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〘114〙道しるべ
しおりを挟むタカムラの口づけを受けたハルチカは、むやみに躰が火照るため、部屋にもどる予定を変えた。人気のない仏間へ向かい、なにをまつっているのかよくわからない仏壇の前にしゃがみこんだ。
仏間とは、先祖の霊が宿るとされる位牌を納める仏壇を安置する部屋で、仏様はおそれる存在ではない。別室に設計せず、床の間に置いてもよいとされていた。間取りとして重要なのは方角だけである。宗派や故人の偲ぶ作法を知らないハルチカは、線香立てを、じっと見つめた。古来より珍重されてきた香木と希少な沈香を使った伽羅富嶽は、艶冶で幽玄な世界を表現するとされ、最上級の線香である。桐箱で売られている線香など、見たこともないハルチカは、経机の花瓶や香炉を指でなぞり、溜め息を吐いた。
「……なんであんなこと、」
たった今、楼主の部屋で起きた事実に途惑っていると、カタンッと、窓の外で物音がした。ひとつしかない窓をあけると、斑猫が「ニャア」と鳴き、ハルチカが呼び寄せる間もなく、タタタッと路地へ姿を消した。花町の残飯は栄養があるようすで、胴体は丸々と肥えていた。それでいて脚は速く、やすやすとは捕まらない。タカムラに見つけてもらうまで、路上生活をしていたハルチカは、たびたび猫のあとを追いかけて、いっしょに屑入れをあさった。群れずに草の径を生きる猫は、タマシイが体から離れるまで、悲鳴をあげない。孤高な動物である。
湿った風が吹きぬける路地に黒い鳥がやってくると、ギャアギャアと騒ぎたてた。ハルチカは窓をしめるまえに灰色雲が低く垂れる空を見あげ、雨を予感した。雪解け水が流れる音が、四辺から聞こえてくる。仏間は一階につき、この放たれた窓を飛びだせば、どこにでも行ける気がしたが、そうする理由が思いつかないため、鍵を掛けて三階にもどった。
次に化粧台のまえに坐り、鏡に映る顔と見つめ合った。幾度となく男の欲望を受け容れてきた姿は、生き生きとして美しいわけではないが、サイキチいわく、すばらしいと感じてもらえるような雰囲気くらいは、身に備わっているらしい。これまでの経験がハルチカを形づくり、これから先は、注意深く物事を見極めていく必要がある。壺の間で受け身に徹しても、自由な意志まで奪取されてはならない。ハルチカは、サイキチと約束した。すばらしい男娼になってみせると。見た目の美しさではなく、内側から立ちのぼる要素こそ、快楽を求める男どもを引きつけるのだ。
「……ねえ、あなた。ご覧よ、あたしのこの肉体、好きなだけ可愛がって、たっぷり濡らしてくださる?」
キリコの口真似をして、鏡のなかのじぶんを誘惑してみる。うしろ髪に指を絡めて首をかたむけ、腰をひねったり前に突きだしたりしていると、アッという間に日が暮れた。夜鷹坂の看板に電氣が灯り、ヒシクラが帳場におちつく。アカラギは客入りまえの壺の間を巡回し、不備がないか確認した。今夜もまた男娼として咲き淫れることになるハルチカは、髪結場で仕度を整えると、控えの間へ移動した。
客間で芸者が奏でる猫皮の三味線は、鈴が転がるような音がする。仏間の窓から見た斑猫は路地に消えていったが、ハルチカの耳には、ここにいるよと鳴いているように聞こえた。人に飼われる暮らしを知らない野生の猫は、闇から闇を走り抜け、自由と引きかえに安全な道から遠ざかってゆく。あすにもがく声は、花町の喧騒に消えていく──。
✓つづく
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