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第一章
田宮家、ふたたび
しおりを挟む産後の肥立ちは、心身の状態が不安定になりやすい。菊世のお産に立ち合った千幸は、結之丞に薬箱を持たせ、田宮家に向かった。
出産を終えた女の身体が、健康に回復するまで、注意が必要である。玄関の間で正字郎と挨拶を交わし、夫婦の寝室がある奥座敷へ向かうと、菊世は母乳を与えていた。浴衣の衿から片方の乳房をだし、赤ん坊に吸わせている。ふっくらとした躰つきの母親になった菊世は、田宮家の嫡子を出産することで、長男の嫁という立場上の責任を果たしたような、どこか晴れ晴れとした表情に見えた。赤ん坊が成長するにつれ、負の因子は外的にあらわれることになるが、それはまだ当分先につき、正字郎との夫婦仲は良好だった。
「おきくさん、調子はどうですか」
「おかげさまでだいぶ安定しておりますが、ときどき、頭の芯がくらくらするようです」
「では、授乳を終えましたら、診察をさせてください。軽い貧血の症状がおありかもしれません」
「はい、よろしくお願いいたします」
千幸は布団のうえで上体を起こしていた菊世に声をかけ、枕もとへ正坐した。若旦那の斜めうしろに結之丞も腰をおろす。ちょうど千幸の細い背中が菊世の姿を遮り、結之丞としても視線が泳がずにすむ。あとからはいってきた正字郎は、元気な赤ん坊を見おろしてうなずくと、菊世にひと声かけて仕事にでかけた。千幸は、いくつか問診して母子の健康状態を横長の白い帳面に書きつけると、赤子の世話を引き継ぐ若い女中と目が合った。実際は、ちがった。女中は、なにかを云いたげな面持ちで、千幸の顔ばかり見ているのだ。
──菊世さんが嫁いできたのは一年前の春のこと。正字郎さまとの夫婦仲はたいへんよろしく、初夜におかれましても、万事滞りなくお運びのようすでした。ですが、お義父さまの菊世さんを見る目といったら、それはそれは露骨でございましてね。菊世さんも菊世さんで、この田宮家に一生を捧げるお覚悟をもって嫁いできた以上、理不尽なことが起きたとしても、そうそう騒ぎたてる真似はできやしません。……さればこそ、お家は安泰、しあわせのために文句は云わない、欲も張らない、生まれた家を恋しがらない、女の身とは、なんと不憫でごさいましょうか。
真相を知る女中は、黙々と目で語る。千幸は怪訝そうな顔をしたが、手持ちの漢方薬から菊世の体調に必要と思われる種類の包みを用意した。妙な空気が流れるなか、結之丞は、以前足を運んださいに見た、白無垢を羽織った人影の正体が気になった。目撃情報を打ち明けようにも、夢でも見たのだろうと相手にされない可能性もあり、誰にも相談でにずにいる。なんとなくおちつかない気分の結之丞をよそに、千幸は手際よく菊世の診察を終えた。
帰りぎわ、近くの神社で縁日が開かれていると教わった若旦那は、お参りをしていくことにした。結之丞は出店に気を惹かれたが、本殿に向かって手をあわせる千幸を、じっとながめた。明治の初め、政府は男性の断髪(散切り頭)を奨励したが、身分の象徴でもある髷を頭頂部で高く結いあげる髪型は多く見られた。田舎育ちの少年は何事も洗練されることはなく、ぼさっとした髪をしていたが、若旦那の毛並みには艶があり、首のうしろでゆるく結んだ髪が、さらさらとゆれていた。そのとき、結之丞は千幸の項に小さな白班があることに気づいた。ふだんは頭髪に隠れて見えないうえ、本人の目にも留まらない部位であった──。
〘つづく〙
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