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〘56〙犬に論語
しおりを挟む云うまでもなく、ヒシクラに吹かれたハルチカは、情けない気持ちと後悔で、じぶんが今、どんな顔をしているのか、わからなかった。
「こんな本が、なんで書院に置いてあるの。おれ、哥さんに誤解されたかも……、」
業務を終えて夜鷹坂の出入口を施錠するヒシクラは、『菊坐と肉樹』を持ち歩くハルチカを見て、憐れみの表情を向けた。菊坐は男性の肛門、肉樹は陰茎をあらわしている。薄っぺらい本なのに、ずっしりと重たく感じるハルチカは、書院の鍵といっしょにヒシクラへ手渡した。
「読んだのか。」
「……さっき、哥さんとすれ違ったあと、少しだけ。でも、なんだか挿絵が気持ち悪くて、すぐにやめた。」
「おまえさんには、刺激が強すぎたようだな。こういった類の際物を、平気な顔で愛読できるやつは、ひとりしかいない。」
「……まさか、哥さん?」
「否、楼主だよ。アカラギの名誉のために云っておくが、あいつは有能な男だよ。娼館で働くより、まっとうな社会で生きるべき人間だ。」
「まっとうって、なに。おれ、そんな社会で暮らしてきた親に、いきなりポイ捨てされたけど……、」
「ならば、両親に感謝しよう。」
「なんでさ、」
「道端に転がってなけりゃ、タカムラが拾えないだろう。おまえさんだって、花町とは無縁の人生を送っていたはずだ。」
「それは……そうだけど……。もしかして、ここで働いてる人って、みんなわけありなの? ……哥さんは、どうして娼館で働こうと思ったのだろう。」
「質問が多いな。」
「だって、知りたいから……、」
「知ってどうする。周囲にある余計な情報をつめこむより、おまえさんにとって必要なメモリーに使えよ。」
「どういう意味?」
「考える時間は用意されている。じぶんで勉強しな。」
ヒシクラは会話を中断すると、看板の照明を消した。帳場の抽斗から売上金と名簿を取りだし、楼主の部屋へ報告に向かう。その前に書院へ立ち寄り、『菊坐と肉樹』を定位置に納めた。ヒシクラに相談したいことがあるハルチカは、廊下で待っていた。
「……ねえ、ヒシクラさん。おれ、今夜も呼ばれなかったんだ。男娼なのに、なにもしない日がつづいてる。このままでいいのかな。だんだん、不安になってきた。」
「男娼の管理はアカラギの仕事だから、おれに訊かれてもさっぱりだ。おまえさんにできることは、いつ呼ばれても対応できるよう、調整しておくことだろう。……営業時間外だが、おれが相手をしてやってもいい。生物は使わない。金なら出してやるぞ。」
「そういう冗談やめろってば。真剣に悩んでるのに……、」
「おれは、男娼を指名しているわけじゃない。ハルチカという人間を、おまえ自身を欲している。」
書院の扉を背にして立つヒシクラは、ハルチカを見据えた。上級男娼は、淡い黒髪に赤珊瑚のかんざしを挿している。仕入れのすべてを担当するヒシクラだが、覚えのない装飾具だった。アカラギが個人的に購え与えたものにつき、第三者が口をはさむべきことではない。
「な、なに?」
「おまえさんを見ていると、どうにも歯痒くてな。なんというか、いっそ深追いして玉砕してくれたほうが、すっきりするんだが、」
「おれ、不幸を望まれてる?」
「否、それとこれとは別件だ。」
「それとこれって、なにさ?」
「……失言だったか。忘れてくれ。」
ヒシクラは迷っていた。アカラギへの思いを知るかぎり、安易に事態を進展させるわけにはいかない。むろん、感情を抜きにして枕席に侍ることは可能だが、最適な時機を待つべきである。そのときは近いはずだ。
✓つづく
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