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第三章
異形 ※男色表現あり
しおりを挟む結之丞は窓の曇りを指でこすって、坪庭に目を凝らした。
その庭に訪ねる者あらば、奇妙な話に耳を傾けたあと、採種油と塩を用意するという、鹿島屋の習わしがある。千幸は、隠居した父親から、密かに教わっていた。「いいか、安い魚油ではだめだ。かならず採種油だ。それも、三上山にある油屋で購うたものにかぎる」──と。
雨あがりの泥濘に、小皿がふたつ置いてある。結之丞の位置から中身は見えないため、野良猫に食材のあまりものを恵んでいるのだろうかと思った。坪庭の植込みに、蝙蝠傘がさしてある。いったいどんな意味があるのだろうと見つめていると、背後に人の気配を感じた。
「わ、若旦那さま」
「結之丞くん、そんなところでぼんやりして、どうしたんだい」
「いいえ、なにも。申しわけありません」
雑巾がけの途中だった結之丞は、廊下に両手をつくと、バタバタと逃げるように拭き掃除を再開した。窓ガラス越しに映った千幸の姿が、一瞬、まるで別人のように見えたのは、気のせいだと思うことにした。雨の日は、ふしぎな現象が錯覚が起きやすく、幻影を見ることが多い。霧や虹、植物の息吹など、解明されていない謎は、世上に散りばめられている。
正午すぎに雨はやみ、雲は薄く、空は晴れわたり、水分を多く含んだ地面が太陽光を反射して、キラキラとまぶしいくらいだった。洗濯物を庭へ運びだす女中のひとりが、坪庭に放置された蝙蝠傘に気づき、番頭に報せた。まもなくして、姿をあらわした慈浪は、「あれに触るものではない」といって、首を傾げる女中にかまわず、店先に戻ってゆく。井戸水で雑巾を洗っていた結之丞は、傘の持ち主が誰か、思考をめぐらせた。鹿島屋では、昔ながらの番傘が愛用されている。黒い布張りの洋傘など、不自然で目立つ忘れものすぎる。つまり、見ればわかるひとに対する暗号的な意思表示ではないか。結之丞の予想は、まんざらでもなかった。
「おい」
お店の帳場に坐って書き物をしていた千幸に、坪庭から戻ってきた番頭が声をかける。
「はい、なんでしょう」
番頭は顔をあげて応じる若旦那を見おろし、「雨士だ」と、なにやら短く伝えた。洋墨のついたペンをもつ千幸の指が、小さくふるえた。招かれざる客がきたかのように、眉をひそめる。
「なんだよ、その顔は」
「え……」
「なにか不都合でもあるのか」
「いいえ、とくには」
「ならいいが、無理してまで客をもてなす必要はないぞ」
「……わかっています」
「なにを考えているのかしらんが、悩むくらいなら拒めよ。いくら体質的に受け身とはいえ、容易くねじこまれてどうする」
「なんです、そのたとえ。ぼくの躰にいちばん触れてきたあなたが、なにを勘ぐっているのですか」
「そうじゃない。見てきた感想だ。おまえは意外に強情なところもがあるが、そんな顔して云われても、説得力に欠けるんだよ。……いざとなれば、成すがままに通じるはずだ」
そんな相手は目の前の男にかぎられていたが、千幸は虚な顔つきで黙っていた。慈浪に要求されたとき、千幸は断る理由を探さなければならない。いっそ、人生そのものを力づくで奪われたほうが楽だった。
〘つづく〙
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