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4.【過去】限られたソラを見上げて3
しおりを挟む居館を後にして、夜の城内を駆ける。
どこに向かっているのか分からないが、不安などなかった。
手から伝わる温度が、大丈夫だと安心させてくれる。ずっと繋いでいて欲しい。離さないでいてほしい。ただそう思った。
そんなこと、許されるわけがないのに。
「”神よ どうか許し給え”」
凛とした声が闇夜から伸び、耳に届く。
振り返ったわたしは、自分たちに向かって黒い何かが奔ってくるのを視認した。
「ローウェン!」
彼の身体を横へ引っ張り、地面に倒れ込む。
わたしたちがいた場所は地面ごと抉られ、爪で引っ掻いたような痕だけが残されていた。
こちらへ近づいてくる、軽やかな足取りが聞こえてくる。
ローウェンはすぐに立ち上がると、わたしを庇うように前へ出た。
「こんばんわ。なんだか珍しいものを見てしまったから、思わずご挨拶してしまったわ」
艶やかに微笑む麗人に、わたしは似た何かを感じ取る。
薄いプラチナブロンドの髪が月の光を受け、夜の中で輝きを放つ。柔和に微笑んでいながらも、紫色の目にはなんの感情も見えない。
「――聖女……? なんで、ここに」
ローウェンの目が、縫い付けられたように彼女を凝視している。
聖女。
あれが、わたしに求められたもの。
ごくり、と唾を飲み込んだわたしを興味すら抱かない目で見下ろしながら、彼女は優雅な仕草で胸に手を当て小さく礼をする。
「お会いできて嬉しいわ、次代の聖女」
「……」
「けれど夜の散歩にしては遅すぎる時間ね。ねえ、騎士様。この子を連れて、なにをしていたのかしら?」
ぶわっと彼女から強大な魔力が放たれる。禍々しい黒い色のそれに、手足が竦み上がった。
ローウェンは腕を広げ、わたしを背に立ち塞がる。
「こいつは、大司教に手篭めにされそうになってたんだ。そいつから逃げてる最中だったんだよ」
「逃げる――どうして逃げるの?」
こてんと小首を傾げる。
「それは人間からの命令だったのでしょう?」
直後、ローウェンの大きな舌打ちが聞こえてきた。見れば、険しい表情で聖女を睨みつけている。
「大事な『次代』じゃねえのかよ」
「ええ、この国を延命させる大事な子よ。けどそれがどうしたの? 私達は人間の道具。道具は使われてこそよ」
「なに、言ってんだ。あんたらは道具なんかじゃない、同じ人間だ! たとえ地獄のような儀式で産まれて、聖女なんていう役目に縛られたとしても、その心は誰かに強制されるもんじゃない! あんたにだって心が――、ッ!」
ローウェンが突如として地面になぎ倒される。
一瞬のことだった。聖女のかざした指先に、魔力の残滓がパチパチと光を放っている。
「ごめんなさいね。弾いただけのつもりが、加減がうまくできなくて怪我をさせてしまったわ。貴方が物知り顔で変なことを言うから」
心底申し訳無さそうに眉を寄せるが、そういう顔を作っているだけだ。瞳に浮かぶ明確な敵意は、隠しきれていない。
わたしはこめかみから血を流すローウェンへ、急いで駆け寄った。
「ローウェン……! ローウェン!」
「っ、」
うつ伏せに倒れる大きな身体を懸命に起こすと、寝間着の裾で彼の血を拭う。
だけど拭っても拭っても溢れる血に、不安が駆け足で迫り上がってくる。ひどく頭を打ってしまったようで、ローウェンの意識ははっきりしない。
「や、やだ……! ローウェン! 起きて、ねえ!」
涙がぼたぼたと彼の顔を濡らす。
知識のないわたしはどう手当をすればいいか分からない。いまローウェンがどんな危険な状態かも分からない。
でも傷ついて血を流している姿に、わたしの同類を思い出して『死』という文字を脳裏によぎらせた。
「……」
聖女が近づいてくる。
わたしは涙でぐしゃぐしゃになりながら、ローウェンの頭を胸に抱え込むと彼女を鋭く睨んだ。
「ローウェンになにかしたら許さない……!」
聖女はひどく驚いた顔をして、わたしを見下ろしている。怖い。怖いけれど、ローウェンを守るんだ。下唇を噛み締め、必死に恐怖と戦う。
彼女のしなやかな手が伸び、わたしの顎をガッと掴んだ。
「貴方……なんて歪なの」
ゆっくりと膝を曲げ、わたしと同じ目線になっても瞬きひとつせず、まじまじと観察してくる。
どくん、と心臓が高鳴った。
「なぜその状態で生きているの。驚いた……ええ、本当に驚いたわ。こんなことが成立するなんて」
「……っ!」
徐々に力が込められ、頬に爪が食い込む。
怒っている? 違う、昂ぶっているんだ。尋常ではない様子の聖女に恐怖心が顔を覗かせるが、それでも負けじと険しい目を向けた。
形の良い唇が弧を描く。
それは聖女らしい微笑みを携えた人形の仮面が、崩れた瞬間だった。
「……この子から手を離せ、クソ女」
「!」
聖女の細い腕を力いっぱいに掴み、ローウェンがわたしの顔から離す。
血塗れの顔から放たれる鋭い眼光に、聖女は目を見開き魅入っていた。
「ローウェン!」
意識が戻ったことに喜々として彼の名を呼ぶわたしに、ローウェンは聖女に視線を向けたまま強い口調で言った。
「逃げろ。俺も後で追いかけるから、先に行け」
「や、やだ……やだ!」
「早く逃げるんだ! お前が捕まったらどうなるか、」
「いやだ!」
首を大きく振って拒否するわたしの耳が、「ふふ」と小さく笑う声を拾う。
聖女は腕を強く掴まれたまま、俯いて肩を揺らしていた。
「ふふふ……ふふ、すごい……すごいわ。まさか『次代』がこんなことになっていただなんて。貴方がそうさせたのね?」
「……俺は笑われることなんてしていないがな」
彼女はローウェンの手を払いのけると、すくっと立ち上がる。
その顔には既に聖女らしい微笑みが張り付けられ、ローウェンを値踏みするように見下ろしていた。
「ローウェン、と言ったわね。私と取引しましょう? 貴方が私のものになるのなら、大司教様から逃げ出したこの子に対し、お咎めがないよう取り計らいます」
え、と音もなく口を開く。
呆気に取られた表情でいるわたしの横で、ローウェンが口の端を上げた。
嗤って聖女だけを見つめている。見開く空色の瞳にわたしの姿は無く、「ローウェン」と呼ぼうとした声は彼の声に掻き消された。
「願ってもない申し出ありがたいね、俺をご所望とはお目が高い」
「まあ、乗り気で嬉しいわ。では取引成立ね」
両手を合わせ、嬉しそうに装う聖女に「いや、」とローウェンは言葉を続ける。
「条件が足りない。こいつが二度とこんな目に遭わないよう約束してくれ。あとクソ変態豚野郎はクビにしろ」
「……少し私の負担が多い気がするけど……いいでしょう。それくらいならお安い御用だわ」
繰り広げられる会話を、近くにいるのに遠い場所から見ているような感覚だった。
ローウェンは聖女しか見ていなくて。彼女も彼しか見ていない。二人ははじめて会った筈なのに、妙に親密でどこか似ていた。
聖女が彼の胸の前で手をかざし、口で何かを唱えている。
鈍い輝きを放つ黒い光が膨らみ、ローウェンの胸に紋様が刻まれていく。
――止めなきゃ。本能でそう感じた。それなのに思うように身体が動かせず、手を伸ばし彼の裾を握るのが精一杯で。
ようやっと、ローウェンがわたしを見た。
空色の瞳にわたしを映し、安堵させるように優しく笑いかける。それなのに吐き出された言葉は、なによりも残酷なものだった。
「じゃあな、チビ」
いつも言う「またな」ではない。決別の言葉を告げられたのだと、すぐに理解した。
わたしの頭をはじめて会ったときのようにわしゃわしゃと撫で――大きな手が離れていくのを見ていることしかできなかった。
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