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1657年 大友興廃記 大尾

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 世話になった佐伯の住民の先祖の名を書き終えた杉谷はすべてをやりきった充実感があった。
 竹田や野津の住人の活躍を書く予定の20巻も、殆ど書き終えているし、最終巻となる21巻の内容も粗方できあがっている。
 豊後の争乱を書き尽くした大友興廃記は21巻で秀吉の九州動座の話となる。

 このころの九州の戦乱を描いた軍記物は秀吉の九州平定で終わることが多い。
 筑後の友松玄益が書いた九州治乱記や高橋紹運の家来だった伊藤一箕の子孫が書いた高橋記などのほかに、豊後では1580年に田北家討伐に参加し、偽計でだまし討ちにした一族が島津に降伏したり寝返った後、1588年大友義統から討伐され自刃した豊筑乱記という変わり種もあるが、1588年以降の話を書いたものは極まれである。
 第一1635年に第一巻を書き始めてから21年の歳月が経過していた。

 ――そろそろ潮時だろう。

 杉谷は若いころと比べて睡眠も浅くなり、足腰も弱って来た。
 たくさんの文書を見ても頭に残るのはほんの少し。頭脳の衰えも感じていた。
 己が元気なうちに物語を綺麗に終わらせたいと願うようになっていた。

「そうですか。ついに完結しますか」
 感慨深そうに牧たち旧豊後家臣団は言う。
 彼らも大友家を盛りたてるために色々な情報を集めてくれたのだが、それももう少しで終わりとなるとさびしそうだ。
 だが、物語は終わらせてこそである。
 400年続く大友の歴史を忠実に記した本として後世に伝えるためには無駄に長く続けるべきではないだろう。
「して、最終巻はどのような話にされるのですか?」
「ふふ、大枠は他の軍記と同じじゃがな、一つだけとっておきの話があるのじゃ」
 いたずらを仕掛けた子供のように杉谷は笑う。
「とっておき、でございますか?」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 秀吉の九州動座は3月1日に大阪を出立した秀吉が大軍を引き連れて、配下になったばかりの中国地方に自分の権勢をみせつけつつ、4月に九州入りすることから始まる。
 そして豊前から筑後、肥後、薩摩を次々と平定し5月には島津を降伏させてしまう。
 この流れは他の本にも書かれており、これ以上追加する所はないだろう。だが
「まあ、そこらの詳しい話は九州治乱記や高橋記でくわしく書いておるから軽く流していこう」
 そういわんばかりに大友興廃記に書かれた内容はあっさりだ。
 長い籠城の末、逆襲に入り秀吉から「立花は九州の逸物」と賞された立花宗茂の事を当時の書状5通と共に書く。
 次に筑後の領主を操り九州を戦乱に導いた秋月文種が、秀吉の大軍の前に一戦もせず楢柴の茶入れを捧げて降参した事を次に記した。
 自分の娘も差し出して命乞いした事までは武士の情けで書かなかった。
 まあフロイスが自著で盛大にバラしたので史実と認定されたわけなのだが…

 そして5月には薩摩に追い込まれた島津義久が秀吉に降伏し九州の戦乱は終わりを迎える。
「……あれほど戦乱に明け暮れていた九州がたったの2カ月で収まると言うのも凄い話じゃな」
「快刀乱麻とはまさにこの事でしょうなぁ」
 今まで好き勝手していた大友家の敵が瞬く間に降伏していく様は書いていて気持ちが良かった。
 反乱を繰り返していた龍造寺たちも降伏し、大友家が大敗した日向では、今度は島津が敗北した。

「おお、そうじゃ。一応世話になったし藤堂様の事もかいておくかのう」

 そういうと豊臣秀長率いる軍勢が日向を攻め破った話の最後に
『その後(島津軍は日向の)根白坂に陣を取り、夜討ちして戦い屏裏に付いて登れば内から槍で突かれ、死人を足台に朝まで戦った。特に藤堂佐藤(渡)守の手柄が多かった』と書いた

 長い大友興廃記の中で剣の巻以外でである。

 他の軍記では藤堂家について一切記述されないので、これでも優遇されている方であるが、旧主の記述にしてはあまりにも少ない。
 杉谷にとって藤堂家はそこまで思い入れのあった当主では無かったのかもしれない。

「さて、戦いも終わった所で、とっておきを出すか」
 そう言いながら、杉谷は一枚の書状を取りだした。
「それは何ですか?」
 大友家旧臣の一人が尋ねる。
 そこには見た事のない秀吉の書状の写しがあった。

『1、大友休庵(宗麟)を召し寄せ右のこと申し渡せ
 1、豊後の家臣は日々覚悟を変えたが志賀太郎、佐伯太郎の両人は比類なき働きである。両人に日向の一城を褒美にし知行は休庵と談合させよ。知行の大小があるかも知れないが休庵次第である。
 1、豊後で去年以来、表裏【寝返り】をした者は城を受け取り破却するべし。その間に城を置いてはならない。城は大友左兵衛と談合せよ。
 1、日向国は大友左衛門督(宗麟)に一職出す。日向知行は休庵の覚悟次第である
 1、豊後国は左兵衛(義統)に一職出す。諸事置目は左兵衛に然るべし。

 天正15年5月13日  朱印  羽柴中納言殿』

 九州国分け案。

 秀吉が九州を平定した後にどのように国を割り振るか書いた書状である。
 フロイスによると、秀吉が4月に豊前に来た際に宗麟は銀を携え面会に訪れ、盛大なもてなしを受けている。
 その頃に骨子をまとめられたのだろう。
「このような案を提出されておられたとは…」
 大友家の中でも限られた者しかしらない裏事情に旧家臣たちは驚いた。
「これは田村様という大友家の公方衆の御子孫が」
 仮に豊後と日向を治めた場合大友家の末はどうなっていたのだろうか?と杉谷は残念に思った。
 そして
『(秀吉は上の書状を出したが)病は釈尊(ブッダ)も逃れられなかった。
 5月23日に大友休庵(宗麟)は急に亡くなり右の配当も変更となった。
 秀吉公は九州を残らず従え国主を定め、筑前国には黒田官兵衛尉を置いたり、国人に知行を安堵した。6月中旬に帰陣し京に帰った』
 と宗麟の命日を書いた。

 どんなに忠義に厚くても死んだ後はどうにもならない。
 宗麟公の墓の荒れ様をみると、いつか墓は朽ち果て彫られた文字すらみえなくなっているかもしれない。
「月命日もわからぬのは忍びないからのう」
 今は豊後中の者が知る事ながら、念の為杉谷は宗麟の命日を書き記しておいた。
 その予感は当たり、後に墓は壊れ、臼杵氏の末裔が再建している。
 それとは別にフロイスが西洋歴で命日を記していたが、どういうわけか月が違っていた。
 また大友記、豊筑乱記、九州治乱記、高橋記、立花記など、江戸時代の初期に九州豊後について書かれた軍記は多いが、
 もし、杉谷が宗麟の命日を残していなければ、どれが正しいのかはっきりしなかったかもしれない。
 ありふれた記録だが、杉谷は期せずして大友家にも多大な恩恵を与えたのである。

 なお『病気による死はお釈迦様でも避けられなかった』とわざわざ書いたのは、宗麟の死を天罰とか仏罰と陰口する者たちへの抗議である。
 これは大友家に仕えその名を惜しんだ田村への杉谷なりの恩返しだった。

「これは良い終わり方ですな」
 下書きを見た侍たちは口々に言った。
 秘伝の書を書いて、秀吉は宗麟が日向を治める事を期待していた事を示す。
 そして単身大阪にわたって呼び寄せた援軍が豊後を救った所で生涯を閉じる。
 その後の大友家の末路を知っている者たちとしては、ここで終わるのが一番良い終わり方に見えた。
「高麗出兵で改易されたり、石垣原で黒田殿に敗北する所まで書くのは蛇足というものじゃろう」
 その言葉に周りの者も同意する。

 さて、粗筋はできた。
 あとは書きかけの20巻を完成させ、翌年には大枠を決めた21巻を書けば、長い長い大友興廃記も完成である。
「やっと終わりか…」
 人生の四分の一をかけた労作も終わる。
 重い荷物を降ろせたような、すべき事がなくなるような不思議な気持ちだった。
 そして、刊行中だからこそ自分の事も少し残しておきたいという気分が頭をもたげてきた。そこで

「最後に鎮堕の滝に行こうか」

 急に杉谷は言い出した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 豊後大野の清川村の北。ここに位置する鎮堕の滝は風光明媚な名勝として有名である。
「綺麗ですねぇ」
 しみじみと同行した建治郎がいう。
「ここは島津と志賀が戦った小牧城の下流にある滝でな、関白近衛様も立ち寄られた場所なのじゃ」
「大瀑布と呼ぶにふさわしい、すさまじい場所ですなぁ」
 そう言いながら目の前の滝の様子と共に、合戦の情景を思い浮かべ筆を走らせる。
『天正15年2月15日に志賀は右田佐渡守、大森大炊助、後藤遠江守、原田伊賀守、丹肥前守、後藤美作を大将に兵1500で攻めた。小牧には一方に大河があり川下に鎮堕の滝がある』
 と、書いた所で杉谷は
「この滝は京都の近衛殿もご覧になられた滝でな、かの雪舟禅師が絵に描いたほどの絶景なんじゃ」
 とご機嫌で解説し、彼が詠んだ詩を引用しつつ、杉谷自身も漢詩を詠んだ。

 何故断言できるか?

 その時の詩を大友興廃記に書いているからである。
『予(杉谷)は豊後を去って伊勢に住み、累年を過ぎて郷里に再来した時この滝を見た。後見の讒を忘れ悪詩8句を加える』
 と前置きして
・鎮田と題す 宗重

 日暉瀑布吐長虹。千尺飛瀑一望中。六月雪花翻岩上。三冬雷皺殷天空。
 盧峯今見青山色。季滴會思遮紅。 更忘人間興尤夥。若非仙境定龍宮。
 と書いた。

 止むことのない水しぶきで虹が見え、突き出た崖から生じる飛瀑、花びらが飛び散る様は今も同じである。
 中国の詩人がそうであったように、杉谷は自分が美しいと思った沈堕の滝の姿を皆に伝えたかった。
 もうすぐ寿命で消える自分が何に心動かされ、何を見たのかを詩を通して命ある者たちと共感したかったのだろう。
「人里はなれた場所にこのような仙境みたいな場所があるとは知りませんでした」
 と言う者もいた。
 今では観光地として整備されているが、当時は人里から離れた秘境だったのである。
「そうでなければ竜宮のようじゃのう」
 と杉谷も感想を漏らす。

 ――さすがに最終巻を自分の漢詩で汚すのは忍びないが、その前の巻に8句加えるくらい良いだろう。
 
 そんな思いから杉谷は、『悪詩』と前置きして自作の詩を書いた。
 自分の著作に何かを残したいと思うのは自然な事だ。
 その題材として杉谷はこの沈堕滝を選んだのである。

「さて、それでは20巻を書き上げて、最後の話を仕上げるとするか」
 十分に滝を堪能した杉谷は川の小舟に揺られ、桃源郷から俗世に帰るかのような気分で佐伯に戻った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 こうして、大友家の興廃は最後を迎えた。
 戦国の世が終わり、大友興廃記も完結する………………………はずだった。
 しかし、それは一人の来客によって覆される。

「御免。こちら杉谷宗重先生のお宅か?」
 旅から帰って数日後、ある武士が戸口が開いた。
 小柄ながら、神経質な顔。その身に秘められた武士としての立ち居振る舞い。
 その人物を見て杉谷は言った

「そなた、田村様のご子息か?」

 大友家の筆頭家臣、田村氏にそっくりだったのだ。
「はい。父は先年亡くなりまして、それがしも家督を息子に譲りましたゆえに、このように自由に遊山できる身となりました」
 顔立ちは少し異なるが、声色はあの老人とそっくりだった。
 まるで昔に戻った懐かしさが胸中に去来する。
 そして田村氏から預かった文書を大友興廃記の最後に使用させていただくと告げると、自分はとある方の使いであると前置きし、天地がひっくりかえるような事実を告げた。


「実はですな。このたび、。」
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