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第78話:レウシア、契りを結ぶ

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 ぐたりと力の抜けたレウシアの体を抱き抱え、エルは何度もその名前を呼びかけ続けていた。

「レウシアさん、レウシア、さん……」

 先ほどまでの戦いで、叫んでいたせいで喉が痛い。
 ヴァルロとエインが話し込む声がやけに遠くに聞こえ、眼前の光景から、奇妙に色彩が抜け落ちていた。――〝聖剣〟を使った影響で、目がおかしくなってしまったのだろうか。

「れう、レウシアさん、起きて……」

 枯れた声で呼びかけ、竜の少女の体を揺する。
 レウシアが目を覚ます気配はなく、力の抜けた体が段々と熱を失っていく。

 じくじくと蠢いていた黒い傷痕から、ぽろぽろと鱗が零れ落ちる。
 もう傷痕から新しい鱗が生える様子はなく、じわりと赤い血が滲み始めた。

「レウシアさん、レウシアさん……起きて、起きて、もう、帰りましょう……?」

 呼びかけ、傷口を見る。
 ずっと《回復魔法》をかけようとしているのだが、聖女の白い魔力はレウシアの体を撫でるのみで、その傷は一向に塞がらない。

 本当は気が付いていた。
 ――レウシアには、《回復魔法》が効かないのではないだろうか。

「――っ」

 苛立ち、抱き寄せる。
 早くレウシアさんが起きてくれないと、起きてくれないと私は――エルは混乱した思考のなか、ふとレウシアの口元へと耳を寄せた。

「……息、してない」

 再び顔を覗き込む。
 レウシアの長い睫毛は伏せられたまま、いつもならば薄っすらと朱の差しているはずの愛らしい頬は、今は人形のように蒼白だ。

「――ッ」

 声が出ない。眩暈がする。
 思わず意識が飛びそうになり、エルはぎちりと下唇を噛み締めた。
 鉄錆の味が口内に広がり、いつの間にか、切ってしまっていたらしいとぼんやり考える。

「……ぁ」

 そうじゃない。そんなことはどうでもいい。――私が、なんとかしないと。
 必死に思考し、知る限りの知識を巡らせる。キーンと耳鳴りの音が響き、鼻の奥がつんと痛む。

 頬を雫が伝い落ち、奇妙に俯瞰したような意識のなか、エルは一つの答えを思い出した。

「――そう、だ。人工、呼吸」

 枯れた声で呟き、レウシアの顔を見る。
 あれはいったい、どうやるんだったか。

 まず、気道を確保して――考えながら、レウシアを仰向けに寝かせようとするが、翼と尻尾があるせいで叶わなかった。

 こういう場合、どうしたらいいのだろうか。
 もっとちゃんと、あの本を読んでおくべきだった。

 歯噛みする思いでレウシアを見つめ、とにかく気道が通るように、抱き抱える角度を調整する。

 一度強く瞼を閉じ――そして開く。
 血の気を失ったレウシアの唇を見据え、エルは大きく息を吸い込んだ。

 唇が重なる瞬間、ちょっとした後悔のようなものが頭を過ぎった。――こんなときに不謹慎だな。と、どこか冷めた思考で己を軽蔑する。

「――っ!?」

 パチリと、触れた唇から蒼い光が空気を奔り、エルは驚いて顔を離した。
 つっと雫が糸を引き、赤面する間もなく、光が少女たちの周囲を渦巻き始める。

「ん、くっ」

 白い魔力が勝手に溢れだし、レウシアの体へと吸い込まれていく。
 代わりに自分の中へと這入り込んでくる、得体のしれない〝流れ〟のようなものを感じ、聖女はわずかに身を捩らせた。

 風が巻き上がり、溢れた魔力がとぐろを巻いて周囲を巡る。
 異変を察したエインが振り返り、ヴァルロの怒鳴り声が響く。

「エレーヌ、てめぇなにやって――ッ」
「わか、分からないです! き、急にッ!?」

 答えつつ、レウシアの顔を見やる。
 竜の少女が目覚める気配はなく、しかし魔力は渦巻き、その小さな体に流れ込み続ける。

 ふと、周囲をきらきらと煌めきながら舞い落ちる、自分たち以外の〝力〟を感じ、エルは過去、ドワーフの島で聞いた言葉を幻聴のように思い出した。

『――我らの〝婚姻〟とは〝魂の契り〟である! さあ、乙女よッ、誓いの口づけを!』

 ユニコーンの言葉である。
 もし彼らのいう〝婚姻〟というのものが、口づけを交わさなかったあのとき、まだ結ばれていなかったのだとしたら――

「あ、ああああっ!?」
「なんだッ!? どうしたってんだッ!?」
「あ、あの! あのあのっ!? け、結婚式っ!?」
「はぁッ!? てめぇなにいってやがる!?」

 ぎゅっと抱き抱える腕に力を込め、レウシアの顔を覗き込む。
 しかし竜の少女の瞼は緩く閉じられたまま、白い魔力だけがその圧を増していく。

 黒い魔力に圧し潰され、消失した白竜の姿が脳裏を過ぎり、エルはさっと表情を青褪めさせた。
 事実、聖女の身の内に構築されつつある〝繋がり〟はとても弱々しく、自身の《神気》――白い魔力がレウシアの存在を喰い潰そうと侵食し始めているのが解る。

「れ、レウシアさん、起き、起きてくださっ、このままじゃ――」

 自分がレウシアを殺すことになってしまう。――エルの両目からとめどなく涙が流れ、霞む視界のなか伴侶を揺する。

「れう、起き、起きてよぅ……」

 枯れた涙声で呼びかけ、抱き抱えたレウシアの胸に顔を埋める。

「っ――」
「……大丈夫、ボクがなんとかします」

 ――ふと、背中に当てられた手の感触に、エルは伏せていた顔をあげた。

 聖女が振り向き、〝模造聖女〟がにやりと笑う。
 エルの背後にしゃがみ込み、その背に片手を当てながら、エインは微かに震える手でポケットから〝指輪〟を取り出した。

 レウシアを抱えるときに落としたのだろう、傍らに転がっていたエルの〝指輪〟の隣にそれを置き、灰髪の少女は慈しむように二つの〝聖剣〟に手のひらを重ねる。

「……最後に、ちょっとくらいは良い事をしたほうが、神様は喜んでくれるでしょうし」

 独り言ち、〝模造聖女〟は目を閉じた。
 エルの体から発せられる白い魔力が、エインの体へと流れ始め、〝聖剣の欠片〟へと伝い、力を霧散させていく。

「ぐっ……」
「エイン、さん? そんな、ことをして――」
「大丈夫、ですよぅ。今のボクはほとんど空っぽですし、〝聖剣〟もあります。――それに、神様は、見ててくれます、から」
「で、でもっ」
「それより、集中してください。バランスを、整えるんです」

 きつく瞼を閉じたまま、模造聖女が指示を出す。
 聖女の魔力を逃がし続けるエインの周囲を、帯電した空気が纏わり弾け、灰色の髪はさらに色彩を失っていく。

「――大丈夫。神様だってきっと、ハッピーエンドは嫌いじゃ、ないはずです」

 呟き、体内を暴れ回る〝力〟を押さえ込み、受け流す。
 蒼い稲光が〝模造聖女〟の体を這いまわり、周囲を渦巻く魔力はゆっくりとその速度を落としていく。

「が、ぐッ、がぁあああああああッ!」
「エインさんッ!?」

 バチバチと雷光を纏い渦巻き続けていた魔力が、ふいに停止し――次の瞬間、ぐん、と収束した。
 刹那の間をあけ、ぶわりと白い閃光が突風とともに謁見の間を駆け巡り、エインの矮躯が弾き飛ばされる。

 遅れて光の粒が舞い落ち消えると、残された二つの〝指輪〟は小さく床を跳ねたのち、さらりと砂に形を崩した。

「ッ――レウシアさんっ! レウシアさん!!」

 自らの身の内に確かに作られた繋がりを感じとり、エルがレウシアに呼びかける。
 竜の少女の体はぐたりと力が抜けたまま、瞼は緩く閉じられている。

「れう、レウシア、さん……」

 動かない少女の頬へ雫がぽたりぽたりと落ち続け、聖女は枯れた声でその名を呟く。
 ぎゅっと抱き寄せる腕に力がこもり、エルは今度こそ慟哭のために大きく息を吸い込んだ。

「…………え、る?」
「ひゅぃッ!? れ、レウシアさんっ!?」
「……える、おは、よ?」
「あ、あ、あ、うあ、うぁあああああああッ――!!」

 ぱちりと、レウシアが閉じていた瞼を開き、小さな声で伴侶の名を呼ぶ。
 エルは大声とともに吐き出そうとした息をにわかに吸い込み、一瞬きょとんとした顔をしたあと、すぐに声をあげて泣き出した。

「……えるの、声、聞こえた、よ?」
「あぁああああう、うあッ――はい。はい、れう、レウシアさんッ、うあ、あああうッ!」
「……える」

 竜の少女が体を起こし、聖女をぎゅうと抱きしめる。
 レウシアがエルの背中をとんとんと叩くと、抱き返される力が強くなる。

 エルの顔が首元に埋まり、レウシアはくすぐったそうに目を閉じた。
 翼を閉じたり開いたりしながら、レウシアもエルの首元に顔を寄せ、ふと気が付いたように問いかける。

「……える、びりびり、しない、ね?」
「うあ、う、はい。はい、れう、レウシアさっ、わた、私たち、ほんとに、ほんとにふうふになった、ので、もう、もうずっと、ずっと一緒に、うあ――」
「……うん」

 レウシアも自らの中に生まれた〝繋がり〟を感じるのか、エルを抱きしめ、その銀色の髪を撫でながら頷いた。

「……ずっと、一緒」

 ぽつりと呟き、レウシアはエルに顔をすり寄せる。


 ――〝魂の契り〟によって少女たちの寿命は分かち合われ、これから先、その長さの違いによってふたりが別たれることはない。

 本来ならば、相反する魔力を身に宿す彼女らが、ここまでの深さの〝契り〟を交わすことは不可能であった。

 それは〝聖剣〟による傷から限界まで魔力を消費していたレウシアに、エインという〝模造聖女〟がエルの魔力を調節し、奇跡的なバランスで合わせた結果である。

 荒れ狂う白い魔力の排出口となった〝聖剣〟は崩壊し、通路と天秤を一手に担ったエインは弾き飛ばされたときのまま、大の字に寝転がって動かない。

 聖女の魔力を大量に通過させた〝模造聖女〟の髪は、白を通り越してエルと同じ銀色に染まっており、その表情は満足げに微笑んだまま、瞼は固く閉じられていた。

 ヴァルロがゆっくりと歩み寄り、倒れたままのエインを見下ろし目を伏せる。

「……あれ? ボク生きてる?」
「うおぁッ!? なんだよ冷や冷やさせんなよっ!?」
「……いや、ほんとならそろそろ死んでるんですけど」

 体を起こし、エインがきょとんと首を傾げる。――枯渇しかけていた彼女の〝白い魔力〟は充足し、しかもどういうわけか、ちゃんと定着しているようだった。

「ほえー。これ、〝魔封具〟も必要ないみたいですね。ちゃんと自分の中で生み出して、自分の中で循環してます。暴走の危険は……まあ分かんないですけど、今のところないかも?」
「……よく分かんねぇが、まあ、よかったな?」
「ですねぇ」

 あっけらかんと答えながら、〝模造聖女〟の視線は〝指輪〟を探すかのように周囲を巡り、しかしすぐに天井を見上げる。

 いつまでも抱きしめ合っていたエルとレウシアがふと体を離し、聖女は竜の少女を見つめ、今さらながらに頬を赤らめた。

「……そういえばレウシアさん、ほとんど裸ですね」
「……ん、える、あったかい、よ?」
「そ、そそそ、そうですかっ! えと、それはいいんですけど、これを――」

 いそいそと纏っていた織布の上着を脱ぎ、レウシアの肩にかける。
 その際につい、桜色の小さな唇に視線が吸い寄せられ、エルは思い出したように本音を呟く。

「そういえば、あれが〝誓いの口づけ〟になってしまったのですか。……ほんとはもっと、ちゃんとしたキスがよかったのですけれど」
「……きす?」
「え? あ、いえその――ッ!?」
「……こう?」
「…………きゅう」
「あ」

 ちゅ、と、レウシアがエルに口づけをし、こてんと小さく首を傾げる。
 聖女はぼん! と頭から湯気を噴きそうなほど赤面すると、ぽてんと竜の少女に体を預けた。
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