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第一章
花嫁の角隠し
しおりを挟む夕闇に包まれて四辺は薄暗くなり、人通りもまばらになったころ、田宮家の菊世が産気づいたと知らせを受けた若旦那は、金具の把手付き薬箱を結之丞へ持たせ、急ぎ足で屋敷まで駆けつけた。
「千幸殿、どうぞこちらへ」
「お邪魔します」
玄関の間で正字郎と挨拶を交わし、夫婦の寝室がある奥座敷へ向かうと、男子禁制とまではいかないが、衛生面の配慮から、産婆と女の使用人が菊世のお産に参加していた。産医ではない若旦那は、医療的な処置が必要なときに控え、唐紙障子の前に待機する。結之丞は、千幸のとなりに正坐しておちつくと、薬箱を畳のうえに置いた。産婆の役割は、妊婦の指導から始まり、お産の取りあげや新生児の世話など、さまざまな仕事をこなすが、この時代の乳児死亡率はまだ高く、産婆の養成もじゅうぶんとは云えなかった。貧しい家では、納屋でひとり寂しく陣痛に耐えながら出産に臨む産婦も多い。
苦しげな息づかいや衣擦れの音が、障子の奥から聞こえる。断続的に悲しげな叫び声もあがり、結之丞は、成りゆきが危ないのではと気を揉んだ。いっぽう千幸は、背筋をのばして坐り、まぶたを閉じている。不必要に動じない凛とした姿勢を見た少年は、平静を取り戻した。足が痺れるのをがまんして腰をひねっていると、正字郎の目に留まり、厠の場所を教えてくれた。結之丞は用足しを口実にして立ちあがり、若旦那にひと声かけて退出した。
武家屋敷の便所は、居室と仕切られているが、家屋に一体化された配置につき、廊下の突き当たりにある。長い広縁を素足で歩いて向かうと、桝格子の付いた小窓のある厠に到着した。木綿の着物を身につける結之丞は、細長い帯を腰に巻き、余りを片なわ結びにしている。尿意をもよおしたわけではないが、汲み取り式の穴をまたいでかがみ、念のため小便をすませた。手洗い場の水を使っているとき、白無垢を羽織った人影が、床の間へ入っていく姿が視界を横切った。
暗がりに消えた花嫁を追って障子の隙間をのぞき込む結之丞は、火の灯された仏壇の蠟燭が気になった。
「おかしいな。さっき通ったとき、火なんか点いてなかったのに……」
用を足しているあいだに、誰かが床の間へやってきて、燭台の蠟燭に火を点けた可能性もあるが、広縁の空気はひんやりとして、しん、と静まり返っている。だが、床の間と隣接する襖の向こう側から、突如として、使用人と思われる女たちの話し声が聞こえてきた。
──菊世さんが嫁いできたのは、今から一年前の春のこと。白無垢の花嫁姿で、お義母さまが仕立てた角隠しの頭飾りは、とても印象に残っています。でも、女は嫉妬に狂うと、鬼になるといいますでしょう。菊世さんときたら、お義母さまの心中を察したかのように、それはもう従順で、旦那さまのお世話をしていましたから、此度の妊娠は順当というもの。……ですが、駿河の出張からお帰りになったお義父さまに呼ばれ、人気のない蔵のほうへ歩いていく菊世さんを見たあと、しばらく寝込んでいましたよね。──これ、そのような昔話を蒸し返すのは、不謹慎ではないか。たとえ父親がどちらであろうと、菊世さんが命を削って誕生するお子は、田宮家の血を引くことに変わりないのですよ。浅ましい過去を、いたずらに吹聴なさらぬように。いいですね。
なにやら、あやしい気配が濃厚だ。結之丞は、困惑ぎみにその場を離れた。
〘つづく〙
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