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第一章
怪しかるもの
しおりを挟む地方にある藤原家で長く働いたおせんは、加齢による体力の低下を理由に暇をもらい、引っ込み思案な娘と小さな家で内職をしながら細々と暮らしていた。やがて、娘に縁談の声がかかり、親戚筋の紹介を経て、本決まりとなるが、妻子に逝かれた男は、家をでて他の女といっしょになった。
「おせんさんは、どこか具合でも悪いのですか」
番頭に蕎麦処へ連れだされた後、おみつに引き渡された結之丞は、長屋ほどのせまい間取りの家で暮らす、老婦人のもとへ足を運んだ。薬種問屋の奉公人の耳が必要になる用事といえば、若旦那に相談をもちかけるまえの確認だろうかと思った結之丞は、老婦人がなにか重い病を患っている可能性を考えた。それはそれで的を射ていたが、おみつの表情は曇ってしまった。
「さすが薬種商の丁稚だね。そのとおりさ。どういうわけか、病が頭に入って、夢ばかり見ているんだよ」
「夢、ですか」
「そう、まるで純真な生娘さ」
まだ世間をよく知らず、男性と色恋沙汰の経験がない女性を、生娘と呼ぶ。おみつは、結之丞が子どもであることを気にせず、ありのままの事情を打ち明けた。
「ああ、おみつや。いたのね。そうだわ、あの人を見なかったかしら。ほら、わかるでしょう。布袋屋の書生さんよ」
思いのほか、老婦人の声は高い。突然ハキハキとしゃべりだし、結之丞の姿に気づくと、興味深そうに目を剥いた。
「あら、其処にいらしたの、書生さん。ほらほら、こっちへきて、いっしょに遊びましょう」
老婦人は手毬や籤引き、刺繍道具などをならべ、どれにしようか迷っている。ぼんやりと佇む結之丞に、おみつが「頼めるかい」と声をかけた。
「書生さんってのが、いったいどんな人物なのかわからないけれど、女じゃだめみたいでさ。若い連中もためしたけど、おせんさんのほうで怖がって、わんわん泣きだしちまってね。……それで、もしやと思って、結坊っちゃんに賭けてみたんだ」
しばらくの間、遊び相手をしてやっておくれと頼まれた結之丞は、にわかに当惑したが、「こっち、こっち」と、夢のなかの老婦人に手まねきされた。ひとまず、彼女の機嫌を損ねないよう、結之丞は書生の代わりに老婦人の遊び相手になる。
「ねえ、あさひ、見て。すてきな生地でしょう。父様が南堂で購ってくださったのよ」
書生の名前が、あさひと云うわけではない。老婦人の夢に登場する男の子は、次から次へと変わってゆく。困惑する結之丞は、おみつから湯呑みを受けとり、麦茶をひと口飲んだ。
「悪いね。身内の恥をさらすようでなんだけど、おせんさんに、なにか云ってやっておくれよ。こんなに顔色のいい日は、ひさしぶりだよ。結坊っちゃんのお陰かもしれないね。……いいかげん夢ばかり見てないで、しっかり生きてほしいけれど、娘と孫に先に死なれたら、そりゃ、つらいだろうさ。……でもね、おせんさんの人生は、まだ終わっちゃいない。終わっちゃいないんだよ」
おみつは怒ったような顔をしたかと思えば、弱々しく笑った。結之丞は気まずく感じたが、老婦人の病を治すには、夢のなかから現実へ連れもどすことが第一歩なのだと悟った。治療に通わせたくても、本人の自覚がないうちは、周りはどうすることもできない。薬種商の丁稚でも、老婦人の役に立てるというならば、結之丞は協力しようと思った。
「わかりました、おみつさん。やってみます」
結之丞は、おせんと顔と顔を合わせ、まずは「こんにちは」と、挨拶した。
〘つづく〙
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