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第98回[宿敵]
しおりを挟む信じがたい状況に、一瞬頭がまっ白になった。池から救いだした礼慈郎の息が、止まっている。なんとかしなければ、そう思って立ちあがった飛英は、誰かに腕を摑まれた。指先に込められた力は強く、皮膚の表面に赤く痕が残った。放してください、そういうべきところで目が覚めた。
「だいじょうぶか。」
「あ……、た、鷹羽さん……、」
「どうした。まだ夜中だぜ。」
「す、すみません。起こしてしまいましたか……?」
「いや、おれは寝てないよ。」
明日、礼慈郎とふたりで廃村へ向かうことになった飛英は、はやめに眠りについた。となりの和室で書き物をしていた鷹羽は、うめき声のような息づかいが聞こえ、ようすを見にきて、青年の肩をゆり動かした。寝汗をかくほど、おそろしい夢をみた飛英は、股のあいだから血が流れていた。「ひっ!」と短く叫び、あわてて布団を抜けだすと、電氣を点ける鷹羽から「落ちつけよ」と、軽く首をふられた。よく見ると、布団も浴衣も、汚れていない。流血は錯覚である。そう思って安堵するも、息苦しさを感じた。
数日前、青年は鷹羽の腕に抱かれている。正確には英理の意識が表面化しているときの情事だが、正気を取り戻した飛英は、躰じゅうに残された熱量に途惑い、しばらく鷹羽と目を合わせることができなかった。後日、礼慈郎に対する裏切り行為ではないと諭す鷹羽の表情はひどく真剣で、飛英自身も既成事実を受け容れるしかなかった。忌まわしい土地へ向かう日が近づくにつれ、飛英の意識はどこか遠くへ離れていくようだった。
青年が、悪夢をみた前日のことである。礼慈郎はスーツの男を訪ねた。克衛に邸宅までの道を教わり、士官学校の帰りに足を運んだ。邸宅を囲う石垣に、黒い猫が丸くなっている。礼慈郎の存在に驚くようすはなく、のんびりと欠伸をした。人間の視線を気にしないため、飼いならしてあるのかもしれない。
礼慈郎は軍服の皺を指でととのえると、玄関先で家人を呼んだ。老婦人は首を傾げ、「はて? 軍人さまがどのようなご用件で」と、しきりに顔を見つめてくる。還暦を過ぎた婦人は、住み込みで働く家政婦である。来訪者の声を聞きつけた男主人は、長い廊下の先から姿をあらわし、ゆっくり歩いてきた。奥の間へ引き下がるよう家政婦に云いつけ、あからさまに表情を曇らせた。
「素手で来るとは、気のきかない客だ。」
「長居はしない。織原飛英の件で話がある。」
男は貿易商の一族であり、日頃から洋装が基本である。高級素材で仕立てたスーツは、浅ましい欲望を気取らせないためのカムフラージュのように見えた。礼慈郎は脱帽せず、玄関口で牽制した。
「あの青年は、おれが身請した。どのような理由であれ、気安く手をだすべきではない。まして、拐って束縛しようとは、言語道断である。遺恨があるならば、おれに矛先を向けることだ。」
礼慈郎の顔つきは、ほぼ無表情に近い。飛英をそばにおくことができなかった紳士は、「ほう」と息を吐き、目を細めた。軍人として隙のない礼慈郎は、男の動きを見逃さない。スーツの内側へ手をすべり込ませた瞬間、素速く身を引き、距離をとる。男は、武器になるようなものを仕込んでいたわけではないが、相手の反応を見、腕を元の位置へ戻した。
「遺恨があるのは、きみのほうではないのかね。私は純粋に、英を愛でたいのだよ。愛人ではなく、恋人としてね。まいにち躰を洗ってやり、清潔さを保ち、栄養のある食事を摂らせる。恋人には、いつまでも健康でいてもらいたいからね。」
「きさまは、恋人を座敷牢へ閉じこめるのか。」
こんどは、礼慈郎が一歩詰め寄った。男も引き下がらず、軍人を非難する。
「きみこそ、英を独占し、優越感に浸りすぎてやしないか? 野蛮な軍人に身請されたと知り、私はしばらく眠れぬ夜を過ごしたものだ。実際、今でも気がかりだよ。」
「それで、見つけしだい連れ去るとは、料簡ちがいも甚だしい。二度と織原に手をだすな。きさまの言動は、まともではない。」
きょうの礼慈郎は舌がよくまわったが、こんな男との会話は不愉快になるいっぽうで、早々に切りあげるべきだった。互いに不穏な空気を意識して顔をしかめ、話を終わらせた。失恋した紳士の存在はあなどれないが、大切なものを横取りされて恨めしい気持ちになるのは当然の流れにつき、礼慈郎は玄関わきで小さくため息を吐いた。気を取りなおして歩きだすと、闇市の方角へ目を向けた。ストリッパーたちが日常の境界を忘れて踊る時刻である。自分には関係ないと思っていた世界で、飛英と礼慈郎はめぐり逢い、幸福に生きる道を探している。
✓つづく
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