向こう岸の楽園

第40回［妊産記録］

　人知れぬ悩みならば、
　かぎりなく透明なのであろう。
　目に見えぬ硝子ガラスの破片が
　心臓に突き刺さっているような
　苦痛だ。

　〈狩谷鷹羽『ささやく指』より〉


「なんだって？　英はなぶさが、行方不明？」
「いや、行き先ならわかっている。おれも今から追うところだ。」
「追うところって……、おまえら何やってんだよ。痴話ちわ喧嘩でもしたのか。だったら、さっさと謝っておけ。全部おまえが悪い。」
「……本気か、」
「当然だろ。礼慈郎とちがって、英は繊細なんだよ。扱いには注意が必要だと警告したはずだ。」
「扱いに注意した結果が、このザマなんだがな。」

　売店の自働電話（公衆電話）に料金を投入して鷹羽たかはと会話する礼慈郎は、汽車の時刻を気にして用件を伝えた。

「織江という町医について、調べてほしい。なんでもかまわない。わかったことをまとめておいてくれ。また連絡する。」

　云うだけいって受話器をおいた礼慈郎は、旅行鞄を提げて汽車へのりこんだ。飛英に置き去りにされた礼慈郎だが、同じ場所を目ざしているため、とくに焦あせりは感じなかった。目的地は廃村につき、思わぬ事故に巻きこまれる心配もない。今は、そう考えることにした。また、織江という人物にまつわる記事が新聞社に保管されていないかどうか、作家の狩谷鷹羽に調査を依頼しておくが、案の定、飛英との現状を茶化された。

「あいつめ、適当なことを云いやがって……。織原が別行動を取ったのは、おれのせいだと？　それが事実ならば、けしからんな。」

　飛英と出逢ってから、礼慈郎の日常は大きく変化している。ストリップ劇場へ足を運んだのは突発的な要素を含んでいたが、いちどはまり込んだら逃れられない縁が、青年と礼慈郎を結びつけた。礼慈郎は既婚者だが、理屈では説明できないほど、飛英に惹きつけられ、肉欲も自覚していた。もはや、簡単に切れる縁ではない。置き去りにされた礼慈郎は、飛英の奥深い闇に理解を示す必要があった。

「悩むうちに、時間切れになったか。」

　今、飛英のからだをつきうごかすものは何か、礼慈郎は瞼を閉じて考えた。英理えいりの人を喰った態度のほうが、むしろ自然体であり、どこか不安そうな顔ばかり見せる飛英は、自己防衛本能によるニセモノの人格ではないのか。どちらにせよ、生身を共有する以上、礼慈郎に選択の余地はない。

「ふん、二重人格とは、よく云ったものだ。……その程度の手品てじなで、このおれが惑まどうとでも思ったか？」

　青年を身請みうけしたとき、すでに覚悟はできている。どんな過去を引きずっていようとも、縁を切るつもりはない。軍人たるもの、感情を露あらわにすることはよろしくないが、礼慈郎は無意識に笑みを浮かべた。口に合わないものほど、後を引く。織原飛英を愛人としてそばにおくことを、義務のように感じていた。

　礼慈郎が飛英を追うころ、電話連絡を受けた鷹羽も動きだした。新聞社へ向かい、資料室で織江に関する情報を探した。人物の職業が判明しているため、医術関連の記事をあさるうち、生前の彼が残した手帳の一部を取りあげた地方紙を発見した。本人による情報提供ではなく、調査した人物（大学の教授）によって発表された内容がまとめてある。男性の妊産記録に目を通す鷹羽は、「メルヘンだな」とつぶやき、小さくため息を吐いた。

「……礼慈郎のやつ、旅先で英を妊娠でもさせたのか？」

　鷹羽は、新聞社の電話を借りて調査を担当した大学へ問い合わせた。すると、織江の記事を書いた教授は、数年前に辞職していることがわかった。


✓つづく