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第一章
老婦人、おせん
しおりを挟む「ちょいと頼みたいことがあってね、あとで結坊っちゃんを、あたしに貸しておくれよ。どうしても、子どもの手が必要なんだ」
数日前、蕎麦処のおみつから、そう耳打ちをされた番頭の慈浪は、千幸に報せることなく、独断で奉公人を貸しだした。
「あの、きょうはどちらへ……」
「やまぎだ」
早足で歩く慈浪のうしろを、小走りでついていく結之丞は、息を切らせた。いつものように手代にまじってお茶漬けをすする結之丞のところへ、番頭がやってきて、朝餉がすんだら店の間にこいと云う。若旦那の遣いではなく、番頭に呼びだされた結之丞は、なにか叱られるのだろうかと一瞬、肩をすくめた。不安に思いながら顔をだしてみると、番頭は行き先を告げず、鹿島屋をあとにした。なぜか、蕎麦処のやまぎへ向かっているようだ。
銭湯で顔見知りとなった女中頭の美津子は、結之丞から見れば母親のような年齢差があるが、彼女は独り者である。結之丞のように十代前半で奉公人となった者でも、雇われ先から独立できるころには三十を過ぎており、男であれ女であれ、生涯未婚の人がほとんどだった。また、身分制度の名残りがあり、武家や商家などの中上層では、同格の家柄にあたる親からの命令婚が多くみられた。原則として家業を継ぐ長男は、血筋を存続させる義務と責任があるため、妻を家に迎えて子どもを産んでもらい、子どもは生まれた家の家族として、苗字や姓を名乗ることができた。また、民法で一夫一婦制が確立するまでの間、妾であっても経済的支援や住居を与えられ、本妻も承認していた。
「あらあ、結坊っちゃん。よくきたね」
「おみつさん、こんにちは」
「はいよ、こんにちは。新右衛門さんも、なにか食べていくかい」
やまぎの暖簾をくぐり、床几に腰をおろした慈浪は、「半時ならば、ここで待つ」と云って、いつものそばを注文した。結之丞のぶんは追加しない。慈浪は、おみつの顔を見ようとしない。きょうのこと(結之丞を貸しだす件)は番頭の独断で秘密裏に運んでいるため、そらぞらしい言動をして空気を読み取らせた。おみつのほうでもすぐにピンときて「はいよ」と愛想よく返事をすると、結之丞を見おろして、にっこり笑う。
「さあ、結坊っちゃんは、こっちにおいで。時間がないから、説明はあとまわしだよ」
おみつに急かされたので席を立つ結之丞は、知らん顔をする番頭の表情を見て、自分が連れてこられた意味を理解した。いったいなにが始まるのか少しばかり緊張しながらおみつのあとをついていくと、蕎麦処の裏手に位置する小さな家に住む老婦人を紹介された。頭部はまだ黒いが白銀の長い髪をゆるめに束ねており、濃い茄子紺の着物がよく合っている。面輪の皺が、彼女が生きる歳月をあらわしていた。
「悪いね、結坊っちゃん。このひとは藤原の使用人だったおせんさんだよ。藤原ってのは、あたしの伯母の実家で、ちょうど冬至の日の朝に、火事で焼けちまったんだ」
おみつが身内の話を聞かせる間、老婦人は結之丞の顔を熱心に見つめていた。少年の心臓はどくんどくんと強い鼓動を刻み、なんとなく気まずく感じた。おみつの話によると、おせんには孫がひとり誕生したが、麻疹により亡くなってしまい、失意のうちに肺炎を患った母(おせんの娘)も急死、母子を失った夫は、あろうことか新しい女をつくるなり、どこかへ雲隠れしてしまったらしい。それからしばらくして、老婦人のようすがおかしくなった──と。
〘つづく〙
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