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第一章
蕎麦処、やまぎ
しおりを挟む銭湯で顔見知りとなったおみつは、齢十六のころ蕎麦処やまぎに住み込んで働くようになり、二十年が経過した今でも、女中頭として主人に尽くしていた。
ある日、やや曇り空となった昼過ぎ、鹿島屋の番頭は数人の手代と結之丞を伴って、となり町へ足を運んだ。おみつが働く蕎麦処は、屋台を丸ごと担いで深夜まで売り歩く夜鷹蕎麦から成り上がり、切妻瓦葺屋根の木造二階建ての店舗を構えるに至る。江戸の昔、蕎麦というと軽食(下賤の食べもの)と見なされ、身分の高い層からは敬遠されたが、庶民や男衆の腹を満たしつづけている。
「いらっしゃい、あら、新右衛門さんに結坊っちゃん、よくきたね。ちょうど魚の天麩羅を揚げたところだよ」
慈浪が戸を開けて顔をだすなり、明るい声でおみつが近寄ってきた。奉公先で結坊と親しげな呼び方をする人物は、おみつが初めてだった少年は、なんとなく気恥ずかしい思いをした。おみつは、一階の床几ではなく、二階の客間へ慈浪たちを案内すると、注文をとって調理場へ戻っていく。
まもなく、盆に載せて置かれた蕎麦が運ばれてくる。手代たちは蕎麦猪口を手にすると、箸で蕎麦をたぐり、うれしそうに食べた。魚の天麩羅を口にした結之丞は、ふしぎな食感と、あまりのうまさに感動し、眼をまたたいた。慈浪は黙々と蕎麦をすすり、時々、奥座敷のほうへ視線を向けた。
蕎麦処の二階には客間だけでなく奥座敷があり、一階で蕎麦をすする者あれば、二階で情事に浸る者ありと落語で語られるほど、色気のある空間とされている。実際、蕎麦が茹でるまでの間だけと云って、男女が愛し合った。薬種問屋の大旦那は、よく蕎麦処へ出かけていき、なにやらすっきりした顔で帰ってくることがあった。気の強い抄子を組み敷くことができない大旦那は、蕎麦処に通っては、女に手をつけていた。ときには若き新右衛門を連れだし、強引に女を紹介した。大旦那は、慈浪を共犯者に仕立てあげ、家人への口止め料を払っているつもりだった。しかし、このときの番頭には、すでに千幸に対する父性が芽生えており、女に口説かれても、淫らな真似はしなかった。
天麩羅そばを完食した結之丞は、手のひらを合わせ、番頭に向かって「ごちそうさまでした」と頭をさげた。奥座敷から着物の衿をゆるめた女が歩いてくると、目が合った手代たちは、そわそわと肩をゆらした。かつんと、廊下に珊瑚の髪留めが落ちる。「あら」と云って、前かがみになって拾う女は、わざとらしく流し目を送り、まるで奥座敷に誘っているかのような態度を見せた。勘定をするため腰をあげた慈浪は、小さく溜め息を吐いた。
大店の商家で働く奉公人は、四十近くまで家庭をもつことは許されず、未婚のままこの世を去る人数は少なくなかった。雇われた番頭や手代が独立できたのは、早くても三十を過ぎたころで、結婚したり子どもを作ったりする前に、健康でなくなる場合も多かった。
「新右衛門さん、新右衛門さん」
人数ぶんの勘定をすませ、長財布を帯に差しこむ番頭に、おみつが耳打ちをした。
「ちょいと頼みたいことがあってね、あとで結坊っちゃんを、あたしに貸しておくれよ。どうしても、子どもの手が必要なんだ」
慈浪もおみつも独り身につき、いざというときは、立場に理解を示せる仲間を頼るしかない。結之丞が外へでると、烟るような小雨が降っていた。
〘つづく〙
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