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第29回[愛人]
しおりを挟む山合にある並原集落の旅館で、英理と朝食をすませた礼慈郎は、荷物をまとめ部屋をでた。
『今から墓地へ行くのかい?』
「行きたいと云ったのは、そっちだろう。」
『それはあたしの科白じゃないよ。軍人さんと墓参りなんて、ますます白けるわぇ。……どうせなら、もっと楽しいことをしなきゃ退屈さね。』
そういって礼慈郎の腕にしがみつく英理は、不満を口にしながらも笑顔である。受付で会計をするあいだも英理は礼慈郎の腕にぴったりくっついているため、旅館の老人は、いぶかしげな目で見つつ、「またお越しくだせぇ」と口先だけ挨拶を述べた。旅館をあとにしたふたりは、田舎の細道を北へ向かった。
「いいかげん離れろ。歩きにくい。」
『いやだよ。あたしはこのほうが安心するんだ。』
よく晴れた日の午前だが、周囲に人影はない。さいわい、辺鄙な土地に知り合いなどいない礼慈郎は、しばらく英理のわがままに付き合うことにした。雑草が目立つ墓地が見えてくると、英理は『あははっ』と高笑いしながら駆けだした。墓石をひとつひとつ見てまわり、『全員、知らない名前だわぇ』といって、あとから追いついた礼慈郎をふり向いた。
『ねぇ、軍人さん。あたしを身請しておきながら、いつまで焦らすのさ。はやくこの躰を思いきり抱いておくれよ。』
「……ここでか?」
『あははっ、墓地で契るなんて、興奮するねぇ。あたしはそれでも構わないよ。』
云うなり、英理は梅小紋の帯を解こうとするため、礼慈郎はすぐさま詰め寄り、その手を制した。
『なんだい、怖気づいたのかい。』
「そうではない。汽車に間に合わなくなる。バス停まで戻るぞ。」
腕時計で時刻を確かめた礼慈郎が背を向けると、英理は渋々といった顔つきで歩きだす。バス停へ向かう途中、礼慈郎は飛英について考えた。英理という人格があらわれたとき、飛英の意識はどうなっているのか。身体的な感覚は共有しているのか、記憶や行動をあとから確認できるのか、解離性による症状であるならば、治療が必要なのかどうか、思案顔になって沈黙する礼慈郎の耳に、飛英の声が聞こえた。
「礼慈郎さん、バスがきました。急ぎませんと。」
並んで歩く飛英は、数十メートル先のバス停を指で示すと、礼慈郎の横顔を見あげた。
「ずいぶん、突然なんだな。」
「え?」
「いや、気にするな。急ごう。」
いつのまにか、普段どおりの飛英が隣にいた。控えめな態度や表情を見るかぎり、むやみにおごり高ぶる英理ではないことくらい察しがつく。礼慈郎は飛英の肩に手を添えると、バスにのりこみ、駅舎へ到着した。窓口で乗車券を購入し、飛英と汽車を待つ礼慈郎は、それとなく青年のようすへ目を留めた。遠くに見える山脈を、ぼんやりと眺めている。墓地へ足を運んだ記憶があるのかどうか、少し気になった。
「織原、」
呼びかけると、「はい」と返事をして礼慈郎のほうへ顔を向けた。身にまとった梅小紋を、よく着こなしている。白い肌は、人を惹きつける容色があり、男を抱いた経験のない礼慈郎でも、身体作用は正常に反応した。
「鷹羽とは寝たのか。」
「た、鷹羽さんと、わたしが? どうしてそんなことを、あり得ません……。」
礼慈郎の愛人として身請されたと思いこむ飛英は、即座に否定した。裸身で抱きあった夜の件は、何も覚えていない。未遂であるうちは、互いの肌が触れあった記憶は消えてしまうらしい。礼慈郎を誘惑したことも、覚えていない顔だった。
✓つづく
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