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第一章
さてしもあらず
しおりを挟む……なじみの見世で、ひと山向こうの町の奉公人が亡くなったという話が聞こえてきてね。なんでも、ひどい体罰を食らって腸が腐ってしまい、働けなくなってからは、亡くなるまで納屋に放っておかれたとか。その奉公人がね、いよいよ臨終の間際に、はずむような声で詩を口ずさんだらしい。
と云う声の主は、若い男だった。千幸は「どんな」と聞き返そうとした口を閉ざした。誰かが死ぬたびに、経緯を長々と語られては、気の毒としか思えない。姿こそ見せないが、庭木に隠れている人影は、鹿島家の縁者である。突然あらわれては、面白くもない話ばかりを持ち帰り、ふらっと去っていく。聞かされる者は千幸だけのようで、どんな理由があっての人選なのか、さっぱりわからなかった。しかし、彼を追い払うのは難しい。つれなくもてなしては、人の魂が、あくがるるものになむありける。──地面の上に落ちる人影は、蜃氣楼のようにゆらめいていた。
庭に訪ねる者の話を聞いたあとは、坪庭へ採種油と塩を用意するという、妙な習わしがある。千幸は、隠居した父親から、密かに教わった。「いいか、安い魚油ではだめだ。かならず採種油だ。それも、三上山にある油屋で購うたものにかぎる」──と。
また、声の人物が、己の姿を見せることはない。鹿島屋の主人の座を引き継いだ千幸は、先代の云いつけにしたがい、残り少ない採種油と食用の塩を別々の小皿に用意して、坪庭の花壇の近くに置いた。採種油は高価だが、常備しておく必要がある。結之丞は寝込んでいるため、手代を遣いにだした。
朝の用足しをすませて店の間へ向かう慈浪は、坪庭に佇む若旦那のうしろ姿を見つけ、微かに眉をひそめた。千幸の表情はいつも穏やかだが、しきりとやまない縁談話を断りつづけているため、遊女と逢引しているのではと、家人のあいだで囁かれている。こじつけも甚だしい作り話が浮上したときは、慈浪が厳しく罰を当て、広がりはさせなかった。
余計なことに時間を費やした千幸は、すっかり冷えてしまった白湯を花壇へ捨てると、台所で茶碗を洗い、新しく注ぎ直した。病人のもとへ運ぼうとして廊下にでると、慈浪が待ち構えていた。
「なにかご用ですか」
「そいつを寄越しな」
「ですが、これは……」
「丁稚の面倒は、おれの仕事だ。いちいち、主人が世話をやくなよ」
慈浪は千幸の手から盆を引き取り、踵をかえした。謎の人影は、裏庭をまわって姿を消している。白湯が冷えた理由を訊ねてこない慈浪の態度は、いくらか千幸の頭を悩ませたが、「若旦那さま、朝餉の仕度が調いました。上の間へどうぞ」という女中の声で、思考は停止した。
若旦那の事情など知らずに寝込む結之丞は、ぼんやりと天井の木目を見つめていた。木の種類や切る位置によって、さまざまな年輪の模様があり、日本家屋に使われる一般的な木材は、ニレ科の欅である。簾戸を開けてはいってきた番頭は、「ほらよ」と顆粒剤の包みを差しだした。突如あらわれた慈浪に動揺して起きあがる結之丞は、礼を云いながら茶碗を受け取った。若旦那が調合した葛根湯は、初めて口にする漢方薬につき、飲み方に失敗した少年は、激しく咳込んでしまった。
〘つづく〙
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