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第一章
めざましきもの
しおりを挟む鹿島屋に仕える女中は、三人ほどいた。上女中や下女といった区別はなく、台所や洗濯にふたりと、もうひとりはお店で接客をしている。後者の女中はおしのと呼ばれ、お世辞にも看板娘とは云えない年齢ながら、明るい笑顔で仕事をこなす姿勢に定評があった。隠居した大旦那は滅多に顔をださないが、慈浪とのたわむれが目当てと囁かれる大奥さまは、時々ふらりとあらわれた。
「お志野さん、ぼくは今から田宮家を訪ねてまいります。帰りは遅くなると思うので、戸締まりをお願いします」
「かしこまりました。道中お気をつけて、いってらっしゃいませ。……結坊、せっかくお供ができるんだ。若さまを見習って、よく勉強おしよ」
「は、はい、精進します」
風呂敷包みを持つ結之丞は、ぴしっと背筋をのばした。田宮の屋敷に向かう若旦那のお供をするのは、きょうで四日目になる。田宮正字郎は士族の長男で、女房の菊世は、お産が近づいていた。妊婦における漢方薬の服用には、さまざまな症例があり、薬種商の千幸は医学の心得があるため、商人仲間や昔のよしみにかぎり、往診を引き受けていた。
親戚筋の娘をもらった正字郎は、軍人として国家に忠誠を誓う、誠実な男である。歳は二十六にして、洒落っ気のない風体をしていた。初産となる女房の臨月に、薬種商の若旦那を呼び寄せ、世話をやかせている。というのも、正字郎の母は末の弟を授かったあと、産褥熱で亡くなり、その恐ろしい最期は、いつまでも忘れようがなかった。
「千幸殿、女房と腹の子を、どうかよろしくお願いします」
「もちろんです。最後まで、尽力させていただきます。……きょうは、こちらの漢方薬も追加で置いていきますね。かならず、使用量を守ってお使いください」
風呂敷包みをひろげる若旦那は、あらかじめ調合した漢方薬といっしょに、安産祈願の御守を添えて差しだした。田宮の屋敷に向かう途中、神社へおもむいて買ったもので、返納するさいは体調が整ってからでも問題ないと告げた。正字郎は感謝して受け取り、上体を起こしていた菊世と同時に頭をさげた。
おとなしい性格の菊世は、少年の結之丞が足もとへ坐っていようと、着物の衿をひらき、内診のあいだも声ひとつあげず、何事にも従順だった。異様なほど大きく膨らんだ女の腹部を間近で見た結之丞は、思わず目を逸らした。千幸は、遅れてきた産婆に挨拶をして退室した。
屋敷の客間へとおされたふたりは、使用人が運んできた抹茶と南蛮菓子をいただくことにした。湯気のたつ茶碗を神妙な顔で見つめる結之丞は、菊世と母親の姿を重ね、命がけで自分を出産したのだろうかと思うと、胸が苦しくなった。そのうえで、薬種問屋に奉公する意味を、改めて深く考えた。医者の助手でもない少年に風呂敷を持ち歩かせる若旦那の意図も、今更のように気になった。
心の底にある隠しごとは、いつか露見するだろう。結之丞は長考におよんだが、向かい合って坐る千幸はなにも云わず、渋い抹茶を静かに口へ運んでいた。
〘つづく〙
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