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第一章
丁稚の一日
しおりを挟むおかしな夢を見ただけでなく、自分の手足が勝手に動いて坪庭へ向かったとしか思えない結之丞は、井戸水で足の裏についた泥を洗ってから六畳間へ戻り、いびき音を鳴り響かせる奉公人たちに気づかれないよう、そっと自分の布団におちついた。散らかっている寝巻をたたみ、身なりを整えると、丁稚の仕事に取りかかる。
丁稚とは、商家の主人に衣食住を保証してもらい、一定の期間、無給で下働きをする年少者である。盆や暮れなど、とくべつな行事の都度、いくらか給金をもらうこともでき、ふだんの生活には困らなかった。また、仕着といって、主人から奉公人へ季節ごとに着物(股引、半天、前掛、足袋など)が与えられた。
薬種商の鹿島屋では、穏和な千幸が当主となり、奉公人へ過剰な雑務を押しつけることはなく、年少者の結之丞には、かんたんな掃除や、荷物持ち(下駄と番傘の管理)などを申しつけてある。とはいえ、器量の良し悪しを問われると、結之丞は手先がもたつくほうで、とくに諸道具の片付けは人より倍の時間を要した。番頭の慈浪に細かな見落としを注意されることは日常茶飯事で、結之丞なりに反省もしたが、若旦那のお呼びがかかると、ずいぶん気持ちが楽になった。最近では、いつ声をかけてもらえるかと、期待するほどである。
「ねえ、あんた。田宮家でのお産に立ち合ったんだってね」
台所女中のひとりが、上の間に朝食の膳を運んだあと、雑巾で床拭きをする結之丞へ話しかけてきた。
「赤ん坊が生まれる瞬間って、どうなの」
「わ、わかりません。自分は途中から眠ってしまって、おぎゃあという産声で目が覚めました」
「なあに、それ。まぬけな話ね。でも、若旦那さまは立ち合ったのでしょう」
「はい……」
「それにしても、良家の長男に嫁いで、跡取り息子を産むなんて、なんてりっぱな女なの。田宮家にとっても、たいそうな誉れでしょうねえ」
まだ二十代手前の台所女中は、嫡子を出産したことで正妻の肩書きを手に入れた菊世を、女性の鑑だと云う。女中は自由恋愛が許される身分ではないため、主人が配慮しないかぎり結婚は難しい。とはいえ、病身の妻をめとってしまった夫は、妾や女中などに手をつけて、外腹で家名を継ぐ血筋を残そうとする。養子をもらう方法もあるが、由緒正しい家柄ほど血縁にこだわり、余処者を好まない。
「あたしも玉の輿になりたいわぁ」
女中は云うだけ云って満足したのか、洗い場のほうへ向かった。すっかり手を止めていた結之丞も、番頭に見つかって叱られる前に、バタバタと足を動かし、廊下の床拭きを再開した。
奉公人の朝餉は、お茶漬けが基本である。昼は麦飯に味噌汁、おかずの小鉢と漬物、夜はお粥と鰯などの焼き魚が箱膳にならんだ。質素かと思いきや、薬種問屋らしく夏場は生姜を加えた飴湯や水まんじゅう、冬場は木の芽田楽や団子汁といった栄養補給食も用意され、空腹のまま放っておかれることはなかった。また、鹿島屋には西洋風の火舎で覆われた洋燈がいくつかある。夜になると綿糸の灯芯に火がともされ、まっ暗になる廊下の天井に吊りさげたり、茶の間や台所の光源として使われた。家々に電気が普及するまで、洋燈は照明器具として注目を集めた。
〘つづく〙
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