向こう岸の楽園

み馬

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第1回[生きる術]

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 まず最初の絶望は自己である。
 自分が嫌で絶望したあとは、
 常に自己を偽って
 生きなければならない。
 本来の自分を見失った状態こそが
 絶望なのだ。
 
 〈狩谷鷹羽『かがやく指』より〉


 門構えのある古い家屋かおくの和室で書き物をしていた狩谷鷹羽かりやたかはは、雨のにおいに気づいて顔をあげた。洋墨インクびんのふたをしめて立ちあがると、細長い廊下を歩き、坪庭つぼにわの見える位置で足をとめた。奥行きのある構造つくりは商家であったころの名残りで、坪庭は風の通り道として配置されている。

 小さな庭に常緑低木の沈丁花ジンチョウゲの花が咲いていた。早春の寒さが残る時期に、白くて甘い香りを漂わせる肉厚の花が枝先にまとまって咲く、三大香花のひとつである。低くれこめる雲から、霧雨きりさめが降っている。ふつうの雨よりもしずくが微小なため、弱い風にも流されやすく、視界が白くもやっていた。庭木の横に人影がある。

「……誰だ、」

 雨のなかを傘もささず立ち尽くす人影は、まばたきをしたあとに消えてしまった。窓をあけて確かめたが、肌にまとわりつくような雨が吹きこむばかりで、人影はどこにもなかった。昼間から幽霊に出喰でくわした気分の狩谷は、しばらくその場にたたずみ、音もなく降り続ける雨をながめた──。


 同時刻、18歳になったばかりの織原飛英おりはらひえいは、闇市のとば口へ行きいた。闇市とは、闇市場やみいちばの略で、公的に禁止された流通経路から入手した商品などを売り買いする、民衆による取引の場である。権力のおよばない無秩序むちつじょな集団というわけではなく、その土地を管理する支配者が存在した。
 
 飛英は、わずか6歳のときに両親と死に別れ、遠縁とおえんの家で育てられた。生まれつき蒼白あおじろい肌の持ち主で病弱そうに見えるだけでなく、ひたいに黒ずんだあざがあり、それを隠すためにのばした長い前髪からのぞく紫紺しこんの眼は、気味が悪いといって嫌厭けんえんされた。また、普段の口数くちかずは少なく無表情につき、周囲から白い目で見られる日々を送っていたが、いよいよ世話になった家を追いだされ、帝都ていとの闇市へたどりついた。

「おまえ、見ない顔だな。新参者ハツモノか? なかなかきれいな顔だが、華族の人間じゃ、あるまいな。ああ、なんだそのあざは。もったいねーな。そのシミがなけりゃ、どこぞの軍隊おかかえ男娼だんしょうにもなれただろうに、残念だったな。」

 いきなり軽口をたたく中年男は、闇市の案内役で、飛英に近づくなり頭をグシャグシャきまわした。野良猫のらねこを扱うような気安い態度である。実際、男の目利きはすぐれていた。雨にぬれてさまよう人間の事情を、少なからず理解している。飛英は、多くを語る必要はなかった。

「……男娼って、なんですか?」

「おっと、やっぱり気になったか。おまえ、素質あるぜ。男娼ってのはな、で抱かれる男のことだよ。要するに、売春夫ばいしゅんふみたいなものさ。」

 男が右手に持つ提燈ちょうちんの火が、チラチラとまたたいている。木綿もめんの着物に雨滴が染みこむ飛英は、寒気がして身ぶるいした。

「とりあえず、事務所に行くか。闇市ここを利用したければ、まずは挨拶するのがきまりなんだ。……おれは克衛かつえという。本来、おまえのような野良猫は叩きだす性分だが、飼いらすには充分と判断した。」

 いつのまにか評価を得た飛英は、ひときわ目立つ4階建ての鉄筋コンクリートのビルへ案内された。克衛は手巾ハンカチを差しだすと、「3階に行け」といって階段を指さした。

「……ご親切に、ありがとうございました。」

 手巾を受け取って礼を述べる飛英に、帰る家はどこにもない。生きるすべを紹介された以上、内容など問題ではなかった。たいして取柄とりえのない自分にできることは、限られている。


✓つづく

※物語をお読みいただき、誠にありがとうございます。こちらの作品は[淫呪の青年を愛でる男]の改訂版となります。
また、狩谷鷹羽かりやたかは(同性愛者)は[幼生閉口]の登場人物のひとりで、職業は作家でした。今後、主人公と性的に絡む攻め設定ですが、飛英の本命相手は別の人間です。どうぞよろしくお願いいたします。
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