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第61話:レウシア、魔導書を盗まれる

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 月明かりが、カーテンの隙間から薄く漏れている。

 部屋の中、淡い斜光は空気中の埃をきらきらと煌めかせ、まるで舞台照明のようにベッドの一点を射していた。

 微かな衣擦れの音とともに、月の光のスポットライトが少女の寝顔を照らし出す。
 艶やかな黒髪が寝返りとともに白いシーツに広がって、竜の少女はむにゃむにゃと口を動かしながら、ぎゅっと自らの尾を抱きしめた。

「……える、きーちご」

 レウシアの口が甘えるように寝言を漏らすと、それに返答する声がある。

「……しあさ、ん……だめ、それ、は……」

 やがて、きぃ、と扉の開く音がして、部屋にランタンの灯りが忍び込む。
 すぅっと音もなく伸びた手の影が、スツールの上の魔導書を掴み取り、さっと扉の向こうへ消えた。

 ――次の瞬間、廊下に響く書の大声。

「何者だっ!? 我を一体どうするつもりだッ!?」
「食べちゃダメですっ!?」

 がばりとエルが起き上がり、慌てて隣のベッドを見やる。
 次いでスツールの上に視線を移したエルはさっと顔を青褪めさせると、寝ているレウシアのベッドに飛び乗って、彼女の両肩をがしっと掴んだ。

「ダメですレウシアさんっ、ぺってしてください! ぺって!!」
「ぴっ!?」
「あだっ!?」

 レウシアが跳ね起き、その頭がエルの顎を強打する。
 寝惚け聖女が自分のベッドに尻もちをついて帰還する傍ら、同じく寝惚けたレウシアが、彼女らにあてがわれた寝室内をきょろきょろ見回す。

「……きーちご、ない」
「れ、レウシアさん、魔導書さんがっ!」
「……それも、ない」
「た、食べちゃったんですか!?」
「……たべて、ない」

 焦った様子のエルの問いに、竜の少女はくしくしと目元を擦ってぼんやり答える。

 そして再びスツールの上を見て、そこにあるはずの魔導書がなくなっていることに気がつくと、レウシアはお腹を押さえて首を傾げた。

「……たぶ、ん?」
「――お前らッ! 無事かッ!? なにがあった!?」

 次の瞬間、ばたんと扉が勢いよく開き、ヴァルロが部屋を覗き込む。
 エルはぎょっと目を見開いて、乙女の寝所に乱入してきた不届き者を見咎めた。

「なッ、ヴァ、ヴァルロさん!? なんですかこんな夜中に!?」
「そりゃこっちの台詞だッ! あの本の叫び声と、ばたばた走る音がしてたぞ!!」

 怒鳴るエルをじろりと見据え、ヴァルロが大声で言い返す。
 二人の様子をぼんやり眺め、レウシアは「くぁぁ」と欠伸を漏らすと、ベッドの上から床へと降りて呟いた。

「……なん、か、聞こえる」
「へ? いえ、なにも――」
「……めめ、り?」
「えっ!?」

 とてとてとレウシアが扉へ向かい、体を退けたヴァルロの横を通り過ぎる。竜の少女はゆらゆらと頭を揺らしながら、暗い廊下の先を指差す。

「……あっち、だ」
「あん? 向こうは外だろ……つーか、一体なにがあったんだよ?」
「魔導書さんがなくなったんです!」
「はぁ? マジか? あ、おい――」
「あ、レウシアさん待って!」

 怪訝な顔で部屋を覗き込もうとするヴァルロを置いて、さっさと廊下の先へと進むレウシア。
 そのあとを追ってエルが廊下へ出ていくと、元船長は深い溜息を吐き出した。

「……さっきレウシアはメメリつったな。考えたくねぇが、金に困って魔導書泥棒か? でもありゃ中身は日記だぞ……?」

 ぼりぼりと頭を掻きながら、廊下の先へヴァルロも進む。
 辺りは暗いが、窓から射し込む月明かりのおかげで歩くのに困るほどでもない。

 踏みしめる木板がきぃきぃ鳴って、ヴァルロは苦々しく顔をしかめながら、扉の開いたメメリの部屋の前を通り過ぎる。

「――だ――それ――かえ――」

 ――廊下の先から、少女たちの話し声。
 微かに聴こえた声には言い争うような響きがある。ヴァルロはにわかに歩調を速めた。

「おいっ! どうした!?」

 廊下を抜け、外へ出る。木々がざわめく視界の先で、ばたんと教会の扉が閉じられる。――チッ、と舌打ちの音が漏れ、ヴァルロは腰の剣を確かめてから、閉じた扉へ足を速める。

「おいっ、レウシア! エレーヌ! ッ、なん、クソッ――」

 低い階段を跨ぐように駆け上がり、教会の扉を開いた途端、ヴァルロは眩しさに目を細めた。
 燭台に灯された蝋燭の炎を片目で見据え、自らの軽率さに悪態を吐く。

「――全員動くんじゃねぇ!!」

 すらりと剣を鞘から抜き放ち、ヴァルロが威嚇の言葉を口にする。――暗闇に馴染み過ぎていた目を何度か瞬き、祭壇のほうを睨みつける。

「ヴァルロさ――きゃっ!?」
「メメリさんっ!?」
「くっ――」

 揉み合いになっていた白い服の老人とメメリが驚き、一瞬のあと、老人がメメリを突き飛ばした。

 ばさりと落ちた魔導書を素早く拾い上げ、神官服の老人――司教アロイオは少女たちから逃げるように祭壇側へと距離をとる。

「司教様、どうして!?」
「あのあのっ! それは神様の本さんですっ」

 驚愕の表情で司教アロイオを見つめるエルとメメリ。
 レウシアはこてんと首を傾げて、彼の老人の手の中にある、自分の日記を不思議そうに眺めている。

「ああ? チッ、なんで司教のジジイが――」

 呟きながら、ヴァルロは少女たちのもとへと駆け寄った。
 司教アロイオはじりじりとさらに後退りながら、困惑した顔で魔導書を見やる。

「これさえあれば、なんとかなるはずが――くっ、どうして、この魔導書が言葉を話すのですかッ!?」
「偉大なる魔導書だからに決まっているだろうが! どういうつもりか知らぬが、さっさと我を離さんか!!」
「禁書庫に保管されていたときは、意思など持っていなかったではありませんか……」
「っ!? なん――」

 司教アロイオの呟きに、魔導書が言葉を詰まらせた。
 ヴァルロが老司教をぎろりと見据え、カトラスの柄を握りなおす。

「てめぇ、どういうつもりか知らねぇが、覚悟は――」
「っ――ヴァルロさん、待って! 司教様、これはいったい――」
「来ないでください!」

 エルが近寄ろうと足を踏み出すと、アロイオは片手を前へ突き出し叫んだ。
 老司教は手の中の魔導書をちらりと確認してから、次いでメメリへ視線を移す。

「……これは、その娘のためでもあるのです」
「っ!? それは、どういう……?」
「意味がわかんないですよっ!? 泥棒さんはダメですっ、神様にそれを返してあげてください!」
「――神、とな?」

 アロイオはメメリの言葉に訝しげに目を細めると、まるで己を鼓舞するように深く息を吐き出して、じろりと魔導書へ視線を戻した。――書を掲げ、老司教はぼそりと呟く。

「神、か……これは、主への裏切りかもしれませんね」
「なにを言って――」
「さあ、魔導書よ!」

 悲痛な決意を声に滲ませ、司教アロイオが高らかに宣言する。

「私の中にある〝魔族〟に関する記憶を、すべて封印しなさい!!」

 蝋燭の灯りが蒼いステンドグラスに反射して、揺らめく光が老人の影を淡く染め上げた。
 司教の声が聖堂内にこだまを響かせ、魔導書がぽつりとそれに答える。

「……いや、我そんなことできないんだが」
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