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第一章
油屋にて
しおりを挟むその日、若旦那の千幸と三上山の油屋へ足を運んだ結之丞は、熱をだして寝込んだぶん、しっかり荷物持ちの役目を果たそうと、気を引きしめた。金持ちで独り身の若旦那は、見た目のよさもあり、通り道を歩くたび、よく町娘に声をかけられた。近隣の娘たちの心を揺さぶる若旦那だが、しばらく身を固めるつもりはないらしく、やまない縁談話も断ってばかりいた。
「鹿島屋の若さま、毎度、ご贔屓に。いつもの採種油ですね。少々お待ちくだされ」
帳場に坐る老人は、奥にいる家人を呼び寄せると、「はあい、ただいま」と女の高い声がした。暖簾を手の甲で分けて、鹿の子刺繍の着物を身につけた看板娘が歩いてくる。結之丞の手から油壺を受け取り、ふたたび奥へと引き返した。灯火用として普及している魚油や採種油は、柄杓で量り売りされている。鹿島屋の台所には食用とはべつに小形の油壺があり、三上山の油を買うときにだけ、持ちだされた。
「若さま、もう聞いたかい。西の町で、腸の腐った死人がでたそうな。嘆かわしいこと、このうえない話じゃ。なんでも、木綿問屋の奉公人で、お内儀さんと密通した罪に問われ、ひどい体罰を食らったようだ」
密通とは、男女の道理に外れた肉体関係を指し、重罪とされた。千幸は、背後に佇む結之丞の手前、返すことばを慎重に択んだ。
「奉公に行った先での事故や事件は、残念ながら付きものです。どれほど汗を流しても、商いのことを覚えるまえに、病気や怪我で働けなくなることもあるのです」
いくら薬種商とはいえ、原因が不明確な流行病などには手の打ちようがない。薬種問屋の若旦那にとっては、常に情報の入手が必要不可欠であり、町を歩きまわるさいは、たとえ面白くもない噂話であっても、真剣な表情で耳を傾けた。三上山の土地に、高級な油を取り扱う専門店を構える老人は、一家で裕福な生活を送っている。奉公人の数も鹿島屋より多く、暖簾の奥は常に騒がしかった。
「お待ちどおさま。いつもの採種油です」
きりっとした眉の看板娘が戻ってきて、結之丞へ油壺を手渡した。小形の陶器だが、訪ねたときよりも、ずしっと重くなっている。蓋付きの油壺でも、天然成分の青臭さが鼻につく。千幸は三つ折りの長財布の紐を解いて紙幣を抜き取り、帳場の老人に差しだした。
「毎度あり」
筋張った細い指で算盤をはじく老人は、釣銭を用意しながら、結之丞の存在へ目を留めた。若旦那が奉公人を連れて歩くのは、今回が初めてのことではない。むしろ、店の当主は気に入った奉公人がいれば、遣いの用はなくても、常にお供をさせ、かわいがる習慣がある。早くに嫁を亡くした鹿島屋の先代は、ひとり息子を大事に育てあげた。千幸を赤ん坊のときより知る番頭の慈浪は、お店の跡を継いで当主となった彼の将来を懸念していた。
「男所帯に、女難の相あり。若さま、せいぜい気をつけなされ」
女など選り取りみどりの若旦那だったが、なにもしない態度が災いして、歪んだ憎しみを募らせている。千幸は「肝に命じます」といって釣銭を巾着袋にしまうと、自らの懐ではなく、背後の少年へ差しだした。
「これは駄賃だよ」
「あ、ありがとうございます」
結之丞は、おそるおそる片腕をのばした。手のひらに置かれた巾着袋から、チャリッと小銭の鳴る音が聞こえると、胸に抱える油壺より、小さな巾着袋のほうが重く感じた。
〘つづく〙
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