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第三章
ときしもあれ
しおりを挟む江戸の風習と文明開化がいりまじるごく始めのころ、十三歳の結之丞は、生薬を取り扱う問屋へ奉公にあがった──。
折あしく、雨がふりだした。傘をもたず呉服店を訪ねた千幸は、軒下に佇んでいた。そこへ、慈浪の命を受けた結之丞が、駆けつけた。
「お待たせしました」
「結之丞くん、わざわざ来てくれたのかい」
「はい。番頭さんから、若旦那さまに傘を届けるようにと……」
「それは、どうもありがとう」
世界における傘の歴史は古く、当初は高貴な身分の人が従者にもたせ、日除けにしていたそうだ。降水に対して(雨傘として)使われるようになる以前、日本でも直射日光を避ける日傘として用いられている。和紙に油を塗り防水性をもたせ、開閉できる和傘は、製紙や竹細工の技術の進歩により、平安時代以降につくられはじめた。華やかな蛇の目傘や骨太の番傘、屋外の茶会などで見ることができる長柄の持傘など、さまざまなかたちで普及が進んでいく。
薬種問屋の鹿島屋では、主に実用的で和服に合う番傘を利用していた。千幸は結之丞の手から傘を受けとり、「行こうか」といって歩きだす。「はい」と返事をする少年の足もとで、ピシャンッと雨水がはねた。生活態度も容姿も悪くない若旦那に、縁談は尽きない。だが、本人にその気はないらしく、いつも話は流れてしまう。まるで、薄ぐもりの空のように、若旦那の心は晴れないように見えた。しかし、大店のひとり息子である以上、いつかは花嫁を迎え、まっとうな跡継ぎを残さなければならない。それがまた、千幸の頭を悩ませているのかもしれない。
晩になって、雨は激しさを増した。屋根を打ちつける雨音は、うるさいくらいだった。奉公人が肩を寄せて寝泊まりする離れで、ちょっとした事件が起きた。雨もりである。天井の板が湿っているため、手代のひとりが押しいれの天板をはずして、屋根裏をのぞきこんだ。下でようすを見まもる結之丞は、壁に染みこんでいる箇所に気がつき、これは屋根の修理が必要だと思った。
次の日の朝、報せを受けた番頭が離れの部屋にやってきて、同じく押しいれから屋根裏をたしかめたあと、「こりゃだめだな」と肩をすぼめた。寝巻を脱いだ結之丞は、着がえの途中で手をとめた。壁紙の表面に沁みだした雨水が、なにやら人間の顔のように見えて、ゾッとした。押しいれの内部にも細い染みができているため、慈浪はすぐさま千幸へ相談し、修理人と連絡を取った。ところが、もっと早く連絡がくるかと思ったら、修理人があらわれたのは七日後だった。そのあいだにも雨はふり、壁に浮きでた人面ふうの染みは、三つに増えていた。
修理人の男は、意外と若い。いくつかの場所を点検すると、道具入れをひろげ、黙々と作業を進めた。いつものように掃除を担当する結之丞は、窓や床の雑巾がけをしながら、壁の染みは、どうやって消すのだろうと思った。雨もりの始末がすんだのは、夕刻である。折あしく、いつしか外は雨で、しかも大粒の雨水がふってくる。修理人は「通り雨でしょう」といって笑う。
夕飯を食べて離れに戻った結之丞は、塗装された壁に目を留めた。不自然に厚塗りされた部分が余計に気になるが、人面ふうの染みと目が合うことはなくなった。その日の雨は朝方までふりつづけた。真夜中に目をさました結之丞は、ザァザァと流れる雨音に耳をすませた。
〘つづく〙
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