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第64話:レウシアとエル、王都へ向かう

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 にゃあにゃあと、ウミネコの鳴く声がする。

 元海賊船【ムエット・ノアール】号の甲板。
 デッキブラシを携えて、レウシアはぼんやりと海を眺めていた。

 竜の少女が「くぁぁ」と欠伸を漏らすその足元では、先ほどから魔導書の独り言が続いている。

「禁書庫に保管されていたときには……いや、だが、それ以前の記憶も我にはある……これは――む?」

 港を出て、数日経ってもまだ悩んでいる様子の魔導書を、レウシアがひょいと拾い上げる。
 踵を返してその場を去ろうとする彼女の姿に、船尾のほうから声がかかった。

「おーい、新入り! そっちはもう終わったか?」
「……おわっ、た、よ?」
「ん? そうか。じゃあ飯だな、さっさと片づけよう」
「……ん、わかっ、た」

 近づいてきた義足の男にこくりと頷いてみせてから、レウシアはブラシを片手に歩き始める。
 もう一方の手で揺られつつ、ふと魔導書が義足の男――片足ニックに問いかけた。

「なあ、ところでこの娘は、本当にこの船の船長なんだよな?」
「は? いや、そうに決まってるだろう。急になに言ってんだお前?」
「急ではない。急ではないぞ……前にも訊いたが、なにゆえ船長が毎日毎日、甲板の掃除ばかりしているのだ? 他にもっと船長らしい仕事は、ないのだろうか……?」
「いや、まあ――」

 レウシアのあとに続いて掃除道具を運びながら、ニックは片目を細めて笑った。

「――おかげで前より早くなったじゃねぇか。掃除」

   *   *   *

 食堂の扉をばたんと開くと、もはや日常となった喧騒が待っている。

 ジヌイがカードを素早く切り混ぜ、自分のほうから先に配る。
 するとエルがさっと手を伸ばし、己の手札とジヌイの手札、そのカードの位置を入れ替えた。

「あ? お、おいエレーヌ、なにやって――」
「見えてましたよ? いま混ぜるとき、一番下にあったカードを、一番上に持ってきましたよね?」
「そ、そんなこと……」
「だいたい、あなたいつもはカードを配るとき、私のほうから先に配るじゃないですか」
「いや、その……」
「……不戦勝ですね。――あ、レウシアさん! すぐにご飯を持ってきますね!」

 食堂を訪れたレウシアに気づき、エルが笑顔で席を立つ。――その際に、賭け金のコインを回収していく。
 ぷるぷる震える片犬耳のジヌイを見やり、禿頭の男が噴き出した。

「ダッセェ!」
「う、うるせぇこのハゲ!!」

 レウシアが空いている席に腰かけると、近くのテーブルに突っ伏していたローニが顔をあげる。
 彼は隈の浮いた目を爛々と輝かせ、興奮した様子で口を開いた。

「やあ、竜人ドラゴニュートのお嬢さん、聞いてくれよ! ついに、ついに完成したんだよッ!!」
「……?」
「なにって、真水を作る装置さ! これで体を洗えるよ!! それにね! もしかしたら、もうすぐもっと凄い物もできそうなんだ!!」
「……?」
「そうなんだ! 画期的な発明だよ。名付けて〝魔導蒸気機関〟さ!!」

 無言で首を傾げるレウシアに、カザドの紳士は一方的に話を続ける。
 どうやらまた寝ていないらしいローニの隣で、ぐったりとしたメメリが呟く。

「どっちもあたしが動かすんですけどね……料理人のはずなのに、あたしは料理人のはずなのに……」
「いや、きみには錬金術の才能がある! 一緒に未来を切り開こう! おっぱいの大きいお嬢さん!!」
「嫌ですよぅ……」

 やがてレウシアの前にことりと木皿が置かれ、エルが隣の席に腰かける。
 配膳されたじゃがいものポタージュを食べようと、竜の少女はスプーンを探す。

「……すぷーん、ない?」
「はい、レウシアさん。あーん」
「……える」
「あーん」
「……える、すぷーん」
「あーん、ですっ!」
「……あむ」

 差し出されたスプーンを口に咥えたレウシアを、エルはうっとり笑顔で見つめる。

「あのぅ、それって、どうやってるんですか?」
「……なにか? ふうふなんですから、これくらい普通です」
「いえ、そうじゃなくて……」

 メメリがぽつりと尋ねると、エルはきっぱりとした口調で返答した。
 巻き角少女は視線を聖女の腕に――正確には、その手に持たれたスプーンに向けて、不思議そうに問いを重ねる。

「……だって、エル様の魔力が神様の魔力を弾いちゃうのは、服の上からでもダメみたいなのに、なぜだかスプーンには魔力が伝わってないじゃないですか?」
「へっ?」
「あの、それってもしかして、練習したら体の外に出る魔力をコントロールして、弾いちゃうのを抑えられるようにできるんじゃないですか……?」
「うん? 魔族の娘よ、お前魔力が見えて――」
「それですっ!!」

 エルがにわかに立ち上がり、びっとメメリにスプーンを向ける。
 レウシアは遠ざかったスプーンを見つめ、それから器に視線を戻すと、結局それを両手で持ち上げ、ごくごくとポタージュを飲み干した。

「あっ!? もう、レウシアさ――」
「……それに、それができなくても〝防魔布〟を使えば……。貴重な布ですから服は無理でも、手袋くらいなら手に入るかもですし」
「っ!? そ、それはどこで売ってるんですか!?」
「……えっと、魔族の国には、ありましたけ――わきゃっ!?」
「魔国っ!? 魔国へ行けば売っているのですねっ!?」

 テーブルの上に身を乗り出し、聖女が魔族の少女の角を掴む。
 行儀の悪いエルの所業に、見かねたヴァルロが声をかける。

「おい、エレーヌ、食卓の上に乗るんじゃねぇよ!」
「ヴァルロさん! 大変ですっ! いますぐ魔国へ向かわないと!!」
「ああ? ふざけんな。仕入れた品を売っちまわねぇと、俺ら全員干上がっちまうぞ! だいたいエレーヌ、てめぇが大量に仕入れたあの石、あれはどうやって捌くつもりなんだよ?」
「え……あれはその……記念に……」
「あん? 記念だぁ? ラヴィアハン土産ってレベルの量じゃねぇぞ!」
「え、えへへ……」

 目を逸らし、エルがごまかし笑いを顔に浮かべる。
 彼女が【ロー・ラヴィアハン】及び、港で購入した〝黒竜の目玉石〟入りの木箱は、船倉の一角を少なからぬ範囲占領していた。――支払いはすべて司教アロイオのポケットマネーである。

「き、綺麗な石ですし、きっと王都でも売れますよ! それにあの石、レウシアさんが魔力を込めて、私が《神気》を込めると光るんですよ? 二人のその、あ、あい、あい――」
「うざってぇな! なんだよ? さっさと言え」
「――愛の結晶ですっ!」
「ああ、そうかよ」

 嘆息し、ヴァルロがぼりぼりと頭を掻く。
 傍から見れば辟易するほど仲睦まじい彼女らを見据え、元船長は忠告の言葉を口にする。

「あのな? 言っておくが、王都に着いたらいつものべったりはやめておけよ? あの司教のジジイだって、お前ら二人の様子を見て、魔国に亡命するつもりだと勘違いしたフシもあるんだからな? たしか同性婚は認められてねぇんだろう? 〝教会〟の連中の教義ではよ?」
「……それは、そうですけど」

 目を伏せて、聖女が頬を膨らます。――そんな教義の教会の聖女が、同性の、それも竜人ドラゴニュートと結婚しているなど、王都の人間にバレれば面倒事になるのは明白だった。それがたとえユニコーンの執り行った、即席の婚姻関係だとしても。

「でも、だからこそいまのうちに……」
「あん? なんだよ?」
「っ、なんでもないですっ!!」
「そうかよ。つーか、いい加減離してやれよ?」
「あ、忘れてました」
「あうっ!?」

 ぱっと角を手放され、メメリががくんとテーブルに突っ伏す。――ヴァルロに注意されたのは心外だったが、確かに掴みやすい角だった。

「……さーしゃ、元気、かな?」
「え? ええ、きっと会えますよ。先に王都に、着いているはずです」

 レウシアに問われ、エルが僅かに目を伏せる。
 赤毛の傭兵がどうなったかはわからないが、まさかレウシアとエルがいなくなったせいで、罪を着せられたりしていないだろうか。――少し心配になりながら、エルは無理やり笑顔を作る。

「大丈夫です。なんとか、なるはずです」
「……ん、そうだ、ね」

 いざとなれば、サーシャも誘ってこの船で旅に出ればいい。〝聖女〟の役目が〝聖剣〟で魔王を討伐することだと、司教アロイオの話で知ったときから、エルはこっそりとそんな考えを胸に秘めていた。

 ――とにかく、指輪を王都へ持ち帰ろう。そして《禁書庫》を閲覧して、過去の聖女がどうなったのか、すべての真実を探ってみよう。

 最初に与えられた〝使命〟による無意識の刷り込みと、本当のことを〝知りたい〟という欲求が、いまのエルを突き動かしていた。

「……んっ」
「レウシア、さん?」
「……だいじょう、ぶ」

 すっと手を伸ばし、レウシアがエルの髪に触れる。
 魔力を抑えることはすぐにはできず、白い《神気》が彼女を弾くが、竜の少女は柔らかく、安心させるように聖女エルへと微笑んだ。

「……だいじょう、ぶ、だよ?」
「はい。これからも、一緒ですよね?」
「……うん」

 見つめ合い、互いにこわごわと手を伸ばす。
 触れ合おうとする少女たちに挟まれて、魔導書がぼそりと独り言ちる。

「だから我、凄くいづらいんだが……」

 ――海賊船改め、商業船【ムエット・ノアール】号が海を征く。
 王都付近の港はもう、明日には見える頃だった。
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