向こう岸の楽園

第44回［密談］

　くすくすッと、近くで誰かの笑い声を聞いた飛英は、思わず瞼をあけそうになったが、意識のないふりを続けた。

『莫迦ばかだね、おまえ。せっかく逃げきれたのに、自分のほうから帰ってくるなんて、とんだ親不孝だわぇ。』

　辺あたりは静かで、物音ひとつなく、耳まで届く声だけがはっきりと鼓膜こまくを刺激した。こちらに向けて話しかけてくる、やや高い声音には、聞き覚えがあった。しかし飛英は、目をあけて顔を確認したい気持ちをがまんした。

『ねぇ、いいのかい？　あの軍人ひとは、きっと座敷牢ここへ来てしまうよ。……でも、そのほうが都合がいいわぇ。あたし、、、はね、あの人の立派な大砲で、この肉体からだを毀こわしてほしいのさ。腰の骨が砕けるまで突いてくれなきゃ、あたしもあんた、、、も満足できないからねぇ。』

　声の主ぬしは、飛英が他者（礼慈郎）と性交渉におよび、途中で投げだした事実を承知していた。まるで、交わるふたりをその場で見ていたかのような口ぶりに、飛英は動揺を隠せない。指先が小刻こきざみにふるえだしても、紅い口唇くちびるは勝手に動いた。

『そうやって目をそむけたところで、希のぞむ未来はやってこないわぇ。……あんたは、あの軍人ひとを巻き込んだ責任を取るべきさね。いつまでものんびりしてないで、さっさと起きて、なんとかおし。このままだと、ほんとうに死なれてしまうよ。』

　座敷牢に閉じこめられた飛英を探しあてる人物は、おそらく、礼慈郎しかいない。だが、これは罠わなである。声の主が指摘するように、飛英は、白髪の男に仕組まれた窮状に立ち向かうしかないのだ。ゆっくり起きあがると、足頸あしくびの鎖に目を留めた。よく見ると、ところどころ錆さびついている。力のかぎりをこめて引きちぎると、牢屋の木枠きわくに手をかけた。格子状になっているため、躰ごと抜けだすことはできない。牢屋の鍵は、白髪の男が持っているはずだ。脱出する方法は、考えるまでもない。飛英は暗がりで身を低めると、いったん姿を消した男が戻ってくるまで、息をひそめた。しばらくすると、ヒタヒタと、廊下を歩く足音が聞こえた。

『さあ、邪魔者は、殺しておしまい。』


✓つづく