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第9部
第158話
しおりを挟むかつて、[クマ泣かせ]と呼ばれた大神は、最後の群れ(数匹)が生きのびていたが、もともと警戒心が強く、滅多に姿を見せなかった。その群れのなかに、リヒトと交流の機会を得たオオカミの子孫はいない。たびたび亮介の前にあらわれる姿は、森の記憶が視せる幻影にすぎなかった。
自然界を裏で支配する姿なき意志の持ち主は、太古の神である。精霊や半獣属が誕生するよりもずっと遠い時代に、それは目覚め、自我の発達に至り、数多の生物を地上に造りだした。そんな伝承が人間社会では語り継がれていたが、事実を知る者は誰ひとりいない。時間の経過と共に真相は変化するもので、当時の有様を正確に調べる手段はなく、過去の出来事は常に塗りかえられてゆく。
森林域には、精霊と人間と半獣属を巻きこみ、新たな種族を誕生させた経緯がある。数千、あるいは数百年前に起きた事柄が亮介の眼下にひろがる理由は、森の意志がはたらいているからであり、リヒトが復活した今、真相にたどりつく日は近いと思われた。
ジェミャに押し倒された亮介が、ハイロを探して走り去るノネコのうしろ姿を見送ったとき、コリスとリヒトが木登り競争をして遊んでいるとき、枯渇した泉水に水気は溢れ、地下水脈から噴きだすように全体を潤した。その岸辺に、ぼんやりとしたオオカミらしき影が佇んでいる。森じゅうの水滴を少しずつ集めて揺らぐ水面に、金色の眼が映りこむ。天寿を全うしたオオカミが、遠い記憶をつなぐ鍵となり、水底で象徴づくられた水の精霊を呼び醒ます。
起きよ、母なる精霊よ
愛しあった皆は
動かないで待っている
いつの日も
どこまででも
手を差しのべている
行かないでくれ、と
そこにいてくれ、と
人間に愛された精霊よ
半獣と結ばれた精霊よ
わが子は今、生きている
愛しあった者たちは今、
記憶を超えて地上にいる
きみ以外では生まれなかった
希望を むざむざ
手放してはいけない
おまえは おまえのために
そしてほかの見知らぬ者に
救いを求めてよいのだ
美しき水の精霊、ミューオンよ
おまえのいる場所は冷たかろう
さあ、思いだすがよい
恋しあった時間に
流れた熱い血と感情を
忘れてはいけない
きみの足跡を
もういちどたどるのだ
あの しあわせな日々を
忘却の泉水に沈めてはならぬ
ひき裂かれた運命に嚙みつき
追憶に惑わされず
地上で生きてゆけ!
オオカミの声は、水底で微睡むミュオンの耳には届かない。だが、秋風にざわめく木々の葉音や、水面にひろがる波紋のわずかな振動を感じ取っていた精霊は、まぶたを開けようとした。ミュオンの肉体は再生したばかりだが、すでに成人男性の姿をしていた。4枚の羽を水中でひろげ、ゆっくり浮きあがってくる。ザバァッと、空中へ飛びだしたミュオンは、生まれたての産声をあげた。
『あああァーーーッ!』
輝く太陽の下で、その身は歓喜してふるえる。甦った水の精霊は、ミュオンであってミュオンではない別人である。岸辺にいたオオカミの幻影は消えており、たった今から、地上で見ゆるものが新しい記憶として刻まれてゆく。肌にまとわりつく銀色の髪を指で払うと、蔦化の植物を見つけて首のうしろで1本に束ねた。ミュオンの代で出産を経験した水の精霊は、下腹部の違和感に顔をしかめ、手のひらを添えた。今以上の記憶はない。それなのに、股のあいだが疼いた。
★つづく
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