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第一章
入梅の候
しおりを挟む活版印刷の小新聞に、ひと山向こうで起きた事件が掲載されている。奉公人の若い男が、主人の女房と密通して、ひどい体罰を食らった末、腸が腐って死亡したという。女房の処遇については、なにひとつ明示されていない。そして、事件から十数日が経過したのち、結之丞の目にも留まることになる──。
糸のような雨が降りつづけ、水滴に濡れた紫陽花の花が鮮やかに映る季節のこと、鹿島屋ではちょっとした騒動があった。雨夜に目を覚ました手代のひとりが、厠へ向かうと、庭木の裏に佇む人間らしき人影を見たと云う。とっさに天井の吊り洋燈を手にして周囲を警戒したが、雨で泥濘んだ地面に足跡はなく、人間らしき気配も消えていた。不審に思いつつ六畳間へ戻ると、手代の布団だけ湿っていたと云う。きちんと用を足してきた直後につき、粗相をしたわけではない。番頭に報告すると雨漏りの可能性を疑って六畳間の屋根裏を確認したが、原因は不明に終わった。
さて、若旦那のお供や掃除などの雑用係の結之丞は、店の間に立つことはなく、きょうも朝から動きまわっていた。土間に、抄子が置いていった青梅の木函がある。熟成前の果実には天然毒素が含まれているため、そのまま食べることはできない。あくまで、煤煙で燻製にしたものを生薬として役立てるための材料である。
仕入れた薬草を保存するさい、カビや虫を寄せつける湿気を防ぐため、紙袋にいれて蓋付きの瓶や缶に密閉しておく必要があった。雑紙をまとめておく場所は店の間にあり、ちょうど掃除を終えた結之丞が横切ると、番頭に新聞紙をもらってくるよう云いつけられた。
薬種問屋は、主に漢方薬の原料や、生薬の調剤品を取り扱い、町人たちへもわかりやすいよう、薬の名前や効能を書いた看板を掲げ、必要に応じて販売している。結之丞がやってくると、百味簞笥の前に立つ若旦那と目が合った。薄物を着た腰が、少年のように細く見える。
「結之丞くん、連日の雨で気温が低いから、風邪など引かないよう、気をつけなさいね」
「はい、わかりました。……あの、番頭さんに云われて、新聞紙をいただきにまいりました」
「そう、ご苦労さま。そこの収納簞笥の下段に、雑紙と一緒にはいっています。必要なぶんだけ持っておいき」
「はい、ありがとうございます」
店の間に足を運ぶたび、仕入れたばかりの包みがずらりとならび、漢方薬ならではのにおいが漂っている。結之丞は、雑紙の束を両手でつかみ、若旦那に軽く頭をさげると、番頭のところへ引き返した。廊下を移動中、一枚の紙片が腕からすべり落ちた。拾おうとして床板へ膝をつくと、記事の内容に目が留まった。
小新聞は総ふりがなの文体で、一般大衆を対象として発行されており、漢字を書けない結之丞でも、紙面を読むことはできた。奉公人死ス、という見出しに、ぎょっとなる。体罰による臓物損傷という残酷な死因だが、若い男の奉公人は、主人の女房に手をだしており、同情する者は少なかった。調べによると、若い男を誘ったのは女房のほうで、性行為は合意のうえだとも記してある。
「……主人から、……暴力を」
日ごろ、番頭にきびしく叱られることはあっても、外的な接触は、いちどもない。胸の悪くなるような記事を見てしまった結之丞は、紙片を手にして膝をのばしたとき、背後から視線を感じた。一瞬ふり返ろうとしたが、番頭を待たせてはいけないと思い、早足で戻った。
〘つづく〙
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