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最終章
第164話
しおりを挟む風が吹き抜ける音も、フクロウが啼く声も、水面にゆらぐ波紋さえ無音になった。キーンと長い耳鳴りがして、亮介は顔をしかめた。圧倒的な存在感を放つなにかが、背後に迫っている。ふり向くには勇気が必要だ。襲ってくる気配はないが、まっすぐ見られている視線は、からだを貫通して痛むように感じた。
(だ、誰なんだろう。……さっきより近づいてる? こわい、こわい、どうしよう!)
心のなかでミュオンを呼んでも、深く沈んで眠りにつく水の精霊は、目ざめるようすはない。亮介ひとりきりのときにかぎって、肉食獣と出喰わしてしまった状況に、頭はプチパニック状態となる。
(そうだ、水のなかへ逃げれば、相手は追ってこれないかも!?)
思いきって溜池に隠れようとした瞬間、ガブッと首筋に咬みつかれ、地面に引きずり倒された。
「うわーっ!!」
食われると思って絶叫した亮介だが、すぐさま「あれっ」といって目を丸くした。
「大熊さんと、キツネさん!」
いつかの2匹と遭遇した。どちらも肉食を好む半獣属で、大熊に至っては、ミュオンに執着し、ハイロを敵視する厄介な性格の持ち主である。久しぶりに顔を合わせた両者だが、大熊からは以前のような殺気を感じなかった。首筋を咬んだ顎の力も、皮下脂肪に牙が食い込まないよう、かげんされている。
「なんだ、その顔は」と、クマ。
亮介は条件反射で「へ?」と首をかしげた。恐怖した背後の気配の正体は、断じて、彼らではない。亮介は、「あの」と質問した。
「あなたたち以外に、誰かいませんでしたか」
「誰も……」と、クマ。溜池をのぞきこむキツネは、水の精霊を発見して「いやしたぜ、兄者!」と声をあげた。
(どうしよう、このふたり、まだミュオンさんを狙ってるの? 水底にいるミュオンさんは、なにも知らないのに……)
この辺りは肉食獣の縄張りにつき、クマやキツネに見つかってもおかしくはない。むしろ、きょうまでよく鉢合わせなかったくらいである。分化したミュオンに至っては、過去に因縁のある2匹の件さえ、忘れてしまっている。大熊は、のしのしと湖畔に歩み寄り、水底で仰臥するミュオンを確認した。その視線は、やがて対岸へと向かう。つられて顔をあげた亮介は、「あっ」と短く叫んだ。
「キール!!」
「いよう、リョースケ」
亮介がキールと名付けた、イタチ科の半獣属が2本足で立っている。キールが別行動を始めてから数十日しか経っていないが、何年ぶりかの再会といった錯覚にとらわれた亮介は、胸の奥が熱くなった。
(キールだ! キール、キール!)
ミュオンが出産したこと、リヒトが生きていたこと、新しい小屋での日常など、亮介の頭のなかには伝えたいことがたくさん浮かんだ。キールは、溜池に揺らぐミュオンの寝顔を見つめたのち、ゆっくり湖畔の淵を歩いてきた。
「久しぶりだな、元気にしてたか?」
「うわーんっ、キールゥ!!」
亮介は涙目になってよろこび、イタチのからだをガシッと抱きあげた。
「うぐっ! イテェ、イテェ!」
「キールゥ、逢いたかったよ~」
つい、腕に必要以上の力がはいってしまった亮介は、痛がるキールにごめんさいと謝り、大熊とキツネをふり向いた。
「これって、どういうことなの? クマさんたちは、キールといっしょに、僕のあとをつけて来たの?」
「いや、まあ、正確にはリョースケじゃなくて、ミュオンを探してたンだ。おいらは今、クマと勝負のまっ最中なんでよ」
「勝負? なんの……」
予期せぬ再会をよそに、音もなく浮上したミュオンの透き徹った羽の向こう側に、大神らしき幻影が見えた。
★つづく
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