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1640年 臼杵へ行く
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「近頃、豊後で牛が死ぬ奇病が流行っているそうじゃ」
と猪兵衛は言った。
島原の乱が終わった後、九州では1638年~41年まで牛疫病が流行し後半には中国地方にまで伝搬している。
病原菌の知識の無かった時代、疫病は宿主が死滅するまで手の施しようがないのでここまで流行したのだろう。
「九州は佐伯様や杉谷家の本貫地、そして佐伯の毛利様は藤堂家の盟友じゃ」
なので、病気見舞いの書状を届け、困窮の程度によっては裏での援助も検討しているという。
そこで誰かを豊後に派遣しようという話になり、猪兵衛が宗重を推挙したのだ。
表向きは観察眼にすぐれ文才があるので記録に適任と言う名目によるものだが
「まあ、その折に宗麟公が築かれた丹生島城(臼杵城)や佐伯の様子を見てくれば、次巻にも役立つのではないか」
と猪兵衛は言った。
『文など惰弱』と言った頃と違い近頃は好意的だったが、ここまで協力してくれるとは意外だった。
驚いた眼で宗重は杉谷家当主を見ると
「ワシも近頃老いてな、死後の事を考える事が増えた」
大友家が改易され、武士としての身分を失った後にがむしゃらに頑張った猪兵衛は、大阪の陣で200石の扶持を得た。
その後も鑓奉行として奉公を続けたが、この年になるまで先祖の供養に精をだしていなかった事を考え出したという。そして隠居が視野に入った時、来世の準備や先祖の追善を行うのに一番良い事はなにかと思えば自分の家の家譜を後世に残す事ではないかと気がついた。
「武家として家を残しても、大友様のように家はいつか滅びるかもしれぬ。だが物語として世に残せば家が滅びても名は永久に世に残るだろう」
自分や佐伯と同じ考えに至った猪兵衛を宗重は意外そうな目で見た。
「大友家の家臣は戦で首を挙げても領地は得られなかった。杉谷家の祖先もそうじゃ。しかし、その働きが無駄だったとはワシには思えぬ。なので、大友家の家譜を書く事は彼らの供養にもつながるのかもしれぬ」
柄にもなく弱気な言葉を吐く猪兵衛に驚いた宗重だが、近頃では田村氏だけでなく吉岡・田北などの大友の遺臣たちとの交流も増えてきた。
彼らの前で『一度も豊後に帰ったことがない』と告げるのも心苦しい。
佐伯惟重からも
「縁というのは大事なものじゃ。大友家の事を書くなら現地を見ておいた方が良いじゃろうし、佐伯以外の旧臣にも話を聞けるなら聞いておいた方が良いであろう」
と言われた。
なので、宗重は猪兵衛の好意に乗る事にした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊勢神宮への参拝記録をみると、豊後三賢人の一人 三浦梅園が徒歩で観光をしながら25日かけて伊勢に到達している。
また帰りで船を使った人間の場合、大阪まで4日歩き、船で兵庫、四国の多度津・青島に停泊した後、豊後に帰っている。船の場合移動日数は風任せになるが歩くよりははるかに楽である。
杉谷は甚吉の斡旋で最初から船で送ってもらえることになった。
「この船は大量に荷物を積めますからね。杉谷様おひとり増えたところで変わりはありませんよ」
と荷物のおまけ扱いだったのは気に入らないが、歩きは辛いので助かった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「杉谷の旦那!おはようごぜえやえす!」
そんな船旅のなか、甚吉の手代として切り盛りしている商人に妙になつかれた。
建治郎という40代の男である。
彼は姫島だか姫野だかの侍だったが、窮屈な暮らしが嫌になって商人となったという。
軽重浮薄という言葉を人間にしたような男だが、調子の良い適当な相づちに、いつのまにか大きくなるホラ話は退屈な船旅で唯一の娯楽となった。
「旦那ぁ。今日は天気が良くて富士山だって見えそうですぜ」
などと大阪に着いてから言い出したり、杉谷が大友家の家臣だったと知るや
「これは由緒正しい骨喰藤四郎の刀です」
などと手元に置いていた刀を指さして言い出した。
「伊勢からでも富士山は見えぬし、骨喰は大友様が秀吉公に銀2000斤と交換した重宝じゃ。このような場所にあるはずがなかろう」
鎌倉時代の作で『戯れに斬る真似をしただけで相手の骨を砕いてしまったため』と言われる名刀が大友家に下賜されたいきさつや、一度松永弾正の手に渡ったが大友宗麟が買い戻した話などをした。
「第一、今は徳川様に奉納されておると聞く。ここにあるならそれは盗品じゃ」
と建治郎のホラ話を否定すると
「へぇえ旦那、物知りだねぇ」
と感心される。
ずっと一緒だと少し鬱陶しいが10日の船旅で退屈はしなかった。
「そういやぁ臼杵の城と言えば、あれは亀の背中に建っている城ですからね。いざとなると陸から泳いで離れていくっていわれてますよ」
わかりやすい嘘なのでだまされる事もない。
その無邪気なホラを聞き流しながら杉谷はまだ見ぬ豊後の地へ思いを馳せるのだった。
なお、豊後には姫島という一族が存在しており、臼杵城の東端は亀首とよばれている事を知るのは現地に着いてからであった。
・・・・・・・・・・・・・
伊予を経由してきた杉谷は、まず佐賀関に到着し、そこから南下して佐伯を目指した。
「ここらは海流が早いですからね。ここで穫れる魚は身がしまって美味いですよ。臼杵の名水で造られた酒に実に合うんですよこれが」
という声が聞こえたが、それどころではない。
途中で右手に烏帽子岳という秀峰に、白木と呼ばれる入り江が見える。
その先にはウィリアム=アダムスが漂着したと言われる黒島がある。
歴史の舞台に自分は立っているのだ。
建治郎は白木の入り江を指さして
「あそこには、若林って水軍のお侍がいましてね」
「毛利軍の留守にした山口あたりを攻めて総退却させたのだろう」
「おや、ご存じでしたか」
1569年に九州に侵入した毛利軍は、この若林水軍の活躍で総退却したという。
「元々佐伯の水軍と若林水軍は近所だから仲が良くてな。あそこの烏帽子岳を佐伯様がお守りし、若林は後ろの憂い無く攻めることに専念できたと言われておる」
西にそびえ立つ峻厳なる山。
佐賀関を全て見下ろせ、四国からの船も見える高山は、本州山口からの敵も見通せたという。
筆者も2度ほど山頂に登ったが、城の東端から見渡す豊後水道の景色は絶景だった。
杉谷にとっては実際に見るのは初めてなのだが、かつて佐伯様の祖父である惟教が布陣した山を見て、己が書く歴史の舞台を訪れているのだと思うと気分が高揚してくる。
――これから見る臼杵の城はどのようなものか?
津で長いこと暮らしていた杉谷の胸は期待で高鳴った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「霧じゃな」
「霧ですねぇ」
期待した臼杵の町は朝霧でろくに見えなかった。
臼杵城は臼杵川とたたら川、海添川の3つの川が流れ込む臼杵湾の終端にある城である。
そのため時として、ひどい濃霧で覆われる。
海が埋め立てられ、川の流れが変われば改善されるのかもしれないが、今朝は夜のように一寸先も見えない。
「旦那!こりゃだめだ。北の方に泊めますぜ」
よくあることなのか建治郎は臼杵の有様をみて、素早く判断する。
着いたのは大浜という港だった。そこで待っていたが
「あそこに、山城のような場所があるが、あれが臼杵城ではないのか?」
そういって杉谷は西の山を指さす。
「あれは昔、大神の一族で大友様の分家、臼杵鑑速様のお城があった場所といわれております」
臼杵城は島城だが、こちらも立派な城であるという。
「ふむ。ちょうど船旅で体がなまっていた所だ。少し登ってみたい」
そう言うと杉谷は歩き出した。
途中で熊崎川、末広川と二つの川を超えた先にあったのは、一国一城令によって破壊された水ヶ城だった。
土塁跡がかつての偉容をわずかに残す城跡は、標高212mの高地にあり、現代では展望台となっている。
雲間から朝日が漏れだし、その熱で霧も薄れ、次第に臼杵の町が姿を現していく。
「おお!」
それは偉容と表現するしかないほどの絶景だった。
大河の中に目の覚めるような緑の山。
七つの島と、その間に並ぶ武家屋敷と商店が綺麗に並んでいた。
「臼杵は7島と呼ばれる島で成り立っております」
丹生島・竹島・松島・磯島・産島・森島・鷺島である。
現在では川から流れる砂州と埋め立てで5つの島は陸になっているが、平地の中で隆起している場所なので高地から見れば一目でわかる。
中でもひときわ目立つ大島。
「あれが……あれが宗麟公の築かれた城か」
海にうかぶ大山の上にそびえる一城。
これが宗麟が縄張りをし、太田氏が改築を加えた天然の要害。豊後随一の島城 丹生島城の姿だった。
・・・・・・・・・・・・・・
潮が満ちれば四方を海に囲まれ進入できず、潮が干けば西方に唯一の道が現れる。
神が作ったかのような最良の立地に臼杵の城はあった。
それは平地でありながら山城のような難攻不落の名城。
翼を持つ鳥でも無い限り侵攻不可の聖域のように見えた。
「これは素晴らしい城じゃな」
戦国時代の城といえば水ヶ城のような山城がほとんどだ。
政治用の館は平地にあるが、戦になれば政庁と城は切り離して運営される。
「じゃが、この島城なら築城の手間は平城と同じ。堅固さは山城以上。ううむ、良く考えておられる」
波しぶきをあげる島の麓は崖のごとき絶壁。
船で近寄るのも難しく、門以外の進入場所は蜘蛛でしか登ることはできないだろう。
「この城を作った大工は楽だったでしょうなぁ」
「それだけではない。この臼杵湾は南北の岬で包み込むような形をしておる。仮に毛利が船で攻め寄せても対岸から船が港を塞げば逃げ場がなくなる」
陸からも海からも大軍を防ぐのに適した土地なのだ。
このような場所を何故今まで城にしなかったのか不思議なほどの好立地。それを拠点にした宗麟という非凡の才がわかった気がした。
初めての豊後旅行と城の姿に感動したのか、杉谷は
『新城を欲した君が、洲の中の一嶋を見付けた。海水が四辺に張り、岩壁は堅く少ない人数で守れる。民の労役を少
なくするためだ。これは明主の智謀である』
と始まる自作の下手な詩を掲載している。
そして軍事機密であるはずの城の様子を
『丹生島は陸地を離れ、西から東に数町伸びた島。岩壁の高さは7~10間四方に巡り、満ち潮では白波が四方を洗う。岩の上は大木が盾のよう。大手口は岩壁をつづら折に切通段々の階を切り付け、一筋の橋が陸地から伸びる。
搦手は寅卯(東北東)で岩壁を穿ち「うどの口」という船手出入りの道がある。
岩を掘ると清潔な水が出て、西北の岩壁には平々たる白州があり祇園の宮があるので祇園州と名付けた。潮の境に石垣を築いてこれも城中となった。
鎮西無双の名城である。西南の陸地には町屋が軒を並べ大身小身まで私宅を構え出仕した門前の市のようで楽しみを極めた。永禄の頃、明の世宗帝の嘉靖時代、勅使が来て種々の珍宝・絵讃を献じられた。』
と細かく記載した。
スパイと思われても仕方のない暴挙である。
なお、これは戦国時代とは違う江戸時代の城の姿だが、現在残る城の姿と同じだ。
また、自分が書いた竹生氏の墓や、関白 近衛前嗣が臼杵に滞在中、茶を点てる際に好んで使ったといわれる井戸水『近衛水』なども見学した。
そうして色々書いていると
「あんた、何を書いているんだい?」
と尋ねられた。
この時期、大名の改易を望む徳川幕府は多くの密偵を放っていた。その一味かと警戒されたのだろう。
「それがしは、大友興廃記という軍記を書いておるものでして」
と素性を述べる。
「へへえ。するてぇとお偉い先生みたいなものかい」
とぞろぞろと臼杵の民が集まってきた。
娯楽に乏しい江戸時代、余所者の話と言うのは貴重であった。
興廃記に書いた話を語るとたちまち人だかりができて、警備の兵がやってくるほどだった。
その代わりに臼杵の伝承などを聞いた杉谷はこまめに書付けて津への土産話とした。
これが後の執筆で役に立つかもしれないと思いながら。
この後、佐伯へ回った杉谷は立派な城が立ちすっかり変わった城下を見ながら、坂本・佐藤・泥谷という家臣の方と知遇を得た後、津へ帰った。
思い出の佐伯はすっかり消えていた。
臼杵取材を終えた杉谷は早速6巻を出版。
取材旅行による実地記録に、田村氏から聞いた戸次鑑連が雷を斬った話などを掲載した話は、田村氏による協力もあり売り上げが過去最高を更新した。
7巻の執筆にも着手し、1641年には刊行にこぎつけようとしていた。
この時が作家としての杉谷の絶頂だったのかもしれない。
と猪兵衛は言った。
島原の乱が終わった後、九州では1638年~41年まで牛疫病が流行し後半には中国地方にまで伝搬している。
病原菌の知識の無かった時代、疫病は宿主が死滅するまで手の施しようがないのでここまで流行したのだろう。
「九州は佐伯様や杉谷家の本貫地、そして佐伯の毛利様は藤堂家の盟友じゃ」
なので、病気見舞いの書状を届け、困窮の程度によっては裏での援助も検討しているという。
そこで誰かを豊後に派遣しようという話になり、猪兵衛が宗重を推挙したのだ。
表向きは観察眼にすぐれ文才があるので記録に適任と言う名目によるものだが
「まあ、その折に宗麟公が築かれた丹生島城(臼杵城)や佐伯の様子を見てくれば、次巻にも役立つのではないか」
と猪兵衛は言った。
『文など惰弱』と言った頃と違い近頃は好意的だったが、ここまで協力してくれるとは意外だった。
驚いた眼で宗重は杉谷家当主を見ると
「ワシも近頃老いてな、死後の事を考える事が増えた」
大友家が改易され、武士としての身分を失った後にがむしゃらに頑張った猪兵衛は、大阪の陣で200石の扶持を得た。
その後も鑓奉行として奉公を続けたが、この年になるまで先祖の供養に精をだしていなかった事を考え出したという。そして隠居が視野に入った時、来世の準備や先祖の追善を行うのに一番良い事はなにかと思えば自分の家の家譜を後世に残す事ではないかと気がついた。
「武家として家を残しても、大友様のように家はいつか滅びるかもしれぬ。だが物語として世に残せば家が滅びても名は永久に世に残るだろう」
自分や佐伯と同じ考えに至った猪兵衛を宗重は意外そうな目で見た。
「大友家の家臣は戦で首を挙げても領地は得られなかった。杉谷家の祖先もそうじゃ。しかし、その働きが無駄だったとはワシには思えぬ。なので、大友家の家譜を書く事は彼らの供養にもつながるのかもしれぬ」
柄にもなく弱気な言葉を吐く猪兵衛に驚いた宗重だが、近頃では田村氏だけでなく吉岡・田北などの大友の遺臣たちとの交流も増えてきた。
彼らの前で『一度も豊後に帰ったことがない』と告げるのも心苦しい。
佐伯惟重からも
「縁というのは大事なものじゃ。大友家の事を書くなら現地を見ておいた方が良いじゃろうし、佐伯以外の旧臣にも話を聞けるなら聞いておいた方が良いであろう」
と言われた。
なので、宗重は猪兵衛の好意に乗る事にした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
伊勢神宮への参拝記録をみると、豊後三賢人の一人 三浦梅園が徒歩で観光をしながら25日かけて伊勢に到達している。
また帰りで船を使った人間の場合、大阪まで4日歩き、船で兵庫、四国の多度津・青島に停泊した後、豊後に帰っている。船の場合移動日数は風任せになるが歩くよりははるかに楽である。
杉谷は甚吉の斡旋で最初から船で送ってもらえることになった。
「この船は大量に荷物を積めますからね。杉谷様おひとり増えたところで変わりはありませんよ」
と荷物のおまけ扱いだったのは気に入らないが、歩きは辛いので助かった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「杉谷の旦那!おはようごぜえやえす!」
そんな船旅のなか、甚吉の手代として切り盛りしている商人に妙になつかれた。
建治郎という40代の男である。
彼は姫島だか姫野だかの侍だったが、窮屈な暮らしが嫌になって商人となったという。
軽重浮薄という言葉を人間にしたような男だが、調子の良い適当な相づちに、いつのまにか大きくなるホラ話は退屈な船旅で唯一の娯楽となった。
「旦那ぁ。今日は天気が良くて富士山だって見えそうですぜ」
などと大阪に着いてから言い出したり、杉谷が大友家の家臣だったと知るや
「これは由緒正しい骨喰藤四郎の刀です」
などと手元に置いていた刀を指さして言い出した。
「伊勢からでも富士山は見えぬし、骨喰は大友様が秀吉公に銀2000斤と交換した重宝じゃ。このような場所にあるはずがなかろう」
鎌倉時代の作で『戯れに斬る真似をしただけで相手の骨を砕いてしまったため』と言われる名刀が大友家に下賜されたいきさつや、一度松永弾正の手に渡ったが大友宗麟が買い戻した話などをした。
「第一、今は徳川様に奉納されておると聞く。ここにあるならそれは盗品じゃ」
と建治郎のホラ話を否定すると
「へぇえ旦那、物知りだねぇ」
と感心される。
ずっと一緒だと少し鬱陶しいが10日の船旅で退屈はしなかった。
「そういやぁ臼杵の城と言えば、あれは亀の背中に建っている城ですからね。いざとなると陸から泳いで離れていくっていわれてますよ」
わかりやすい嘘なのでだまされる事もない。
その無邪気なホラを聞き流しながら杉谷はまだ見ぬ豊後の地へ思いを馳せるのだった。
なお、豊後には姫島という一族が存在しており、臼杵城の東端は亀首とよばれている事を知るのは現地に着いてからであった。
・・・・・・・・・・・・・
伊予を経由してきた杉谷は、まず佐賀関に到着し、そこから南下して佐伯を目指した。
「ここらは海流が早いですからね。ここで穫れる魚は身がしまって美味いですよ。臼杵の名水で造られた酒に実に合うんですよこれが」
という声が聞こえたが、それどころではない。
途中で右手に烏帽子岳という秀峰に、白木と呼ばれる入り江が見える。
その先にはウィリアム=アダムスが漂着したと言われる黒島がある。
歴史の舞台に自分は立っているのだ。
建治郎は白木の入り江を指さして
「あそこには、若林って水軍のお侍がいましてね」
「毛利軍の留守にした山口あたりを攻めて総退却させたのだろう」
「おや、ご存じでしたか」
1569年に九州に侵入した毛利軍は、この若林水軍の活躍で総退却したという。
「元々佐伯の水軍と若林水軍は近所だから仲が良くてな。あそこの烏帽子岳を佐伯様がお守りし、若林は後ろの憂い無く攻めることに専念できたと言われておる」
西にそびえ立つ峻厳なる山。
佐賀関を全て見下ろせ、四国からの船も見える高山は、本州山口からの敵も見通せたという。
筆者も2度ほど山頂に登ったが、城の東端から見渡す豊後水道の景色は絶景だった。
杉谷にとっては実際に見るのは初めてなのだが、かつて佐伯様の祖父である惟教が布陣した山を見て、己が書く歴史の舞台を訪れているのだと思うと気分が高揚してくる。
――これから見る臼杵の城はどのようなものか?
津で長いこと暮らしていた杉谷の胸は期待で高鳴った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「霧じゃな」
「霧ですねぇ」
期待した臼杵の町は朝霧でろくに見えなかった。
臼杵城は臼杵川とたたら川、海添川の3つの川が流れ込む臼杵湾の終端にある城である。
そのため時として、ひどい濃霧で覆われる。
海が埋め立てられ、川の流れが変われば改善されるのかもしれないが、今朝は夜のように一寸先も見えない。
「旦那!こりゃだめだ。北の方に泊めますぜ」
よくあることなのか建治郎は臼杵の有様をみて、素早く判断する。
着いたのは大浜という港だった。そこで待っていたが
「あそこに、山城のような場所があるが、あれが臼杵城ではないのか?」
そういって杉谷は西の山を指さす。
「あれは昔、大神の一族で大友様の分家、臼杵鑑速様のお城があった場所といわれております」
臼杵城は島城だが、こちらも立派な城であるという。
「ふむ。ちょうど船旅で体がなまっていた所だ。少し登ってみたい」
そう言うと杉谷は歩き出した。
途中で熊崎川、末広川と二つの川を超えた先にあったのは、一国一城令によって破壊された水ヶ城だった。
土塁跡がかつての偉容をわずかに残す城跡は、標高212mの高地にあり、現代では展望台となっている。
雲間から朝日が漏れだし、その熱で霧も薄れ、次第に臼杵の町が姿を現していく。
「おお!」
それは偉容と表現するしかないほどの絶景だった。
大河の中に目の覚めるような緑の山。
七つの島と、その間に並ぶ武家屋敷と商店が綺麗に並んでいた。
「臼杵は7島と呼ばれる島で成り立っております」
丹生島・竹島・松島・磯島・産島・森島・鷺島である。
現在では川から流れる砂州と埋め立てで5つの島は陸になっているが、平地の中で隆起している場所なので高地から見れば一目でわかる。
中でもひときわ目立つ大島。
「あれが……あれが宗麟公の築かれた城か」
海にうかぶ大山の上にそびえる一城。
これが宗麟が縄張りをし、太田氏が改築を加えた天然の要害。豊後随一の島城 丹生島城の姿だった。
・・・・・・・・・・・・・・
潮が満ちれば四方を海に囲まれ進入できず、潮が干けば西方に唯一の道が現れる。
神が作ったかのような最良の立地に臼杵の城はあった。
それは平地でありながら山城のような難攻不落の名城。
翼を持つ鳥でも無い限り侵攻不可の聖域のように見えた。
「これは素晴らしい城じゃな」
戦国時代の城といえば水ヶ城のような山城がほとんどだ。
政治用の館は平地にあるが、戦になれば政庁と城は切り離して運営される。
「じゃが、この島城なら築城の手間は平城と同じ。堅固さは山城以上。ううむ、良く考えておられる」
波しぶきをあげる島の麓は崖のごとき絶壁。
船で近寄るのも難しく、門以外の進入場所は蜘蛛でしか登ることはできないだろう。
「この城を作った大工は楽だったでしょうなぁ」
「それだけではない。この臼杵湾は南北の岬で包み込むような形をしておる。仮に毛利が船で攻め寄せても対岸から船が港を塞げば逃げ場がなくなる」
陸からも海からも大軍を防ぐのに適した土地なのだ。
このような場所を何故今まで城にしなかったのか不思議なほどの好立地。それを拠点にした宗麟という非凡の才がわかった気がした。
初めての豊後旅行と城の姿に感動したのか、杉谷は
『新城を欲した君が、洲の中の一嶋を見付けた。海水が四辺に張り、岩壁は堅く少ない人数で守れる。民の労役を少
なくするためだ。これは明主の智謀である』
と始まる自作の下手な詩を掲載している。
そして軍事機密であるはずの城の様子を
『丹生島は陸地を離れ、西から東に数町伸びた島。岩壁の高さは7~10間四方に巡り、満ち潮では白波が四方を洗う。岩の上は大木が盾のよう。大手口は岩壁をつづら折に切通段々の階を切り付け、一筋の橋が陸地から伸びる。
搦手は寅卯(東北東)で岩壁を穿ち「うどの口」という船手出入りの道がある。
岩を掘ると清潔な水が出て、西北の岩壁には平々たる白州があり祇園の宮があるので祇園州と名付けた。潮の境に石垣を築いてこれも城中となった。
鎮西無双の名城である。西南の陸地には町屋が軒を並べ大身小身まで私宅を構え出仕した門前の市のようで楽しみを極めた。永禄の頃、明の世宗帝の嘉靖時代、勅使が来て種々の珍宝・絵讃を献じられた。』
と細かく記載した。
スパイと思われても仕方のない暴挙である。
なお、これは戦国時代とは違う江戸時代の城の姿だが、現在残る城の姿と同じだ。
また、自分が書いた竹生氏の墓や、関白 近衛前嗣が臼杵に滞在中、茶を点てる際に好んで使ったといわれる井戸水『近衛水』なども見学した。
そうして色々書いていると
「あんた、何を書いているんだい?」
と尋ねられた。
この時期、大名の改易を望む徳川幕府は多くの密偵を放っていた。その一味かと警戒されたのだろう。
「それがしは、大友興廃記という軍記を書いておるものでして」
と素性を述べる。
「へへえ。するてぇとお偉い先生みたいなものかい」
とぞろぞろと臼杵の民が集まってきた。
娯楽に乏しい江戸時代、余所者の話と言うのは貴重であった。
興廃記に書いた話を語るとたちまち人だかりができて、警備の兵がやってくるほどだった。
その代わりに臼杵の伝承などを聞いた杉谷はこまめに書付けて津への土産話とした。
これが後の執筆で役に立つかもしれないと思いながら。
この後、佐伯へ回った杉谷は立派な城が立ちすっかり変わった城下を見ながら、坂本・佐藤・泥谷という家臣の方と知遇を得た後、津へ帰った。
思い出の佐伯はすっかり消えていた。
臼杵取材を終えた杉谷は早速6巻を出版。
取材旅行による実地記録に、田村氏から聞いた戸次鑑連が雷を斬った話などを掲載した話は、田村氏による協力もあり売り上げが過去最高を更新した。
7巻の執筆にも着手し、1641年には刊行にこぎつけようとしていた。
この時が作家としての杉谷の絶頂だったのかもしれない。
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歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。
父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。
史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
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