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第一章
わろし空耳
しおりを挟む奉公人を住まわせる別棟とはいえ、渡り廊下でつながっている。安静に横たわっていると、母屋から聞こえてくる声があり、結之丞の耳は、鹿島屋の人びとの会話を聞き取ってしまう。
──其処のおまえさんたち。これはこれは、大奥さまではございませんか。本日は、どういったご用件で……。氏寺のお庫裡さんから、言伝を預かってきましたの。千幸さんに、いつもの気付け薬を用意するよう、お願いね。──へい、承知しました。若旦那さまでしたら、奥の間で身仕度を終えたころでしょうか。ただいま、お呼びしてまいります。
いいえ、けっこうですわ。それよりも、新右衛門の姿が見えませんね。あの人は、どちらなの。──番頭なら、朝から裏の倉庫にいるかと。なぜ、お店に顔をださないの。それが、奉公人の小僧が寝込んでしまって、きょうばかりは人手が足りておらんのです。一昨日から始めた書類の整理が、いっこうに終わらずじまいでして……。まあ、それは大変ね。いつもお世話になっている番頭へ挨拶もなしに帰っては、気が引けるというもの。あちらが出向けないほど忙しいのであれば、わたくしが茶でも淹れて、労ってあげなくては。あらまあ、ちょうどここに、上州屋の玉露茶がありましてよ。これを、ふるまってさしあげましょう。
……ああ、行っちまった。いくら大奥さまとはいえ、言伝くらいであんなに粧しこむかいね。どう見ても、番頭目当てにちがいねえや。あの手土産だって、長居するための小道具にきまってらあ。莫迦もん、下手に勘ぐるんじゃねえ。大旦那さまにしれたら、折檻されるぞ。大奥さまの目的なんざ、知らぬが仏ってね。それに、持参品はどれも高級で、ついでにそのおこぼれにありつけるんだ。おれたちにも楽しみがあるってもんよ。それを云っちゃあ、おしまいよ。
古い女中や奉公人たちは、上背があり男前の慈浪新右衛門国光と、豊満な躰つきをした大奥さま(大旦那の女房)とのあいだには、隠し子のひとりやふたりくらいあっても、ふしぎではないと思われていた。男女の仲を疑われる要因は、大奥さま側の妙に艶のある態度が明白であり、その気などない慈浪にとっては、論じる価値もない話であった。ただでさえ、恩のある主人を騙す行為は、打首獄門というきまりがある。きびしい躾をしても、一人前の奉公人として成長する者は少ない。どんな理由があろうと、不祥事は許されないのだ。
結之丞は、煎餅布団にもぐりこむと、両耳を手のひらで塞いだ。それでも、やけにはっきりと、歌うような調子の声が聞こえてきた。
──いかならむ人にもみえて、なほにくし。さがなく悪しきとて、口惜しと思へり。さるべきにやありけむ。いと、あさまし。
〘つづく〙
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