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21.聖女は終わりの世界で心を捧げる2
しおりを挟む『オオオオォォォォ……オォォ……』
地響きと共に起き上がる巨体。
恐れながら見上げる人々の反応は、多種多様であった。
泣き叫ぶ者、神に祈る者、隣人と抱き合う者、呆然と立ち尽くす者。
逃げる場所などどこにもない。
誰であろうと終末の神からは逃れられない。
大きな影が、世界でひとつだけの国を包む。
黒曜の瞳は、まるで檻の中にいる矮小な人間を観察するように向けられていた。
その眼にどんな意志があるのか、誰一人読み取ることはできない。
あまりに無。あまりに虚。どのような感情の色が込められ、人間を見下ろしているのか、想像すらできない。
数千年の時を経て、神は蘇った。
今こそ人間を滅ぼすためか。己の心臓を取り上げ、数多の同類を生贄に捧げ、愚行を繰り返してきた人間を虐殺し、大地から消し去るのか。主の命令を果たすために。
それとも――。
「エレノア……!」
皆が意識を神に向ける中、世界でたった1人だけが少女の名を呼ぶ。
ローウェンにとって世界が終わろうが、自分が踏み潰され殺されようがどうでもいいことだった。
魔神すらどうだっていい。
白い少女だけが、気がかりだった。
「待て」
故に駆け出そうとした足を、シド司教が止める。
焦りを滲ませながら振り返ったローウェンに、乳白色の石が放り投げられた。反射的に受け取ったローウェンは、「これは何だ」と目を向ける。
「持っていけ。次代の聖女……エレノアから奪った記憶が封印されている。残念ながら今の回復しきっていない僕の魔力では戻すことはできない――だが聖女であれば、もしかすれば」
「――」
視線を合わせないままの男を、ローウェンは縋るように見る。
それはこの上ない希望だった。
エレノアの失った心を、記憶を、取り戻せるかもしれない。
聖女はエレノアと共にいる。すべては尖塔に揃っている――!
ローウェンは綺麗な色を灯す彼女の石を強く握りしめ、胸に重ねた。
感謝など言う義理はない。
シド司教はエレノアを人形に戻すために、記憶を抜いたのだから。
だがそれでも、希望がこの段階で残されている偶然に、ローウェンの口から言葉がこぼれた。
「……っ、礼を言う……!」
驚くシド司教に構わず踵を返し、駆け出す。
足を動かしながら、魔力で強化する。そして尖塔まで急ごうとして――魔力がうまく編めないことに、気づいた。
「さっきので使いすぎたか。クソ!」
舌打ちをし、そのまま走る速度を上げて尖塔に向かう。
『オオオオォォォォ……オオォォォ……』
その遠ざかる後ろ背を見送り、シド司教は咆哮する魔神へ視線を戻した。
石のように固まる人間を見飽きたのか、かの神はソラを見上げている。
立ち上がった衝撃で、再び地面が揺れ動く。
『オオォォ……オオオオォォォォ』
地獄の底から響く声が振動し、空気を伝って肌をチリつかせる。
変わらずこの世の終わりを鳴らす鐘のように、咆哮は止まない。
ローウェンは、この世界がどうなるか――その結末を見る義務があると言った。
多くを犠牲にし世界を維持しようとした側だというのに、終わりゆく世界を最期に見なければならないとは。
「……酷い話、だ」
だがそれ相応、いやそれ以上のことをしてきた自覚も罪の意識もある。
同じ言葉を口にした少女を、思い浮かべる。
せめて。
せめて酷く苦しんで死のう。なるべく長く苦しんで、醜くのたうち回って、惨めに死ぬんだ。
虚脱していた身体を奮い起こして、ふらりと回廊から1歩外へ出る。
長く太い大樹のような腕をソラへと伸ばす魔神が、見えた。
神の腕さえも届かぬ、高い高いソラ――閉塞したソラの境界を漂う灰色の厚い雲を掴むように、ひたすらに両腕が伸ばされている。
「なにを……しているんだ、あれは……」
そこでようやく、違和感に気づいた。
魔神が一歩踏み出せば、一箇所に集った人間の大多数を殺し潰せるというのに。
なぜ、それをしないのかと。
『オオオォォ……オオォォ……』
自然に還ることのない魔力の滓。
溶け消えることのない灰色の淀んだ雲。
それらが魔神のもとへ渦巻きながら、吸い込まれていく。
泣き叫ぶ人々は涙を止め、その行いを訝しげに見た。
神に祈っていた者も、口を閉ざして見守った。
多くの人々は、呆然と――ただ呆然と、魔神の食事を静観する。
食事。そう、食事だ。
栄養を得るごとに、永く野ざらしだった魔神の身体が修復されていく。
朽ちかけていた両翼は破れた箇所が治り、黒く輝く大きな羽を広げる。
剥がれた鱗の痕には新たな鱗が生え、傷ついた硬質的な皮膚は癒え――胸に空いた孔さえも、埋まっていく。
全てが元に戻る。
この世界に魔神が降り立ったときの姿が、蘇る。
『オオオオォォォォ――――!』
一際力強い咆哮がされたと思えば、その振動がソラに伝播され、残った雲が払われた。
――人は、その光景を死しても忘れることはないだろう。
無限の青々とした空。降り注ぐ光は大地を照らし、汚染された場所を次々と浄化していく。
魔獣だったものは、元の自然に循環する生態系に戻り。
水も枯れ果てた大地は、土の柔らかさを取り戻し。
緑が広がり、木々は息を止めていた年月を重ね始め――世界はいま、美しく生まれ変わった。
空に漂う白き雲の間から、光が差し込む。
彼方にあるとされる、神の世界。
降り注ぐ光を階に、世界が繋がる。
舞い降りるように、天から神の一柱が姿を見せた。
両腕を伸ばす魔神を迎えるために、手を差し伸ばしている。
人に慈悲を与えた女神エレノアと、彼女の夫である魔神の物語――遠い遠い昔の神話を、思い出す。
二柱は手を取り合うと、魔神の巨躯が空へ向かって浮き上がる。
女神は喜びに満ち溢れた笑みを浮かべ、共に導かれるように天へ昇っていく。
神々しい光に、見たことのない空に、美しい大地に、人は言葉を忘れ、涙を零し、ただ魅入った。
「あ……」
シド司教も例外ではなく。
奇跡を目に焼き付けながら、音もなく一筋の涙を流す。
「は、――はは……」
笑いたくもないというのに、乾いた笑いが口から出た。
身体が崩れ落ち、その場に膝をつく。
終わりが定められていた世界は、希望に満ちた未来を得た。
次代の聖女として生まれたエレノアは、奇跡の偉業を成し遂げたのだ。
人間は生きることを赦された。
もう終わりに怯えることはない。もう愚かな行いを続けることもない。もう――もう、
「あぁ……僕は――僕はもう、誰も殺さなくて……いいのか……」
シド司教は、ようやっと張り詰めていたものを緩めた。
目元を手で覆っても、指の隙間から涙が滴り落ちていく。嗚咽と共に、地面を濡らしていく。
降り注ぐ光。輝く空。
ああ、いまはじめて思う。世界はなんて――温かいのだろうと。
――カラー……ン カラー……ン
鐘の音が木霊する。
誰かが鳴らしているのか、それとも咆哮による振動で動いてしまったのか。
その鐘は、福音のように新たな世界で鳴り響いた。
***
「はぁ、は……っ! はあ……!」
息を切らしながら、尖塔頂上までの階段を駆け上がる。
途方もなく長い階差がもどかしい。焦りが身体を急かす。早く、もっと早く動けと。
足を強化すれば一足飛びで辿り着けるものを、人間本来の力で登るには、あまりに険しい。
さきほどから魔力が全く回復しない。
そのことが、更に俺を焦らせる。
「エレノア……! エレノア!」
彼女の名を原動力に変え、ようやく自分がさきほどまでいた場所へと戻ってきた。
周囲を見渡し、即座に目に飛び込んできたのは、柱にしがみつきながら尖塔の縁にしゃがみこむ姉の姿だ。
輝くプラチナブロンドの髪が風で乱れることも気にせず、必死に柱に腕をまわし、なにかを引き上げようとしていた。
何をしているのかと声をかける前に、人の気配に気づいて顔だけを振り向かせた彼女は、必死に叫ぶ。
「――助けて! 早く、手を!」
「っ!」
切羽詰まった声に、疲れ切っていた足を奮い立たせて彼女のもとへ駆け寄る。
細い腕の先には、ぶら下がる力無き白い少女の姿があった。
急いでエレノアの腕を掴み、力を振り絞って引き上げる。とても軽い身体は、男の力が加わったことで難なく持ち上げることができた。
安堵したように柱にもたれかかる彼女を横目に、自らの腕の中に収まった少女を掻き抱く。
「エレノア……っ!」
「……」
虚ろな瞳は、なにも映さない。
胸に耳を当てる。弱々しくあるが、鼓動の音を聞いた。生きている――エレノアは奇跡を起こし、そして生還したのだ。
再会できたことに喜ぶ。
徐々に失われる体温を逃さぬように、強く抱きしめる。
エレノア、エレノア。
愛しさがあふれだす。待っていろ、今記憶を戻してやるから。そうしたら全部元通りだ。今度こそ髪飾りを贈ろう。綺麗な服だって、美味しい食べ物だって、なんだって贈る。色んなことを教えてやる。最高の幸せな結末を迎えるんだ。
「――……心を、全て使い果たしたみたいで……きっとそのうち、息をしなくなってしまう……」
たどたどしく言葉を放つ彼女は、別れたときの様子とは違っていた。
光の無い瞳には生気があふれ、意思を感じられる。それなのに、とても悲しげに涙で滲んでいた。
安心させるように、俺は口早に告げる。
「大丈夫だ。シドからこいつの記憶を閉じ込めた石を預かってきた。あんたの魔力を使えばエレノアに記憶が戻るんだ。そうしたら心が蘇る」
「……魔力」
「ああそうだ。どれぐらい残ってる? 俺は全部使い切っちまって……いい、とにかくありったけの魔力をこの石に注いでくれ」
大事に仕舞っていた石を取り出す。
乳白色の石は、やたら明るい光に照らされキラキラと輝いていた。
彼女は自身の両手を開き、じっと見つめる。
「……? どうしたんだ、早くしないとエレノアが」
俺の急かす声など聞こえていないみたいだ。
目を伏せ、悲痛に眉を寄せ、そしてやっと戸惑いがちに俺と目を合わせる。
「魔力が……ないの、尽きたとかじゃなくて……最初から、なかったみたいに消えて、いて」
「――」
その言葉の意味を、すぐには理解できず固まった。
エレノアとの再会に喜んだまま表情は止まり。
思考もまた、止まっている。
魔力が、消えた?
ようやくその単語を、飲み込んだ。
「っ、!」
ボロボロのシャツを合わせ目から引きちぎる。
ボタンが弾け飛んで露わとなった胸元には、彼女が刻んだはずの隷属の証がある――はずだった。
「……ない」
そこには、鍛えられた男の平たい胸があるだけだ。
黒い線で刻まれた紋様は、どこにもなかった。
隷属の証を解除するには、術者本人が解除するか、どちらか片方が死ぬしかない。
ぎこちなく姉を見るが、小さく首を振って応える。
彼女は、自らの意思で解除をしていないと、そう告げていた。
「じゃ、じゃあ……エレノアは、」
「……」
「ここにエレノアの心があるんだ! ここに……っ! ここにあるのに、!」
俺の訴えが虚しく風に流されていく。
石が、ひどく冷たい温度を伝えてくる――キラキラと光り、温かな色をしていながら、どうしてこんなにも冷たいんだ。
抱きしめる身体が、同じ温度になっていく。焦りが増す。砂時計が落ちていくように、時間が無情に失われていく。
「いやだ……俺は諦めたりしない……きっと誰かまだ、まだ魔力がある奴がいるはずだ!」
エレノアを彼女に預け、俺は立ち上がる。
尖塔から呼びかければ、大勢に声が聞こえるはずだ。誰か1人でいい、応えてくれ。
そう思って開けた場所から声を張り上げようとした時――まぶしい光に目が眩む。
そういえば、どうしてこんなに明るいんだ。
ゆるりと開けた俺の目に、一面の青が飛び込んできた。
「――……」
どこまでも広がる空。
地平線の彼方まで続く広大な青空が、俺の頭上にあった。
覆っていた雲などどこにも見当たらない。
大地は明るく照らされ、緑で彩られている。
川の水は太陽の光で輝き、風が優しく頬を撫でていく。
そんな世界を祝福するみたいに、白い鳥が踊るように飛び回っていた。
――色鮮やかな世界に、言葉を失う。
ふと。いつかの時に少女を前に口にした一言を、思い出した。
『――いつか、どこまでも広がる青いソラを見てみたいな』
何気ない、ただの世間話からこぼれた言葉だった。
少年が憧憬しただけの、夢物語だった。
出会った3年前に、たった一度だけぽつりと呟いただけの願い。
それなのに。
『わたしはただ、ローウェンに綺麗になった世界で生きていって欲しいだけ』
「あ……ああ……」
それなのに、あの少女は。
『見ていて。あなたのために、奇跡を起こしてみせるから』
「ああ、あ……!」
それを見せようとしてくれた。
命を賭けて、大事だと言った心を犠牲にして。
「うああぁぁぁ――……っ!」
絶叫が、生まれ変わった世界に響き渡る。
なりふり構わず、がむしゃらに叫んだ。
「誰かぁ――! 魔力を持っている奴はいないか!? 頼む、応えてくれ……っ! 誰か――!」
喉がひくつく。熱く焼けそうだ。
必死に叫ぶ。どうして誰も応えてくれないんだ。どうして、どうして!
エレノアは世界を救ったんだ。それなのに、なんで誰もエレノアを救ってはくれないんだよ!
「お願いだ、誰かたすけてくれ! 誰でもいい……! エレノアを助けてくれ!」
空へ還ろうとしている魔神が、声に応えるように俺を見た気がした。
いいや、気の所為なんかじゃない。
黒曜の瞳は、確実に俺を見ている。
そして空に溶けながら、自身の世界へと還りながら、獣みたいな声で言った。
『ア……アリ……ガ、ト……ウ』
と。
唇が震える。
そこに、いる。
あの巨体の中に、心が残っている。
「ま、待ってくれ……っ! その心を持っていかないでくれ!」
落ちそうになるほど身を乗り出して、薄れゆく魔神に乞い願う。
「その心は、……その心だけは……っ!」
いくら手を伸ばそうと、届くわけがない。
分かりきっているのに必死に伸ばす。
だが俺の言葉も虚しく、青い空へ吸い込まれていった神は二度と姿を現しはしなかった。
消失感で、膝から崩れ落ちる。
神は、人を赦した。
いや、今度こそ手放し、やり直す機会を与えたと言ったほうがいいか。
世界を汚染していた元凶である魔力――神の力をすべて回収し、神の世界へ還っていった。
これよりは人の時代。
神に頼ることなく、人が支え合い知恵を出し合い、生きる時代がはじまるのだ。
奇跡は二度と起きない。
最後の奇跡を起こした少女に、奇跡は訪れない。
「……ローウェン」
項垂れる俺に、気遣う声がかかる。
反応することすら億劫なほどに、失意のどん底にいた。
手のひらに残る石に、ただ視線を合わせる。
ここに、エレノアの心があるのに。
また、俺は見ているだけなのか。
何もできず。何一つできず無力のまま。
失うばかりで、一度も助けることができない。
ああ、世界はなんて――……。
明るい陽光も、青い空も、陰る瞳には映らない。
たった独りで見る光景は、虚しくて寂しくてたまらなかった。
風が吹き荒れる。
とても、寒く感じる。
心が、半分の魂が痛む。
暗い。暗い、どれだけ世界が明るくても、ここはとても暗く寒い――……。
――――――――……。
――――――。
――――。
――違う。
こんなのは、違う。
『下ばっか見てたら、自分のことしか考えられなくなる』
ふと、俺を育ててくれた親父の言葉が、脳裏によぎる。
『自分の足と地面しか見えねえからな。どんどん落ちるだけだ』
涙の雫が、乳白色の石に落ちる。
表面に映る情けない顔に、殴りたくなってくる。
失意のどん底?
違うだろう。エレノアは、そうなって欲しくて俺に綺麗な世界を遺してくれたわけじゃない。
かけがえのないものを、与えてくれた。その意味が分からないほどお前は愚かなのか。
それなのに、自分ひとり悲壮感に酔いしれて――クソがすぎる。
一度も二度も生を諦めて、俺は何度繰り返せば気が済むんだ。
何度、引き上げてもらうまで暗い底で待つ気だ。
こんな俺をまっすぐに好きだと言ってくれたんだ。
だったらせめて彼女が恥じる男にだけは、成り下がるな。
『上を見ろ、きっとマシなもんがあるはずだ』
涙を拭い、空を見上げる。
エレノアは――ここにいる。この世界にいる。
この世界を生きるんだ。
前を向いて。顔を上げて。終わるその時まで、ちゃんと立って生きていくんだ。
もう立ち上がり方を教えてもらう必要なんてない。
ひとりで立って歩ける。
人間はそういう生き物なんだから――。
『――良かった。あなたはもう、大丈夫ですね』
ふと、鈴の鳴るような声が聞こえた。
え、と周囲を見渡す。だがここには、姉とエレノア、そして俺しかいない。
声の発生源は見当たらない。
「だ、誰だ……?」
問いかけに返ってくる言葉はない。
けれど不思議と馴染みがあった。この世に誕生してきてから、ずっと共にあったような。安心するような声。
遠い遠い昔に、出会ったことがある気がする。懐かしい人の声だ。
「ろ、ローウェン……石が……!」
姉の指し示すものを見る。
手のひらにあった乳白色の石は、紋様部分が強い光を帯び、輝きを放っていた。
「あ……あぁ……!」
考える前に、急いで横たわるエレノアへと駆け寄る。
ひどく冷たい体温。薄く開いた瞳に光はなく、命の灯火は今にも消えそうだ。
すぐに胸の上へ石を翳す。
「エレノア……!」
呼び戻すように、声をかけた。
石の光は強くなり、エレノアの身体を包み込んでいく。
俺は信じて、エレノアが目を開くときを待った――……。
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