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第 39 話
しおりを挟む長椅子で、世界史の書物を読む恭介の胸騒ぎは的中した。だが、遠く離れた場所での事件につき、その詳細を知る余地もなく、日々の業務で疲れたカラダを息めていた。
コスモポリテスに暮らす獣人の村は、平地の集落である。住居である塒は土壁で、4本の天然材を柱にして、蔓科の植物で屋根を編み込む。稲作や狩猟を主な生活習慣とし、木の実や茸を土器に保存したりして、自給自足が基本である。集団を統制する王族の住まう塒は、数十センチほど土砂を積みあげた高地に造られた。村全体は腐らない木製の柵で囲われていたが、とくに見張り番が置かれているわけではない。昼間は寝て過ごし、夕刻から朝方までが活動時間である。
ただし、シリルの場合は人間らしい生活を好み、従者も付き合わされていた。
シリルの日常は、村のみんなが塒に落ちついてから始まる。
今朝もまた、食事をすませたシリルは1枚の布を肩からさげると、裸足で集落のまわりを散歩した。少し離れてディランがついてくる。ふとした瞬間に、なぜか何もないところで転倒したシリルは、両膝を負傷した。
「シリル様!」
すぐさまディランが駆け寄り、ケガの程度を確かめる。皮膚の表面がすりきれ、血が滲んでいた。シリルは尻もちをつきながら、「これくらい平気」と云って笑う。実際、獣人の治癒能力は高く、人間よりも活発な再生細胞が血管をめぐっていた。それゆえ、見当違いの流言が世には広まっている。
“獣人の血は疲労回復の効果が期待できる”
“1滴呑めば流行病気が治る”
そういった迷信の類で、どれも事実ではない。しかし、欲深い人間によって連れ去られ、体から血液を抜き取られてしまい、闇市で売買される事象が後を絶たない。さいわい、コスモポリテスに暮らす獣人族は、その手の被害に遭わずにすんでいた。
「消毒が必要ですね。少しお待ちください。」
ディランはそう云うと、木製の柵を越えて薬草を見つけにゆく。だが、鼻先をかすめた微かなにおいに反応し、瞬時にシリルの元へ舞い戻った。見れば、4人の男がシリルを囲い、口に布を巻きつけ、捕獲している。
「貴様らっ、許さんぞ!!」
ディランは一瞬にして獣の性へと豹変し、鋭い爪でひとりの人間を討ち止めたが、残りの3人は逃げ足が速く、しかも、あらかじめ体に塗りつけていた嗅覚を鈍らせる粉を、ディラン目がけて投げつけた。
「……ぐっ!? シリル様!!」
わずか数秒の間に、ディランの目の前でシリルは誘拐されてしまう。静かな村で起きた突然の出来事につき、ディランは無我夢中で追跡したが、盗賊たちは森の奥地へ向かったようで、次第に気配は途切れてしまう。
「シリル様っ、シリル様!!」
闇雲に走りまわるディランだが、途中から冷静さを取り戻した。人間が獣人を連れ去る理由は、ふたつにひとつである。血液を求めるか、首輪をつけて飼い馴らすか。シリルを奪還する方法は、人間のフリをして闇市へ向かうという手もあった。
「……シリル様、どうか、ご無事でいてください。」
嗅覚が麻痺している以上、ディランは頭を使うしかない。広域な森のどこかにシリルは確かにいたが、捜索を中断し、いったん集落まで引き返した。咽喉を引き裂かれて絶命している人間の後始末は、簡単である。骨まで喰えばいい。
だが、シリルを無惨に拐った男の肉体など、誰も好まない。ディランは村の外れに屍体を捨てると、獣王への報告を急いだ。自身が側に付いていながらの失態につき、処罰も覚悟していたが、「なんと強欲な人間どもよ。獣人族を侮るなかれ。リシルドとて、いざとなれば自分の身くらい自分で守れようぞ」という言葉が返され、ディランが罪に問われることはなかった。
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