタマの存在を知らなかった為、家であるじの帰りを待っていた、タマをノラ猫だと勘違いして家を追い出してしまったのではないかということだった。 
 
全く、核家族化の弊害へいがいに巻き込まれた猫には迷惑な話だ。 

そしてこの日、私はこの病院でタマの衝撃な真実を知ることになる。  
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