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〘149〙おもひで ※閲覧注意
しおりを挟む枕席後、湯船に浸かるハルチカは、幼いころの記憶をたどってみた。湯殿で躰を洗うヒョウエとモモコは、どちらがより泡立てることができるか、石鹸を使って遊んでいた(勝負を云いだしたのはヒョウエである)。備品の用途をまちがえているが、楽しそうなのでほうっておく。湯気のせいで視界はぼんやりとして、湯船の縁に頭を乗せていると、眠たくなってきた。
溫治、おいで。
クリィムソーダがあるよ。
観覧車が見えるね。
手をふってみようか。
誰かに肩ぐるまをしてもらう男の子は、うれしそうに手足を動かして、笑っていた。遊園地にきているようで、遠くに観覧車と、回転木馬が見えた。夫婦と思われる男女は、互いの愛情を信じて疑わない。しあわせの証として、小さな命を授かり、大事に育てていた。……離婚よ! あんたなんか、産まなければよかった! 女が先にハルチカを責めた。あとから男に殴られた。小さなハルチカは躰ごと飛ばされ、壁に激突して倒れ、鼻血を噴いた。
……や……めて……、
息が苦しい。母の手がハルチカの首を絞める。父の背中が遠ざかってゆく。……死んじゃうよ、……苦しいよ、痛いよ、お母さん、お父さん、……やめてぇ! 夫婦仲に亀裂がはいったとき、ハルチカは居場所を失った。なにが原因でそうなったのか、はっきりと思いだせない。だが、見知らぬ土地に置き去りにされたハルチカは、走りだす乗用車を見つめ、二度と家族にはもどれない現実に、涙がこぼれた。こんなにもあっさり見放されるとは、信じられなかった。愛しあって誕生した夫婦の分身は、彼らの期待に外れたのかもしれない。それでも、こんなふうに扱われては、悲しみと怒りがこみあげた。
……消えてやるもんか。
おれは、死にたくない!
ハルチカは地面に落ちているものならば、なんでも拾い集めた。生きていくために、他人の畑から野菜や果物も盗んで食べた。それが悪いことだとは思わなかった。運よく、捕まらずにすんだ。気がつくと、周囲にも似たような境遇で生き延びる人間がいて、互いに干渉せず、日々の生活を乗り越えた。路上をさまようものに、助け合うという集団心理はない。公園の遊具に横たわり、眠るように死んでゆくものもいた。
ハルチカは十五歳のとき、畑を耕す老人が心臓発作で倒れ、そのまま息をひきとる瞬間を、草むらの中から見ていた。走っていき、老人に声をかける勇気はなかった。先程まで元気に土を掘っていた老人が、あっけなく死んでゆくさまは、あらゆる意味で教訓になった。どんなふうに生きようと、最期は動かなくなる。あたりまえだった日常は、本人の意思とは関係なく、突如として変化する。目的と行動に理由は必要ない。結果さえよければ問題ないのだ。
ハルチカが求めるものは、食糧と咽喉の渇きを潤す水と、雨や風をしのげる屋根の下である。湿った風が吹く夜や、長雨がつづく季節は、空き家をさがしてしのび込み、あちこちに黴が巣くう澱んだ空気の部屋で、寒さに耐えた。しかし、夏場は灼熱地獄と化すため、高層ビル群の隙間にしゃがみ込んで、躰が灼けるような暑さを避けて過ごした。西陽が沈むまえに川へはいると、通行人にジロジロにらまれたが、ハルチカは気にせず躰を洗い流した。辺りが暗くなると、劣情をもよおす男女が、橋の下や路地裏で売春行為を始める。物陰に隠れて眠るハルチカは、夜が明けるたび朝陽のまぶしさに目が眩んだ。
ひぐらしが鳴く夕暮れ、非日常に抗う力が尽きる寸前だったハルチカは、偶然通りかかった娼館の楼主の手をとり、生と死の境界(孤独)から抜けだした──。
✓つづく
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