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第一章
依りどころ
しおりを挟む菊世の初産は、暁方までかかった。赤子の出生直後の泣き声は、眠りに落ちた結之丞を目ざめさせた。いつのまにか、千幸と薬箱が視界から消えている。産婆から難産の判断を下された正字郎は、女房の容体を危惧して、千幸を寝室へ招きいれていた。若旦那は、眠ってしまった結之丞を起こすことなく、できるかぎりの役割を果たした。やがて、唐紙障子からあらわれた千幸の表情は、いくらか憔悴していた。
「だ、若旦那さま、申しわけありません……」
「あやまらなくても、だいじょうぶですよ。無事に、元気な男の子が生まれました」
「本当ですか。よかったあ」
すっかり寝過ごしてしまった結之丞だが、仮に起きていたとしても、お産の現場で力になれたかどうか不明である。昨晩、使用人たちが話していた内容や、白無垢を羽織った人影を見た記憶は、夢だったのかもしれない。赤子の誕生にホッと胸を撫でおろす結之丞は、深く考えないことにした。
田宮家じゅうに赤子の泣き声が響き渡るなか、使用人たちは忙しなく動きまわっている。玄関の間で正字郎と会話をする若旦那は、時間の経過とともに、さらに顔色が悪くなっていく。切妻破風門から外にでたとき、ついに足もとがふらついた。
「しっかりしろ」
前のめりに倒れる千幸の肩を、脇からのびてきた太い腕が支えた。
「あ、番頭さん!」
「小僧も、お疲れさん」
屋敷のなかへは足を踏みいれず、生まれたばかりの泣き声が聞こえる塀の向こう側へ耳を傾ける慈浪は、ひょいっと若旦那を背負うと、鹿島屋の方角に歩きだす。「どうして、番頭さんがここに……」結之丞は、追いかけながら訊ねた。すると、慈浪は進行方向へ顔を向けたまま答えた。
「こいつはな、医者のくせに軟弱で、いつまでたっても手間がかかる。とくに、大量の血を見たあとは、毒気にあてられたみたく、ぼんやりしちまうんだよ」
千幸は十代のころ、蘭方医たちが設立した医療集会所へ、たびたび足を運んでいた。その帰り道、うずくまって動けずにいる彼を見つけだすのは、慈浪の仕事のうちだった。
「……慈浪さん、申しわけありません」
「いいから寝てろ。そのようすだと、一睡もせずに、朝がきたのだろう」
「……ええ。……ですが、母子ともに健康で安心しました」
「そうか。よくがんばったな」
「……はい。ありがとうございます」
千幸は慈浪の背中に身をまかせ、浅い眠りにつく。お店ではいつも涼しげな表情しか見せない若旦那につき、これほど無防備な状態を目にするのは、初めてのことだった。結之丞は黙って歩きながら、ふたりの信頼関係は、番頭が努力して築いたものではないかと思った。
朝陽に反射して、薬種問屋の瓦屋根が光っている。ふたたび、まぶたが重くなる結之丞は、瞬きをくり返した。そのとき、早朝の細い路地に、白くぼやける人影があった。結之丞は気になって足をとめたが、寝息をたてる千幸を背負う番頭は、潜戸のところで身をかがめると、玄関ではなく裏口へ向かった。
〘つづく〙
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