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〘10〙アカラギ
しおりを挟むハルチカが夜鷹坂にやってきたとき、アカラギは齢二十五の若い男だった。話術に長けていそうな賢い顔立ちをしていたが、笑うと子どものようにも見えた。その機微にふれて依存するハルチカは、男娼としての手ほどきを受ける日まで、かぎりなく純粋な思いを寄せた。
「菱蔵さん、石鹸と剃刀を三箱、お願いします。」
「おう、ラギか。ご苦労さん。」
作務衣姿で帳場に坐る髭面のヒシクラは、注文書を受け取りながら、風呂場のほうへ視線を泳がせた。下働きの少年たちが、着がえとタオルを持って廊下を歩いていく。そのなかに、ハルチカと彩吉の姿もあった。
「あいつ、ずいぶんふくよかな体形になってきたな。最初に見たときは魚の骨かと思ったが、そろそろ抱き心地を確かめてみたいもんだ。」
「彼は未成年ですよ。手をだしたら旦那さまに叱られますから、お気をつけを。」
「なんだ、ありゃまだ童貞か?」
「おそらく未経験かと。」
「それじゃあ、おまえが仕込んでやるしかねぇな。せいぜい健闘を祈るぜ。」
「その件につきましては、承知のうえで娼館で働いていますので、心配無用ですよ。」
楼主の右腕はまちがいなくヒシクラであるが、左腕を担うアカラギの本領は底が知れなかった。長いつきあいの髙邑さえ、詳しい個人情報は聞きだせていない。必要なかったと云ってもいいだろう。アカラギの働きぶりは堅実で、頭の回転も速い。二十五歳のとき、一流大學で将来なんの役にも立たない勉強に励んでいたヒシクラは、アカラギの有能さに、よくよく吐息がでた。
「春日坂で起きた殺傷事件を知ってるか、」
ヒシクラは声を低めた。営業時間後とはいえ、男娼の耳には届かないほうがいい話題である。帳場から去ろうとしたアカラギは足をとめ、眉をひそめた。春日坂とは、性サービスを提供する業務形態こそ等しい娼館だが、食事と性行為を利用客全員が同じ空間で行う乱痴気パーティーを専売特許としていた。酔いがまわった客が、ひとりの男娼を取り合った結果、無理やり挿入した客の後頭部をビール瓶で強打し、倒れた拍子に割れたガラスが男娼の臀部を突き刺し、先に手をだした加害者は自ら咽喉を裂いて絶命するという結末である。快楽に溺れすぎては、強欲で身勝手な本能しか残らない。いかなる状況においても、節度をわきまえなければ、予期せぬ惨事をまねく。まさに血の海と化した会場は、現在、閉鎖中である。商売道具の肉体に深手を負った男娼は、ショックのあまり精神障害を患い、地方の病院に隔離された。
「まったくよ、同業のよしみとして、哀悼の意を表するぜ。」
ヒシクラは苦虫を噛み潰したような表情をしたが、アカラギのようすに変化はなく、「論外です。」と冷ややかな科白を残して立ち去った。若造にしては妙におちついているため、ヒシクラは「やれやれ、」と肩をすぼめた。それから、帳場での仕事を終えると、看板の照明を落とし、玄関を施錠する。夕刻にはふたたびもどってくる帳場をあとにして、本日の売上を金庫にしまうため、楼主の部屋に向かった。
「ラギのやつ、わかってるのかね。ハルチカのおまえさんへのまなざし、ありゃどう見ても恋慕の念だぞ。」
アカラギは、気づかないふりをしている。個人的な感情こそ論外なのだ。
✓つづく
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