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第一章
をさをさし
しおりを挟むおみつが老婦人をなだめるころ、結之丞は鹿島屋へ帰るため、番頭のうしろを歩いていた。豹変したおせんに首を絞められとき、死ぬかもしれないという恐怖を覚えたが、おみつに呼ばれて駆けつけた番頭により、無傷で救いだされた。動揺してすぐに礼を述べることができなかった結之丞は、慈浪の背中を見つめ、気まずく感じた。
「あ、あの、番頭さん……」
せめてひとことでも感謝の気持ちを伝えようと声をふりしぼる結之丞だが、昔ながらの瓦版屋で足をとめた番頭は、ふらっと舗のなかへはいった。うしろを歩く少年には目もくれない。結之丞は少し悩んだが、番頭のあとを追って瓦版屋の暖簾をくぐった。
平台にならぶ木版摺りした印刷物は、天変地異のほか、仇討ちや心中といった、個人の事情まで取り扱っている。とくに、男女の情交のようすを描いた春本は、いちばんの売筋である。鹿島屋の奉公人たちも、一冊の春本をまわし読みしていた。
「いらっしゃい、鹿島屋の番頭さん。たまには艶本なんてどうですか。こっちのは人気の絵師によってうつされた新版で、そりゃあ、おすすめですよ。ちょっとだけ、お見せしましょう」
若い店子は、一冊の書物を手にとり、ぺらぺらと内容を見せつけた。春本と同じく、情交中の男女のさまが煽情的に描かれている。だが、慈浪の関心はほかにあり、店子のおすすめを無視すると「これをくれ」といって、平台の隅っこにある小新聞を買いつけ、丸めて脇にはさんだ。
「毎度」という店子は、わざとらしく肩をすぼめ、慈浪の背中を見送った。やや遅れて平台の小新聞へ目を留めた結之丞は、大きな文字の見出しが気になった。店子の接客態度から察するに、番頭とは馴染みがあるようで、結之丞はなにか質問してみたい気分になった。しかし、先に舗をでた慈浪を待たせるわけにもいかず、ぺこっと頭をさげて退出した。
奉公人の多くは、朝から晩まで役割を当てられ、からだを休める時間は短い。薬種問屋の若旦那は、たとえ身分の低い使用人であろうと、年季が明けるまで(あるいは一人前となるまで)、健康面の管理は必須と考え、きちんとした配慮は為されていた。丈夫な身体あってこそ、健康的に働けるというもの。しかし、千幸こそ痩せ型で肌の色も白く、病人のような見た目をしていた。どこか弱々しい千幸から目が離せない慈浪は、寝室をいっしょにしたほうが無難だといって、今でも布団をならべて眠っている。千幸が小さいころは「寒い」といって、慈浪の布団へもぐりこんでくる夜もあった。
瓦版屋をあとにした番頭は、こんどこそ鹿島屋を目ざして歩いた。黙ってうしろをついていく結之丞は、番頭が脇にはさんでいる小新聞の内容が気になった。奉公人の外出は基本的に禁止事項とされ、雇い主の許可や同伴がないかぎり、町をふらつくことはできない。生活に必要なものはすべて用意されるため、与えられた仕事に専念さえすればよい。
チリンッと、小さな鈴の音が聞こえた。結之丞は何処ということもなく目を向けると、すれ違いざまの通行人と、からだの一部がトンッと軽く接触した。
「す、すみません」
前方不注意だった結之丞は、すぐさま謝罪して顔をあげた。だが、目測をあやまり、相手の顔を確認できなかった。もういちど見あげたものの、相手が脇をとおり抜けてしまい、どんな顔をしているのかわからなかった。むやみに足の長い男は、まだ和服を普段着とする風習が残るなか、三つ揃い(スリーピース)の背広を着用していた。
〘つづく〙
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