11 / 29
第一章
ゆゆしき身なれど
しおりを挟む──世間ではいろいろ云うけれど、賢しき者は閃きたる科白しか語らない。然れど人の口に戸は立てられぬ。肯綮に中れば、骨は朽ちても名は朽ちぬってね。
田宮家の帰り、結之丞は聞き覚えのある声に足をとめた。鹿島屋の垣根と小径のあいだに、長い黒髪の男が佇んでいる。西洋の外套と黒いスーツを着こなしているため、遠目からは異人のようにも見えた。結之丞の位置では逆光につき、男の顔までは確認できなかった。ひらりと外套の裾をなびかせ、曲がり角へ吸いこまれるように消えた。
「行ってしまった……。今の人、誰なんだろう……」
どこかでいちど逢っている気がしたが、いくら考えても思いだせなかった。番頭に背負われて眠る千幸は、囈語のように……まいあがりつれ……まいあがりつれと、くり返している。慈浪としては、眉をひそめるしかない。昔から、意識が遠のくたび、呪文のようなことばを発する千幸だが、あとで本人へ訊ねると、ふしぎそうに首を傾げるばかりで、なにも憶えてないと云う。
人目を避けて勝手口から若旦那を寝室へ運びいれた慈浪は、布団のうえに躰を横たおらせると、着物の帯を解いて衿をひらき、呼吸を楽にさせた。白い肌の表皮へ、筋のように浮きでた鎖骨に目が留まる。千幸は、女中が作った食事を残すことが多かった。まるで、人間の食べものでは栄養不足であるかのように、幼いころから、いくら食べても痩せていた。
「おまえはいったい、何者なんだ」
死人のような顔をして眠る若旦那の存在に、番頭の心はひどくざわついた。かつて、大旦那と抄子が納屋で口争いをしているところを横切った慈浪は、思わず扉に近づき、耳をそばだてた。
──そう、あわてちゃならんよ。起こるときには起こるってのが世の常だ。──あれが手下に知られては困るのよ。わたくしはね、万にひとつでも、恩を仇で返される羽目はごめんなの。いっそのこと御蔵に閉じこめて、見張りを立てるべきではなくて。
なにを云う、それはならん。よいか、この件に関しては今輪際、口だし無用である。あれの世話に適した男を、わざわざ探してきたのだ。なにか起きたとしても、すべての責任はあの者に被せるのが得策であろう。先祖より受け継ぐお店の安泰こそが、なによりも重要なのだ。……そんなうまいこと云って、あれは……の子でしょう。いいの、はっきり告げてちょうだい。どうせ、わたくしは跡継ぎが産めないからだなんですもの。ええ、そうよ。すべては、わたくしが招いた結果なのよ。
大旦那と抄子のあいだに、子どもはいなかった。千幸は、どちらの血筋ももたぬ養子などではなく、大旦那が妾に生ませた息子だった。鹿島屋の跡取りを身ごもった妾は、千幸を出産後、行方知れずである。抄子は、妾の子に愛情を示すことはなく、赤ん坊の世話は大旦那が雇い入れた若き新右衛門に押しつけた。
ほかの誰でもない。ずっと、慈浪が育ててきた。今も尚、いちばん近くで成長を見まもっている。番頭にとって千幸は、生涯を賭すに値する存在になっていた。
「おまえは、おれの子も同然だ」
鹿島屋に身を捧げる慈浪の真意は、大旦那への忠誠心によるものではない。
〘つづく〙
10
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
枢軸国
よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年
第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。
主人公はソフィア シュナイダー
彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。
生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う
偉大なる第三帝国に栄光あれ!
Sieg Heil(勝利万歳!)
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

本能のままに
揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった
もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください!
※更新は不定期になると思います。
蒼雷の艦隊
和蘭芹わこ
歴史・時代
第五回歴史時代小説大賞に応募しています。
よろしければ、お気に入り登録と投票是非宜しくお願いします。
一九四二年、三月二日。
スラバヤ沖海戦中に、英国の軍兵四二二人が、駆逐艦『雷』によって救助され、その命を助けられた。
雷艦長、その名は「工藤俊作」。
身長一八八センチの大柄な身体……ではなく、その姿は一三○センチにも満たない身体であった。
これ程までに小さな身体で、一体どういう風に指示を送ったのか。
これは、史実とは少し違う、そんな小さな艦長の物語。


世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる