三鏡草紙よろづ奇聞

み馬

文字の大きさ
上 下
26 / 29
第三章

ときしもあれ

しおりを挟む

 江戸の風習と文明開化がいりまじるごく始めのころ、十三歳の結之丞ゆいのじょうは、生薬きぐすりを取り扱う問屋とんやへ奉公にあがった──。

 
 折あしく、雨がふりだした。傘をもたず呉服店をたずねた千幸かずゆきは、軒下に佇んでいた。そこへ、慈浪じろうの命を受けた結之丞が、駆けつけた。

「お待たせしました」

「結之丞くん、わざわざ来てくれたのかい」

「はい。番頭さんから、若旦那さまに傘を届けるようにと……」

「それは、どうもありがとう」

 世界における傘の歴史は古く、当初は高貴な身分の人が従者にもたせ、日除ひよけにしていたそうだ。降水に対して(雨傘として)使われるようになる以前、日本でも直射日光を避ける日傘ひがさとして用いられている。和紙に油を塗り防水性をもたせ、開閉かいへいできる和傘は、製紙や竹細工の技術の進歩により、平安時代以降につくられはじめた。はなやかなじゃがさや骨太の番傘ばんがさ、屋外の茶会などで見ることができる長柄ながえの持傘など、さまざまなかたちで普及が進んでいく。

 薬種問屋の鹿島屋では、おもに実用的で和服に合う番傘を利用していた。千幸は結之丞の手から傘を受けとり、「行こうか」といって歩きだす。「はい」と返事をする少年の足もとで、ピシャンッと雨水がはねた。生活態度も容姿も悪くない若旦那に、縁談は尽きない。だが、本人にその気はないらしく、いつも話は流れてしまう。まるで、薄ぐもりの空のように、若旦那の心は晴れないように見えた。しかし、大店おおだなのひとり息子である以上、いつかは花嫁を迎え、まっとうな跡継ぎを残さなければならない。それがまた、千幸の頭を悩ませているのかもしれない。

 晩になって、雨は激しさを増した。屋根を打ちつける雨音は、うるさいくらいだった。奉公人が肩を寄せて寝泊まりする離れで、ちょっとした事件が起きた。雨もりである。天井の板が湿っているため、手代てだいのひとりが押しいれの天板てんばんをはずして、屋根裏をのぞきこんだ。下でようすを見まもる結之丞は、壁に染みこんでいる箇所に気がつき、これは屋根の修理が必要だと思った。

 次の日の朝、しらせを受けた番頭が離れの部屋にやってきて、同じく押しいれから屋根裏をたしかめたあと、「こりゃだめだな」と肩をすぼめた。寝巻を脱いだ結之丞は、着がえの途中で手をとめた。壁紙の表面に沁みだした雨水が、なにやら人間ひとの顔のように見えて、ゾッとした。押しいれの内部にも細い染みができているため、慈浪はすぐさま千幸へ相談し、修理人と連絡を取った。ところが、もっと早く連絡がくるかと思ったら、修理人があらわれたのは七日後なのかごだった。そのあいだにも雨はふり、壁に浮きでた人面ふうの染みは、三つに増えていた。

 修理人の男は、意外と若い。いくつかの場所を点検すると、道具入れをひろげ、黙々と作業を進めた。いつものように掃除を担当する結之丞は、窓や床の雑巾がけをしながら、壁の染みは、どうやって消すのだろうと思った。雨もりの始末がすんだのは、夕刻である。折あしく、いつしか外は雨で、しかも大粒の雨水がふってくる。修理人は「通り雨でしょう」といって笑う。

 夕飯を食べて離れに戻った結之丞は、塗装された壁に目をめた。不自然に厚塗りされた部分が余計に気になるが、人面ふうの染みと目が合うことはなくなった。その日の雨は朝方までふりつづけた。真夜中に目をさました結之丞は、ザァザァと流れる雨音に耳をすませた。


〘つづく〙
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

枢軸国

よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年 第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。 主人公はソフィア シュナイダー 彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。 生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う 偉大なる第三帝国に栄光あれ! Sieg Heil(勝利万歳!)

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した 若き日の滝川一益と滝川義太夫、 尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として 天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

本能のままに

揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください! ※更新は不定期になると思います。

蒼雷の艦隊

和蘭芹わこ
歴史・時代
第五回歴史時代小説大賞に応募しています。 よろしければ、お気に入り登録と投票是非宜しくお願いします。 一九四二年、三月二日。 スラバヤ沖海戦中に、英国の軍兵四二二人が、駆逐艦『雷』によって救助され、その命を助けられた。 雷艦長、その名は「工藤俊作」。 身長一八八センチの大柄な身体……ではなく、その姿は一三○センチにも満たない身体であった。 これ程までに小さな身体で、一体どういう風に指示を送ったのか。 これは、史実とは少し違う、そんな小さな艦長の物語。

天明奇聞 ~たとえば意知が死ななかったら~

ご隠居
歴史・時代
タイトル通りです。意知が暗殺されなかったら(助かったら)という架空小説です。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

処理中です...